ジェニファー
なま暖かい夜風が、頬を撫でてゆく。
夜の繁華街をゆっくりと歩きながら、ジークは行き交う人々をぼんやりとながめていた。
ここも避難が進みつつある。
店舗の半分かたはシャッターを閉ざしていた。
それでもかなりの人々が街を歩いている。
世界の破滅が間近に迫ったとしても、人は食べていかねばならない。生活をつづけなければならない。
見知らぬ人々の中を、ジークは歩きつづけた。
《サラマンドラ》に乗って、ひとりで帰ってきたところまでは記憶にある。
だがそのあとのことが記憶からすっぱり抜け落ちていた。
宇宙港からここまで、どうやって来たのだろう。
ネクサスの重要人物になってしまった自分が、誰にも見とがめられずにゲートを抜けられるはずはないのだが――。
それでもジークはここにいた。
ひとりになれることは、心底ありがたかった。
道の向こうから、2人連れの少女たちが歩いてくる。
「ねぇ、いまの人って、もしかして――」
すれ違った後ろから、そんな声が聞こえる。
ジークは逃げるように路地を曲がった。足早にその場から離れてゆく。
せまい路地を何度も曲がるうちに、道はだんだんと細くなっていった。
いつしかジークは、ゴミバケツがうずたかく積みあげられた路地裏を歩いていた。痩せこけた野良犬がゴミを狙ってうろついている。
薄暗い道を歩くうち、バケツのひとつに足がつまずく。
ジークは大きく転倒した。
ゴミバケツがひっくり返る。何段も重ねられたバケツが折り重なるように倒れ、ジークの上に中身をすべてぶちまけた。
数日ぶりの食事にありつけた野良犬が、尻尾を振って喜びを表現した。
ゴミにうずもれたまま、ジークはしばらく動かなかった。
やがて喉の奥から、嗚咽がもれはじめる。バナナの皮を握りしめながら、ジークは泣いた。泣きつづけた。
野良犬は食事を終えても立ち去ろうとせず、倒れたままのジークを困ったように見つめていた。
その耳が、ぴくりと動く。路地の奥に顔を向けた犬は、一瞬後には走って逃げだしていた。
路地の奥から歩いてきた女性は、ジークの近くまできてしゃがみこんだ。ジークのブラウンの髪を、手でそっと撫でる。
「わたしの坊や――あなたはいつも泣いてるのね」
その言葉を耳にしたとき、ジークの嗚咽はぴたりと止まった。
ずっと昔――まだ子供だった頃。暗い武器庫で、何度となく聞いた声だった。
ジークはゆっくりと顔を持ちあげた。
薄暗がりのなかに、白い肌と金色の髪をもった女性が立っている。
「ジェニファーなのか……? きみはあのジェニファーなのか?」
訊ねながら、ジークにはわかっていた。
パンドラで出会ったときから、心の底では確信していたのだ。
姿形は変わっていても、彼女は、あの思考機雷のAI――ジークがジェニファーと名付けた、彼女なのだ。
「なにを、泣いてるの?」
彼女はゴミの山からジークを助け起こした。汚物にまみれたジークを、なんのためらいもなく抱きしめる。
「一度でよかったの――泣いているあなたを、こうして生身の腕で抱いてあげたかった」
「やっぱり、そうだったんだ……」
ジークはつぶやいた。
「なにを泣いているの? なにがそんなに悲しいの?」
柔らかく暖かな感触が、心の襞のひとつひとつに触れてゆく。
テレパシーで心を覗かれているとわかっても、穏やかな気分でいられた。昔からこうして、心のすべてを洗いざらい話していたのだ。
「あの娘を苦しませてしまったことを、悲しんでいるのね……。でもあの娘が苦しんでいたのは、あなたのせいじゃないわ。あの娘が苦しんでいた理由は、ほんとうは自分の中にあるの。
《ヒーロー》であるあなたに、自分が見合わないと思って苦しんでいたの」
「そんな……。ぼくは《ヒーロー》になんて、なりたいなんて思ったことは一度もない」
「でもあなたは《ヒーロー》の行いをしているわ。望むと望まざるとに関らず……ううん、本当はわかっているんでしょう? それが自分にできることならば、あなたは望んでやろうとするのね」
ジークはうなずいた。
《ヒーロー》になりたいと思ったことは、一度もありはしなかった。ただ、自分にその力があるのなら、誰かの役に立つのなら――。
「教えてくれ。《ヒーロー》って……、《ヒーロー》って、いったいなんなんだろう。なんのために、こんな……」
ジェニファーはジークの頭をかき抱いた。
「苦しんでるのね……でも、いつの時代でも、《ヒーロー》と呼ばれている人たちはみんなそうだったわ。自分を《ヒーロー》と思っている《ヒーロー》なんて、ひとりもいやしないのよ。みんな苦しみながら、それでも自分にできることをせいいっぱいやろうとしていた。いまのあなたと、みんな同じだったわ」
「……」
ジークはジェニファーの胸に顔を埋めながら、言葉を探していた。
泣き言ではない、なにかほかの言葉だ。
ドクターの手先と成り果てたいまでも、彼女は昔とおなじようにジークを慰めようとしてくれている。
そんな彼女に、すこしは強くなった自分を見せてやりたかった。
泣き言以外の言葉を聞かせてやりたかった。
ジークは彼女の胸から、そっと顔を離した。
彼女の瞳を見つめながら、ゆっくりと訊ねる。
「聞かせてくれないか? ドクターの計画を――」
「計画の目的については、話せないわ。でもひとつだけ――この惑星は、期日通りにこの宇宙から姿を消します」
そう聞いても、ジークは驚かなかった。
その答えは予想のうちに入っていた。
「宇宙樹は? あそこは無事なのか?」
いまはそれがもっとも重要なことだった。
「それは……」
ジェニファーは言い淀み、決心したように先をつづけた。
「最初は、無事なはずだったのよ。当初の計算通りなら、惑星の地表から1メートルでも離れれば安全なはずだったの」
「なにか変更があったってことかい?」
「ちょっとしたミステイクよ。ドクターのね……。基準時計に使っていた時計が、1日に15秒ずつ遅れるってことを忘れていて――」
「それで結局のところ、どうなるんだ?」
「あの人の伝言があるわ――見て」
ジェニファーが差しだした手のひらの上に、ちいさな立体映像が現れた。
もったいぶった口調で、小さなドクターは語りはじめる。
「すでにジェニファーから聞いておると思うが、計画に狂いが生じた。いま再計算をしておるところで、詳しいことは言えんが……あそこのほれ、宇宙樹の残骸が影響範囲に含まれることは、ほぼ間違いない。小数点以下9桁まで確実だ。あそこには住人がおるらしいが、もう計画を変更することはできんのだ。だがまぁ………君がいるのなら大丈夫だろう。住民の避難は君に一任する。なんとかしてくれたまえ。わしのほうは計画に専念するとしよう。それでは健闘を祈る」
そう言い残して、立体映像は消えさった。
あとには気まずい沈黙がおとずれる。
「わたしは、もうあなたを守ってあげられない。だから、これを……」
彼女の半身を覆っていた白いドレスが、瞬時に光の粒子へと変化した。
輝く粒子は彼女の背中に渦を巻き、白い翼となってふたたび実体化した。
まばゆいばかりの裸身が、暗闇の中にさらされる。
彼女は自分の翼に手をかけた。
「くっ……」
眉をひそめ、片方の翼を根元からもぎ取る。
背中からもぎ取られた翼は、光の粒子に分解したかと思うと、ジークの手の中に流れこんできた。
ふたたび実体となったときには、それは小さな飾りに変わっていた。
翼をかたどった銀の首飾りが、ジークの手のひらに収まっていた。
「それが………あなたを守るわ。わたしはもう、あなたを守ってあげられない……。ドクターとの約束は、たった一度だけですもの……」
彼女が路地から歩き去るまで、ジークはじっと立ちつくしていた。
◇
タクシーをつかまえて庁舎ビルにもどると、騒然とした空気がジークを出迎えた。
1階のフロアが、駆け足で動き回る人間であふれている。
何が起きたのだろうと思いながら、ジークは運転手に料金を払おうとした。
「そんな! 《ヒーロー》のあんたから料金なんてもらえねぇよ!」
料金を受け取ろうとしないタクシーの運転手にクレジット・チップを無理やり握らせると、ジークはタクシーから飛び出した。
ジークと同じようにタクシーで駆けつけてくる職員も多い。
エレベータ待ちで行列を作る職貝たちを尻目に、大統領の執務室に続く専用エレベータに乗りこむ。
「どうしたんだ!? いったいなにが――痛てッ!」
「どこ行ッてたんダヨ! おマエはヨっ!」
部屋に入るなり、カンナに頭をひっぱたかれる。痛みが――心地よい。
「ごめん! ――で、何が起きたんだ?」
「郵便船からの最新情報が入ったんだヨ。それによると――だ。いちばん最初に到着するはずの船が、予定時間を過ぎても姿を現してナイ」
「いちばん最初っていうと――たしか個人所有していたクルーザーだったな? M級のジャンプ・ドライブを載せてた?」
船団の多くはK級のジャンプ・ドライブしか持たない貨物船だったが、M級の機関を持つ高速船も何隻かは存在していた。
この惑星の資産階級が個人所有していたものを、例の接収命令によって徴発したものだ。
そうしたクルーザーには、船の元々の持ち主やら、その親族ばかりが乗りこむことになっていた。
「やつら――逃げだしやがったか」
危惧していたことが現実になってしまったことを、ジークは知った。
「コレ、まだ決め付けるナ。なんかのトラブルかも知んねーし」
「次の連絡はどのくらいで入る? 何時間後だ?」
「6時間ってトコだナ」
超光速による通信手段は存在しないため、郵便船によってもたらされた情報は、必然的に数時間前のものとなる。それまで待つしかない。
今夜は眠れない夜になりそうだった。




