目覚め
「じゃあ、あたし、仕事に行ってくるから……」
ドアのところで振り返り、彼女はそう声をかけた。いつものように、ベッドの脇には食事が用意してある。
しばらくは返事を待つが、少年は何の反応もみせない。
「それじゃあ、行ってきます……」
ぱたりと、ドアが閉じられる。
分厚いドアにいくつも取りつけられている鍵が、外側からひとつずつ閉めていかれる。
ブーツの足音がドアの向こうに遠ざかって消え、さらに何分か過ぎ去った頃――。
少年のぼんやりした瞳に、しだいに光が戻りはじめた。
夢と現実の狭間をさまよっていた心が、ようやくこちら側に帰ってきたのだった。
さらに数分が経過する。
少年――ジークはベッドに起きあがったまま、不思議そうに周囲を見回していた。まるでたったいま気がついたかのような顔だ。
ジークはベッドからゆっくりと足を下ろした。
床の冷たさに、びくりと身をすくませ、一度は足をひっこめる。シャツとパンツだけでは、すこし肌寒かった。
もういちど室内を見回して、部屋の隅にクローゼットを見つける。
ジークは思い切って床に降り立った。クローゼットに向けて、まっすぐ歩いてゆく。
クローゼットを開き、いちばん上の引き出しを開ける。
女性の下着がぎっしりと詰まっているのを見て、慌ててそこを閉じる。次の引き出しを開けると、サイズの合いそうなシャツとズボンが見つかった。
そのふたつを身に着けてから、今度はドアのところでサンダルを発見する。
ドアに付けられた何個もの鍵にしばらく手間取ったあと、ようやくドアを開けることに成功する。
部屋を出るまえに、ジークは最後にもういちど室内を振り返った。
不思議そうに首を傾げてみせる。なぜこの部屋にいたのかと、いぶかしむような顔だった。
そして今度こそ、迷うことなく部屋を出ていった。
抜け殼となったベッドだけが、部屋に残された。
◇
ジークは大通り――たぶんそうなのだろう――を、ゆっくりと歩いていた。
さっき見知らぬ部屋で目を覚ましたときもそうだったが、ここがどこで、どうしてここにいるのかまるで見当がつかない。
あの部屋で目覚めてから見た物だけが、彼の知っているすべてだった。
それ以前の記憶といえば……。
思いだそうとしたジークの心に、激しい痛みがはしる。
心をきしませる苦痛に耐えて、ジークはひとつひとつ記憶を掘りだしていった。いま思いだそうとしなければ、このまま永遠に忘れてしまうこともできたかもしれない。
だが――ひとつの想いが、ジークを駆りたてていた。
それは彼女たち――カンナやエレナやジリオラたちが、最後にジークに向けた想いだった。
彼女たちが願い、信じようとしたこと。
ジークがこの悲しみを乗り越えられるということ――。
その想いに応えることだけが、いまのジークが彼女たちにしてやれるすべてだった。
通りを歩きつづけながら、ジークは長い時間をかけてすべてを思いだした。
その記憶を、そっと心の底に沈める。
そうしてから、あらためて街並みに目を向ける。
さきほどから歩きつづけている街並みは、ひどく奇妙なものだった。
どこが変なのかというと、まず街が浮浪者で溢れかえっているのだ。
片側三車線ずつの大きな通りだというのに、道の両側に座りこんだり、寝転がったりしている人間がごろごろしている。
男も女もどちらも見かけられた。
だがその割に、子供の数が妙に少ない。
母親がひとり、子供に乳を与えていただけで、子供が駆け回るような場面には一度も出くわさなかった。
もうひとつおかしなところは、街の景観だ。
営業こそしていないものの、飲食店らしきものや、割れたショー・ウィンドウはいくつも目につく。
彼が出てきた路地の奥には、雑居ビルがいくつも立ち並んでいた。
ホールやシアターらしき建物や、ビジネス向けの高層ビルも、歩いているうちには通りすぎていた。
街にあるべきものは、ひと通り揃っている。
だが数百メートル歩くたびに、同じ光景が繰りかえされるのだ。
すべての種類の建物をワンセットにして、まったく同じ街並みが際限なく繰りかえされている。
もちろんショー・ウィンドウの割れかたや、壁の落書きというものは違っている。
ただ店舗の位置やビルの外装といったもののバラエティが、まったく同じなのだ。
まるで数百メートルもあるような巨大なスタンプで、つぎつぎと判を押していったようなものだ。
こんな奇妙な街並みを、いったい誰が作ったのか――。
もうひとつ、ジークが奇妙に思ったことがある。
それは空だった。
歩いている途中で見かけた時計では、午後の四時をすこし回ったころのはずだ。
まだ夕方には早い時間だというのに、空はどんよりと暗かった。
目が慣れて、周囲がようやく識別できるかという程度の明るさだ。
ジークはどこかにあるはずの太陽を探したが、見つけることはできなかった。
かといって、雲も見えない。暗雲が立ちこめているというわけでもないのだ。
「よう、兄弟――」
道路脇の浮浪者のひとりが、酒瓶をふりあげて陽気な声を掛けてくる。
ジークは足を止めた。体がまだいうことをきかず歩き疲れていたし、なによりも誰かに話を聞く必要があると思ったからだ。
「呑むか? パルプで作ったまがいもんなんかじゃねぇぞ、裏で手にいれたほんまもんの酒だ。ほれ、いくらでもあるぜ……」
男は少しだけ体をずらした。
ラベルの張っていない酒瓶が、何ダースも転がっている。
ジークは首を振って、差しだされた酒瓶を断った。
「おめぇ、名前はなんてんだ? 俺はビルだ。なんだったら、ビリーでもいい」
「えっと……。ジーク、です」
「よし、ジーク。酒がだめなら、食いもんはどうだ? チーズは? ジャーキーはどうだ? ピーナッツもあるぜ」
男はいろいろな物をつぎつぎと差しだしてきた。
どれを見ても、やはりラベルが張られていない。食欲はまるでなかったが、ジークはピーナッツをひとつつまんで、口に運んだ。
「どうして……。ぼくに、こんな?」
ジークは聞いた。どうしてここまで親切にしてくれるのかと、そういう意昧だったのだが、男にはすぐわかったようだ。
「なぜって? そりゃあ、おめえが若造だからに決まってんだろ。俺たちより、いくらか長生きするだろうからな、せいぜい大事にしてやるさ」
どうも言っていることがわからないが、ジークはとりあえずうなずいておいた。
「あの……。ちょっと聞いて、いいですか?」
「なんだい?」
「ええと……」
ジークはいくつもある質問に、頭の中で優先順位を付けようとした。
たくさんありすぎて、うまくまとめられない。
そうしてジークが長いこと考えこんでいると、どこか遠くから、サイレンのような音が聞こえてきた。
「おっと――飯の時間だ。行こうぜ」
腰をあげた男について、ジークは歩きはじめた。