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1年ぶりの帰郷が、こんなみじめなものになろうとは――。
ひとりきりでシャトルの操縦席に座りながら、アニーは迫りつつある宇宙樹を見つめていた。
傷だらけのキャノピーを通して見える故郷は、相対距離が縮まるにつれて、だんだんと大きくなってくる。
こうして遠くから見ているかぎり、小さな葉状構造がきらきらと輝いて、まったくきれいなものだった。
しかし実際のところは、エネルギー事業だか何かが頓挫したために、軌道に打ち捨てられた巨大なガラクタに過ぎない。
この構造物のことを、リムルはパセリなどと呼んでいた。
ここで育った者にはとても思いつけないような、ロマンティックなたとえだった。
窓一面に宇宙樹の全景が迫ると、アニーは機体を反転させた。
思いきり遅らせたタイミングで逆噴射を行い、制動をかける。
後ろ向きのまま宇宙樹の表面に落下していったシャトルは、葉の欠けてできたわずかな隙間に、すっぽりとはまり込んだ。
何層にも折り重なった銀色の葉が、ざぁっと――キャノピーの外を流れてゆく。
そのまま数キロほど落下をつづけると、ぽっかりとひらけた空間に出た。
機を反転させたアニーは、姿勢制御用のスラスターだけを使って、気持ちばかりの加速を行った。
たった100キロの直径しかない空間だ。
メイン・エンジンなど吹かそうものなら、すぐに反対側に突き抜けてしまう。
記憶の中のマップを頼りに、何度か軌道修正を行う。
宇宙樹内部の空間には、肉眼では見えない極細のテザーが何本も張りめぐらされている。
進路上にあるはずの何本かをかわしながら、アニーは奥に進んでいった。
反射率の高い銀色の葉に包まれているおかげで、宇宙樹の内部にはいつでも夕方ほどの光が満ちていた。
目が慣れるにしたがって、宇宙樹の重心となっている部分が浮かびあがってくる。
太い茎が何本も絡みあった菱形の物体――ここの者が種と呼んでいる部分に、無計画に増築を重ねた居住区画がへばりついている。
それはまるで、パンに付いた黴のような眺めだった。
1年前――。
15の誕生日を間近に控えたある日、アニーはこのスラム街から抜け出したのだ。
もしこの場所に戻るようなことがあるとしたら、それは金持ちにでもなって、弟や妹たちを迎えに来るときだと思っていた。
菌糸のようにはびこった居住ブロックの一角に、アニーが機首を向けたとき、計器盤の脇に後付けされた超短波無線機にランプがともった。
ザザッ――と、盛大に鳴ったノイズのあとで、スピーカーから少女の声が飛びだしてくる。
「お帰りなさい、姉さん――」
その声を聞いたとき、不覚にも、アニーの目には涙が浮かんだ。
◇
「姉ちゃんだ! アニー姉ちゃんが帰ってきたぞぉ!」
その夜は、上を下への大騒ぎとなった。
エアロックを抜けて足を踏み入れるなり、アニーは大勢の子供たちに取り囲まれた。
重力装置などない無重力の環境なので、ひとり飛びついてくるごとに体が宙をさまよいはじめる。
子供たちも心得たもので、ふたり目はベクトルを打ち消すように逆方向から飛びついてくる。
この宇宙樹で生まれ育った者なら、誰でも無意識のうちに行っている芸当だった。
「姉ちゃん、姉ちゃん! おかえりー!」
「はいはい。ケン、ミリィ、ダニエル――元気にしてた?」
ひとりひとりの名前を呼んでは、頭を撫でてやる。
〝家〟にいる子供たちの数は、しばらく見ないうちにいくらか増えたようだ。
3つくらいの子が何人か、物陰から様子をうかがうようにこちらを見ている。
指をしゃぶるその子たちの名前を、アニーは知らなかった。
アニーの視線に気づいてか、横にいるカタリナが大声を張りあげる。
「トニー! ビル! ミャン! 隠れてないで出ておいで! ほらっ、怖かないんだよ、お姉ちゃんのお姉ちゃんなんだから……。前に話したろ? アニーお姉ちゃんだよ!」
それでも出てこない子供たちに、カタリナは部屋の中に踏みこんでいった。
首根っこを捕まえられて連れてこられたのは、男の子がふたりと、女の子がひとり。
近づいて同じ高さに目線をあわせると、アニーはやさしく語りかけた。
「あたしアニーだよ。名前――聞かせてくれる?」
ひとりの子が、口元から涎を垂らしていた。
アニーはハンカチを取りだしかけ――それが自分の涙で湿っていることに気づいて、ポケットの奥に押しこんだ。
着ていたタンクトップの裾でもって、涎をぬぐってやる。
「トニー……」
自分の名前を口にすると、その子は部屋の隅に走っていった。
物陰からこっそりと、アニーを見つめてくる。
アニーはカタリナの横に戻った。子供たちをぐるりと見回す。
「3人、増えたんだ」
カタリナは首を振った。
「ううん。3人減ったから……。いまは昔とおんなじで、28人」
「そう……」
めずらしいことではなかった。
他はどうか知らないが、ここでは、アニーやカタリナくらいの歳――大人になって、自分の人生を自分で決められるような年齢まで生きる子供は、あまり多くはない。
しんみりした空気を追いやるかのように、室内に明かりがともった。――と同時に、威勢のいい声が聞こえてくる。
「よう! シャトルと繋いで、電気もどしてきたぜ!」
つぎはぎだらけの宇宙服を着た少年が、ヘルメットと工具箱を両脇に抱えて部屋に入ってきた。
アニーの乗ってきたシャトルの炉は、普段はここの主電源となっている。
「カイルっ!? あんたずいぶん背が伸びたじゃないの!」
少年の姿を見かけるなり、アニーは飛びついていた。
1年前はチビで細っこかった少年が、すっかりアニーを追い越しているのだ。抱きあうと、アニーの頭は少年の胸に埋まってしまう。
昔とはまるで反対だった。
「や、やめろよな!」
少年は慌てたように、アニーを押しのけた。
その急激な反応に、アニーは苦笑した。
「あらっ、あんたも一丁前に、色気づいてきたんだ」
「なんだよ、そのあまったるい匂いは?」
「ああ、ごめんごめん」
アニーは自分の首筋をぱたぱたと手で扇いだ。
照明と同時に復活していた換気システムが、コロンの香りを弱々しく吸いこんでゆく。
100年も前から宇宙のどこかで動いていたと思われる換気システムに、いらぬ負担をかけるもの――煙草やら香水やら――は、ここでは御法度となっている。
「今日はごちそうにしなきゃね。姉さんが帰ってきたんだもの」
「うわぁーい!」
カタリナのその言葉に、子供たちが歓声をあげる。
何のボタンを押しても茶色いシチューを吐きだしてくる食物合成機――原料の取入れ口はトイレの汲み取りタンクに直結している――を使わず、本物の食べものが夕食に並ぶという意味だった。
食卓はにぎやかなものになった。
◇
「疲れた? 姉さん――」
夕飯もすみ、はしゃぐ子供たちを手分けして寝かしつけて、アニーはようやくカタリナとふたりきりになることができた。
照明を落とした部屋の中で、カタリナはアニーが話しはじめるのをじっと待っているようだった。
「ごめんね――あたしさ、最初は隠れてたんだ。あんたが通信に出たとき、カメラに映らないように、声が聞こえないように……って」
カタリナは、静かにうなずいた。
「あの船を姉さんが動かしているの、すぐにわかったよ。だって姉さん、こっちが何も言わないうちに、上から3本目のテザーを避けちゃうんだもん。あれって、もうないんだ。姉さんが行ってしばらく後に、下の連中の船が引っ掛けて切っちゃったから」
アニーは言うべき言葉を探したが、なにも見つからず、ただ黙っていた。
「あたし。あんたに謝らないといけないことがある。あたしは――」
「ストップ。姉さん」
話しかけたアニーの言葉を、カタリナが止めた。
「それは言いっこなし。ここから出たがらない人間はいない。機会さえあればわたしも姉さんと同じ事をやる。体を売るくらいで出られるなら安いものでしょ」
「売ってないし」
「姉さんって、そういうところあるよね。ヴァージンも後生大事に抱えこんでたし」
「抱えてないし」
ちくりと胸の奥が痛む。
宇宙樹を出るまで、アニーは処女だった。
なぜわざわざ処女でいたのか。いつか。素敵な男の子と出会う夢でも描いていたのか。
ばかな。
「チャンスがあったからって……。あたしはさ、一人で行ったんだよ? あんたも、皆も、置いて――」
「だから。それストップ。姉さん」
カタリナは優しい声でそう言った。
「姉さんに捨てられたなんて、わたしもあの子たちも思っていないよ。だから謝る必要はないんだよ」
「でも……」
「姉さんのしてくれていた仕送り、ほんと、助かってたんだから。あのお金で、3人――死なずに済んだ」
「あの子たち?」
「うん。あの子たち」
「そっか」
自分の行いが役に立っていたと知って、アニーはすこしは心が楽になった。
ここでは子供たちはすぐに死んでゆく。いつでも誰かが死ぬ。
それが宇宙樹における現実だ。
だから誰もがここを出ていこうとする。
そして出ていけずに、ここで死ぬ。
自分は出ていくことができた。そして当然〝なにか〟を引き替えにしなくてはならなかった。
そのことを恥じる必要などないのだ。ないのではあるが……。
「おとこ……?」
カタリナに問いかけられた。
「うん……」
アニーは素直に認めた。
「だけど、もういいんだ。もう……」
そうつぶやいて、アニーは空中に体を伸ばした。
ひさしぶりの無重力の感覚は、心地よく、疲れた体に染みわたっていった。
カタリナは、眠りこんだ姉を起こさぬよう、その体をそっと寝袋につつんでいった。
◇
「姉ちゃん! 姉ちゃん! 起きてよ! たいへんだよ!」
目覚めたときには、いつのまにか寝室にいた。
寝袋から突きだした誰かの手足が、すぐ顔の前にある。
最初はばらばらになって寝ていても、朝方になると、自然と換気口に吸い寄せられて団子ができあがってしまうのだった。
「なによ、もう……。姉ちゃん眠いんだから、もうすこし寝かせて……」
眠そうな声でそう言い、アニーは人間団子にもぐりこもうとした。
「たいへんなんだよ! 《ヒーロー》だよ、《ヒーロー》がニュースに出てるんだよ!」
「《ヒーロー》ですって――?」
アニーはぎくりとした。眠気など一瞬で吹きとんでしまう。
食堂を兼ねたリビングでは、早くも起きだしてきた子供たちがディスプレイの画面にかじりついていた。
時計を見ると、まだ明け方の5時半だ。
もっともこれは銀河標準時でのことだから、下の時間では正午くらいになるはずだ。
『この難局にあたって、外宇宙より駆けつけてくださった若き《ヒーロー》と、クレア・ベル大統領の握手がかわされます――』
画面の中で、固く手を握りあったふたりの人物は、ともにアニーのよく知る人物だった。
ひとりは奇麗事ばかりを口にする、下の惑星の統治者。
そして、もうひとりは――。
しばらく更新止まっていまして、すいません。
現在、別の原稿で、締切前の修羅場中でして――。いつものことですが、記憶がところどころ欠落するぐらいの状態です。
まだ大丈夫だったはずー、なんて思ってたら、更新落としちゃってました。すいません。