密猟者
聞こえてきたのは、建物が崩れるような轟音と、人の悲鳴――。
それもひとりやふたりのものではない。何十人もの人間が、命がけで逃げまどう叫喚だった。
階段を駆け降り、長い廊下を駆け抜けたジークは、その勢いのまま表に飛びだした。
「うわっ――!」
空を切るうなりとともに、前方から何かが飛んでくる。
それが人間だと気づいたジークは、避けるかわりに全身で受け止めた。
自分より体重のある男の体を抱きとめて、一緒になって地面を転がる。
手から離れたモップが、からからと音を立てて跳ね回った。
「つっ……。――ビル? ビルかっ!?」
昨日ジークが世話になった、あの男だった。
「ビル――おいビル!」
男はうめき声をあげながら目を開いた。
下になっているジークを、その目がとらえる。
「ジ……、ジークか……」
「おい! しっかりしろよ! なにがあったんだ!」
「や、やつらだ……《ストーカー》のやつだ……」
「《ストーカー》だって!?」
新たな悲鳴があがる。
反射的に顔を向けたジークは、そこに異様な物体を見て体を硬直させた。
それは巨大な肉のボールだった。
紫がかった肉色の表面は、粘液で覆われてぬらぬらと光り輝いている。それが内臓を思わせる動きで、絶えず打ち震えている。
しかもそいつは、なんの支えもなしで空中に浮かんでいた。
小さな家ほどもある肉塊が空中を滑るように漂ってゆくのだ。
ビルを抱き起こした姿勢のまま、ジークは長いこと硬直していた。
怪物は宙に浮きながら、ゆっくりと遠ざかっていこうとしていた。
通りをまっすぐに進んでゆく。
助けを呼ぶ悲鳴が、いくつも聞こえてくる。
何人もの人間が怪物に捕まっているのだ。
男と女の区別なく、ぬらつく表面から伸びた細長い触手に搦め捕られている。
一本の触手に捕らえられた男が、手足を振り回しながら、切れ切れの絶叫を喉から絞り出していた。
肉の表面に細かいさざ波が走り、肉襞がぱっくりと割れるように裂ける。
ぎょろりと、眼球が出現した。
人の頭よりも大きな眼球が、触手につかんだ男をしげしげと眺める。
「なっ、なにをしてるんだ……。あいつは?」
「し…、品定めしてやがるのさ……。獲物の出来を……」
肘をついて身を起こしたビルが、ジークに言う。
「やつらは密猟者だ。E公どもに希少種保護を受けてる俺たちを、ああして……どこからか〝穴〟をあけて、密猟しにきやがる」
通りの一角に、その〝穴〟は存在していた。
空間をぽっかりと切り抜いたように、どこへ通じるとも知れない淵が開いている。
悲鳴があがった。
怪物の触手が、つかんでいた男をぽいと投げ捨てたのだ。
男はかなりの高さから路面に投げだされた。
苦痛のうめきをあげながら、地面を這って少しでも怪物から遠ざかろうとする。
「へっ……お気に召さねぇとよ! 俺たちみてぇな絞りカスじゃ、ファックの相手にならねぇとよ!」
ビルの声には、屈辱の響きがこめられていた。
怪物は捕らえた人間をひとりひとり検分しては投げ捨てていた。
そうしながら大通りを遠ざかってゆく。
逃げ遅れた人々を次々と捕まえては、犠牲者を増やしてゆく。
「ちくしょう! E公どもめ、なにしてやがるんだ! とっととやってきて、あのクソ虫を連れていきやがれ!」
「E公……? エイリアンが来るのか? 連中がどうにかしてくれるのか?」
「ああ! 前のときもそうだったさ! だが連中が来るまでに、何十人も大怪我をした。死んだやつもいる。こんどは何百人になるか……」
「そうか……」
ジークはビルをその場に横たえると、すっくと立ち上がった。
近くに落ちていたモップを拾いあげる。
「おい、なにをするつもりだ?」
ジークはモップを地面に打ちつけて、先端の部分をへし折った。
槍のように右手に持って、バランスをはかってみる。
「よせ! そんなもんでかなうわけないだろ! やつらが来るまで放っておけ!」
ビルがそう叫んだ時――。
「待てよイーニャ! 外に出たら危ねぇ!」
「離して! ジークが! ジークが外に――」
建物のほうから言い争う声が聞こえてきた。
イーニャとジムのふたりの姿が見える。外に出ようとするイーニャを、ジムが懸命になって引きとめている。
「ジークっ!」
長い髪を振り乱して、イーニャが叫ぶ。
彼女は何を思ったか、手にしたバッグをジークに向けて投げつけてきた。
バッグはジークまで届かず、途中で地面に落下した。
転がったバッグから、レイガンが滑り出してくる。
スチールブルーの鈍い輝きを放つ銃は、ジークの足元まで滑ってきて、そこで止まった。
「これは、オレの……?」
ジークはレイガンを拾いあげた。ずしりとした重みが手に伝わってくる。
モップを捨て、かわりにレイガンを握りしめる。
怪物に顔を向けたまま、ジークは背中ごしに言った。
「ジム、ふたりを頼む――」
「ああ、任せろ……。信じてるぜ、おめえならきっと――」
「待ってジーク! 行っちゃだめ! 待って、まだ――」
ジークは走りだした。
通りを下っている怪物を、レイガンを片手に追いかける。
怪物の後ろから充分に近付いて、立ちどまる。怪物の背中――と呼べるのだろうか――に向けて、レイガンを構える。
「おい! こっちだ!」
引き金を引いた。
鮮やかなブルーのレーザーが、怪物の体に命中――する寸前で、跳ねかえった。反射したレーザーが、空に向けて真っすぐ伸びてゆく。
「ちっ――!」
ジークは舌打ちした。
予想した通りのことが起きてしまった。
かりにも相手が《ヒーロー》の力を持っているなら、起きて当然のことなのだが――。
ジークはトリガーを何度も引いた。
銃身が加熱し、陽炎が昇りはじめる。
物理法則をねじ曲げる《力》は、レイガンのビームなどまるで寄せつけなかった。
戦艦の主砲を持ってきたとしても同じことだったろう。《ヒーロー》の《力》とは、そういうものだ。
かちり――と、トリガーがむなしく音をたてた。
弾丸切れだ。
シリンダー・ブロックに装填されている弾丸は八つだけだった。
予備はない。時の彼方に忘れてきてしまった。
だがそれでもジークの目的は果たせたようだった。
怪物の動きが止まる。空中に静止したまま、背中でもかくように触手をうごめかせている。うごめく肉襞の表面に、一本の亀裂がはいった。眼球が出現する。
その眼が、ジークを捉えた。
《――お前を知っている》
思念が直接、ジークの頭の中に響いてきた。
外部から無理矢理に入力される異質な思考が、ジークの脳髄を鷲づかみにした。
人間とは比較にならないほど強靭な精神――それが放つ思念に、完全に捉えられてしまった。
注意を引きつけて逃げまわろうという小賢しい作戦など、瞬時に消し飛んでしまう。ヘビに睨まれたカエルの気分がどんなものか、ジークは思い知らされることになった。
《我は、お前を知っているぞ》
怪物の体が、振動をはじめた。
触手の先端からはじまった震えは、やがて怪物の全身に広がってゆく。
青黒い粘液を振りまきながら、肉塊はぶるぶると大きく震えた。
もしもこの怪物が人間と同じ感情を持っているとしたら、それは喜びの表現に違いない。
触手に捕らえられていた人間が、ぼとぼとと地上に落下する。
縮みはじめた触手は、肉塊の表面に吸いこまれてゆく。
眼も消えて、触手もなくなった怪物は、完全な肉のボールと化していた。
震えはさらに大きくなった。
振動のひとつひとつが、ボールとなった怪物の形を歪ませるほどだ。
表面の一部が角のように突き出したかと思うと、そのままの形で固定した。
左側に一本、そして右側にも一本――。
下のほうでも、おなじようにして二本の角が伸びだした。
ボールから角に向けて、肉が――ずずっと移動してゆく。
適度な肉が移動を終わると、粘膜に覆われた表面が硬化をはじめた。
そこにあったのは、硬い表皮におおわれた手足だった。
いちばん最後に、頭が生じる。
山羊のように曲がった二本の角が、頭頂の甲皮を突き破ってぐんぐんと伸びだしてくる。
どういうわけか、片側の一本は根元からぽっきりと折れていた。
さらには顔に生まれた二つの眼のうち、片方も無残に潰れていた。
《この傷を与えたお前を、我は知っている。この痛み――お前の血肉で癒してくれよう》
怪物の思念に捕らえられて、ジークは立ちすくんでいた。
その時、イーニャの声が聞こえてくる。
「ジーク! これを――」
何かが投げつけられた。
それはだらりと下がったジークの腕に絡みついた。
目は動かせなくとも、視界の隅で見ることはできた。
手首に巻きついた鎖の先で、小さなインゴットが揺れている。
それは銃とともに時の彼方に失くしたと思っていた、あのペンダントだった。
ジークの心を占めていた恐怖と絶望に、ひと筋の希望がさしこむ。
――光ってくれ!
ジークは祈った。恐怖に駆られて、強く願う。
だがペンダントには何の変化も現れない。
怪物が突進した。
壁のような巨体が目の前に迫り、次の瞬間、ジークは跳ね飛ばされていた。
空中にいるあいだに、怪物の腕がジークの体を鷲づかみにしてくる。
怪物の手に掴まれて、ジークは高く持ちあげられていた。
喉元にこみあげてきた血の塊を、怪物の指に勢いよく吐きだす。
太く節くれだった怪物の指が、何度も吐きだされる鮮血で赤く染まってゆく。
トラックに撥ねられたような衝撃だった。
体の感覚が消えうせていた。あるのはただ、苦痛ばかりだ。
ジークを掴んだ怪物の手に、ぎりっと力がこめられる。
ジークはまた血を吐いた。骨の砕ける音が、体のどこかから聞こえてくる。
怪物の手に掴まれたまま、ジークはさらに高く持ちあげられた。怪物の巨大な頭部が目の前にくる。
《我の血肉となれ――》
うつろな眼窩が迫ってくる。
潰れた眼球が流れ落ち、ぽっかりと穴がひらいている。
ジークは怪物のしようとしていることを理解し――そして恐怖にかられた。
その場所に、ジークの体を押しこもうというのだ。怪物の言った〝痛みを癒す〟というのは、そういう意味だったのだ。
「待ちなよ! さあっ! こっちよ!」
イーニャの声がした。怪物の足元に走りつつ、彼女は声を張りあげた。
「そんな坊やより、あたしのほうがおいしいわよ! ほらっ! あたし見なさいよ! 心を覗いてみなさいよ!」
怪物の手が止まった。
ひとつだけ残った無傷の眼球で、怪物はイーニャを見ていた。
やめろ――と、ジークは言おうとした。
だが口から出たのは、気泡のまじった鮮血だけだった。
怪物はジークを無造作に投げ捨てた。
二階ほどの高さから投げだされて、ジークの動かない体は路面に激突する。
イーニャは顔を歪め――それでもジークに駆け寄ることなく、その場に立ち通していた。
怪物の手が伸びてきても、胸を張って立っていた。
四本指の巨大な手が、彼女の身体を掴みあげる。怪物の思念は歓喜に染まった。
《おお――これは》
彼女のわずかな衣服を引きむしり、怪物は自分の胸元に押しあてた。
甲皮を貫いて何本もの触手が伸びだしてくる。
無数の触手は、怪物が手を離しても彼女の体を支えていた。
彼女の白い身体は、うごめく触手にみるみる覆いつくされていった。
ゆっくりと引きこまれ、怪物の胸郭に埋没してゆく。
ジークは地面に倒れたまま、一部始終を見ていた。
かすかに残った意識の中で、目を閉じた彼女の顔が、怪物の肉の合間に埋まってゆくようすが見える。
怪物の体が震えた。
山のような巨体が収縮をはじめる。
建物の四、五階まで届いていたほどの巨人は、みるみるうちにパワード・スーツほどに縮まり、最後には人の大きさとなる。
裸の女体――それはイーニャと同じ姿をしていた。
やつは両の手のひらをじっと見つめていた。手を握っては開き、身体の弾力を試すかのように、薄い乳房をぎりっと握り潰す。
「じつに、いい――」
感想を述べる声は、歓喜に震えていた。
彼女の姿と、彼女の声で――そいつは言った。
「じつに未熟だ! 取るに足らぬことで、なんと揺れ動く情念か。後悔と苦渋に満ちていて、じつに味わい深い! この形態と経験――我ら|《無貌なる者》の貌のひとつとして加えよう」
料理でも味わうかのように、そいつは至福の表情を浮かべていた。
その神々しいまでに穏やかな表情に、ふと、深い苦悩の翳りが現れる。
「……あたしが……あたしがいけないの。悪いのはみんなあたしなの……意地張っちゃって………、ごめんね、ごめんね……」
ぽろぽろと涙がこぼれた。
だがそれもつかの間――スイッチを切り替えでもしたかのように、表情はふたたび変化した。
彼女の全身から噴きだすように、怒気が燃えひろがる。
「殺してやる……殺してやる殺してやる。よくもあたしから、奪って……殺してやる!」
炎のような怒りが、ふっとかき消える。
微笑が浮かび、笑い声が口から流れだした。
「うふふっ――馬鹿ね、なに言ってんのよ」
そしてこんどは、魂の底からこみあげる歓喜――。
「やっと……、やっと戻ってきたのね……。こんな、こんなことって……」
喜怒哀楽のすべてが、目まぐるしく上演されていった。
ひと通りの感情を試し終えると、そいつは本来の冷たく卑しい表情にもどった。
「いい! じつにいい――」
にやりと、口元が歪む。
その薄笑いを目にしたとき、ジークの中でなにかが変化した。
どこからか噴きだした激しい情動が、ジークの中で激しく渦を巻く。
怒りではない。憎しみとも違う。
ジークはいま、この場に立たなければいけなかった。
「かっ……、 かの……彼女を……」
意志の求めに応じるように、体が力を取りもどしはじめる。
「彼女を……」
粉々に砕けていた骨が、ぱきぱきと音を立てて復元してゆく。
骨のつながった手足を踏んばり、ジークは血の海から身を起こしていった。
地面にこびりついた肉の一部が、べりべりと剥離して削ぎ落ちてゆく。
だが痛みなどで、ジークの意志は止まりはしない。
肉はふさがり、傷口を皮膚が覆いつくした。自分の体だ。自分の思い通りにならないはずがない。
「彼女をっ……」
ジークの手の中で、《ヒロニウム》が光り輝いていた。
そのまばゆいばかりの輝きに、イーニャの姿をした相手は慌てた。彼女の姿を崩して、もとの巨大な怪物へと戻ろうとする。
ジークは拳を握りしめた。
いまや全身を覆うようになった輝きを、拳の一点に集約させる。
「彼女を――汚すなぁっ!」
変形しつつある肉塊に、輝く拳が叩きこまれる。
衝撃が空気を揺るがす。
通りに面した建物で、窓ガラスがつぎつぎと吹き飛んでいった。
平たく潰れた肉塊は、その勢いのまま地面に激突した。
何十メートルにもわたってアスファルトをえぐりながら、ようやく停止する。
ジークは近くの地面から、レイガンを拾いあげた。
《ヒロニウム》の白い輝きが、腕を伝ってレイガンを覆ってゆく。
銃口を肉塊に向け、トリガーを引きしぼる。
青い光条がほとばしった。
弾丸の入っていないはずのレイガンは、持ち主の意志に応じて高エネルギーのレーザーを撃ちだした。
何度も何度も――肉塊を穴だらけにするまで、ジークは手を緩めなかった。
地面にできあがったクレーターの中から、紫色の蒸気が立ちのぼる。
無気味な色をした原形質が熱く煮えたぎり、穴の中でぐつぐつと沸き返っていた。
ジークはレイガンをズボンのポケットに収めると、歩きはじめた。
沸騰する肉だまりに向かって、ゆっくりと歩いてゆく。
融解した肉の一部が、柱のように持ちあがった。
形は変化をつづけ、目鼻が生まれる。汚れた粘液が、さらりと流れる髪に変わり、盛りあがった肉が薄い乳房を作りだす。
祈るように手を前で組みあわせて、イーニャの姿をした物体は訴えかけた。
「おねがい……やめて、ジーク」
ジークは前進をやめなかった。
そいつは涙を流して訴えつづける。
「おねがい、あたしを殺さないで。おねがい……」
「彼女を――」
拳を振りあげ――涙を流しつづける顔面に、叩きこんだ。
イーニャの擬態をとっていた薄皮一枚ほどの細胞が、激しく痙攣する。
肉のなかに腕を突っこんだジークは、あるものを探していた。
おぞましい感触の中で腕を動かし――そして探りあてた。
間違えるはずもない。
手に伝わる暖かな感触を頼りにして、ジークはぐっとたぐりよせた。
腕を引き抜く。細胞の塊がひとつ――その手に握られていた。掴んだ部分をとっかかりにして、あとにつづく全体を引き抜く。
人間ひとり分に相当する肉を引き抜いたジークは、その勢いのまま、後ろ向きに倒れた。
赤く染まった大量の肉が、べちゃりとジークの上にかぶさってくる。
ジークは肉に向かって、優しく語りかけた。
「もうだいじょうぶだよ、イーニャ……」
その言葉に、肉は安心したように身を震わせ――本来の形を取りもどしはじめる。
わずかな時間のあと、それは白い女性の肉体となって、ジークとしっかり抱き合っていた。
「ジーク、ジークぅ……」
彼女の体をしっかりと抱きながら、ジークは身を起こした。
身の一部を強引に引き抜かれた肉塊は、穴の中で悶え狂っていた。
あらゆる生物の形態が、一瞬だけ現れては、すぐ別のものに取ってかわられる。
イーニャの細胞を引き抜くとき、ついでにやつの神経――とでも呼ぶべきもの――を引きちぎっておいたのだ。
苦しみもがく怪物に、ジークは言った。
「どうだ? それが痛みってやつだ――うまいだろ?」