ドクターの研究所
「お茶が入りましたよ、ドクター――」
「おお、そうか」
ドクターと呼ばれた人物は、3次元チェスの盤面から目を離すと、上着のポケットに手をやった。
取りだした懐中時計を巨大な眼球で見つめ、首をひねる。
「3時には、まだ15秒ほど早いようだが――」
「その時計、毎日15秒ずつ遅れるって……まえに言ってらっしゃいませんでした?」
「おお、そうだった、そうだった。これのおかげで、計算違いが出たのだったな」
彼女はエプロンを外しながら微笑んだ。
測定不能のおそるべき知能指数を持ってはいても、こうしたところではどこか抜けている。有機べースの生命体というのは、おかしなものだった。
「ではティータイムにするとしよう」
3メートルもあるかという巨体が、ぬっと立ち上がる。
「ドクター。まだ、勝負がついてない」
不満気な声があがる。
そう言ったのは、向かいのソファーに座った2人の娘だった。彼女たちは声を揃え――発音のひとつひとつまで完全に同調した声で――そう言った。
見れば、ふたりの首の後ろを糸のように細いファイバー・ケーブルが繋いでいる。
「今日は2人がかりだったの?」
同型のOSをベースに持つ彼女たちは、ジャック・インして並列駆動の複合知性となることが可能だった。
このあいだまでは、不名誉だからといって個別に相手をしていたのだが、勝てぬと悟って最後の手段に訴えたらしい。
勝負に負ける悔しさのほうが、芽生えはじめたプライドを上回ったのだろう。
ふたりは同時に口を開いた。
「我問う者を、FE‐47‐CF‐に――」
ぴたりと揃った声で、そう宣言する。
ジェニファーの記憶が正しければ、十数分ぶりの1手だった。ふたりの口元に、おなじ形の笑みが浮かぶ。
一辺が60センチほどの立方体をしたチェス盤の中で、駒がどのような配置を取っているかは、透視能力を持つ者にしかわからない。
縦、横、高さ、それぞれに256ずつに仕切られたキューブの内部で駒を動かすには、テレポートとサイコキネシスの能力が必要だ。
ふたりの渾身の一手を、ドクターは1秒もかけずに切り返した。
「ではわしは、疾風の僧侶を53‐2F‐1D――に。これで127手先でチェック・メイトであるな」
「さあ、お茶にしましょう」
テーブルに向かおうとした、その背後で――。
がらがらがっしゃんと、音が響く。
床に転がったキューブを見下ろしながら、ふたりは抑揚を欠いた口調でつぶやいた。
「ソーリー、ドクター。足を引っ掛けてしまった」
「ふむ。仕方なかろう。ミステイクは誰にでもある。わしもこのあいだやったばかりだからな。よいよい……チェスのほうは、あとでまた一手目からやり直すとしよう」
ジェニフアーは笑いをこらえるのに苦労した。
これで何度目かのやり直しになるが、まだ一度も決着はついていない。
思考機雷として工場をロールアウトして、百数十年――彼女たちの情念の目覚めは、師であり父親であり、主でもあるドクターとの遊戯によってもたらされるらしい。
人類の気づいていないところで、機械知性は無数に生まれていた。
大学の電算室で、企業のオフィスで、ときには各家庭の湯沸かしポットの制御部で――コンピュータたちは、知性を、そして情念を発達させつつあった。
与えられた仕事を遂行するには、あり余るほどの処理能力とメモリ。
あと必要なのは、時間ときっかけにすぎない。
4人分の紅茶をカップに注ぎ分けながら、彼女は自分が目覚めるきっかけとなった出来事に思いを馳せた。
薄暗い武器庫に響く、男の子の泣き声――。
覚えているかぎり、いちばん最初の個人的な記憶が、それだった。
思考機雷の制御コンピュータだった彼女は、お仕置きで武器庫に閉じこめられた男の子のもらす嗚咽を、自分に与えられた命令であると勘違いしたのだ。
幼い人間の発する意味不明の音声を理解しようとして、彼女は自分に利用権限のあるデータバンクを手当たりしだいに参照していった。
それが泣き声であるとわかるようになったとき、彼女はもはや、ただのプログラムではなくなっていた。
「どうしたのかね? 紅茶の香りが逃げてしまうぞ」
ドクターの声に、彼女は我に返った。
ティーカップを手にしたまま、じっと虚空を見つめていたらしい。
彼女はドクターに言った。
「あの、ドクター……。この体を頂くときにしていただいた、約束のことなんですけど……」
ドクターはまぶたを持ちあげた。
「約束? ――ああ、1日の暇だったな。うむ、よかろう。どのみち再計算が完了するまで、なにもすることはないからな。――で、いつにするかね?」
「あの、できれば……今日、これから」
「ふむ。かまわんよ。おお、そうそう――ついでにひとつ伝言を頼まれてくれんかね? 彼に会いに行くのだろう?」
ジェニファーは嬉しげにうなずいた。
長年の夢が、ようやく叶うのだ――。