アニーの行方
「わかった。てめえの根性は、よくわかったから……」
男は疲れ果てた声でそう言うと、シャツを掴むジークの手をもぎ離しにかかった。
「まだだ……。まだ終わっちゃいないぞ……」
ふらふらと、いまにも相手に寄りかかりそうな有様ではあったが、ともかくにも、ジークは自分の足で立っていた。
何度も何度も殴られて、その度にジークは立ち上がった。
男のほうはまるでダメージを追っていなかったが、それでも肩で息を切らすようになっていた。
「わかった。もうわかったから、離しやがれ!」
男はジークを振りほどいた。
破けたシャツの切れ端が、ジークの手に残る。
「い、いいか。オレは、オレはな……」
鮮やかな色の布切れを投げ捨て、ジークはもういちど掴みかかろうと腕を伸ばした。
「ア、アニーが、昔……なにをしてたかなんて、き、気にしないぞ」
「わかったって言ってんだろ!」
「いいや、わかっちゃいない……わかっちゃいないんだ。もう一発殴らせろ。わからせてやるから……」
「ああもうっ! 俺の負けでいいっ! おまえにゃもうっ、負けた負けた! なんかよくわかんねーけど! おまえの勝ちだ!」
男は逃げるように後退っていった。
ジークから距離を取ると、脱兎のように駆けだしてゆく。
顔を無様に腫らしたジークは、男が逃げだしたことにも気づかず、腕を前に突き出したまま、よろよろと前に進もうとしていた。
その体を、横から伸びてきたジリオラの腕がそっと支える。
「もういい。お前の勝ちだ」
脳震盪でぐらぐらする頭に、ジリオラの言葉がゆっくりと染みこんでくる。ジークはようやく腕をおろした。
「ほれッ、リムル。おマエさんのアレで、手当てしてやれ」
手近な椅子に連れていかれた。カンナとリムルが寄ってくる。
「うわぁ、ジークひどい顔ぉ」
リムルの手のひらが、ぺたりと顔に当てられた。
「痛いの痛いの、とんでけー!」
手の当てられている部分から、すうっと痛みが抜けていった。
おまじないが効いているわけではない。
ジークの体内に残留しているナノ・マシンが、リムルに感応して活性化したのだった。本人のように不死身とまではいかないものの、加速された自然治癒力によって、殴り合いで腫れた顔くらいなら一晩ほどで治ってしまう。
「マッ――おマエさんにしちゃ、よくガンバったほうだヨ」
頭を撫でられても、嬉しくはなかった。
エレナやジリオラの向けてくる温かな視線も、わずらわしく感じられる。
首を振って、カンナの手から逃れる。そのときジークは、女たちの人数が足りないことに気づいた。そう――アニーがいない。
「どこにいったんだよ!? アニーは!?」
「飛びだしていったヨ。おマエがケンカを始めてすぐだッたナ」
「なんで止めなかった! おい、どっちに行った!?」
椅子から立ち上がったジークに、カンナは言った。
「やめとけッテーの。そっとしといてヤレって。――わかるだロ? いくらおマエがニブちんでもサ」
「けど! だけど――」
「わたくしも、そう思いますわ」
「だめだよジーク、アニーだって女の子なんだよ」
ジークは反発した。
「だからって、ほっとけるか! どっちだ? どっちに行った!?」
答えようとしない女たちに、ジークはしびれを切らした。
「もういい! とにかく探してくるからな!」
駆けだそうとしたジークの前に、人影が立ちふさがった。
「お取り込み中のところ、申し訳ないのですが――」
「またあんたらか!」
昼間追い返したはずの、黒服の男たちだった。
「さきほどは大変失礼いたしました。ぜひもういちど、お話を聞いていただきたく――」
ジークは最後まで言わせなかった。
「悪いがあとにしてくれ! いまそれどころじゃないんだ! こっちは!」
脇を抜けていこうとしたジークの背中に、男の声がかかる。
「こちらはネクサス大統領、クレア・ベル・クラヴァンでございます」
「大統領……だって?」
ジークは思わず立ちどまってしまった。
振り返ったその目に、礼儀正しくお辞儀する女性の姿が飛びこんでくる。
「ヒロインというには、すこしばかり薹が立っておりますけど――せめてお話だけでも、聞いてはいただけませんか? キャプテン……キャプテン・ジーク?」
〝キャプテン〟とは、《ヒーロー》に対する称号だ。30代なかばのその女性は、ジークを《ヒーロー》として迎えたのだった。
◇
車を使わず、自分の足で歩くとなると、これでもかというくらい、滑走路はだだっ広く感じられた。
かかとの取れたサンダルを手にぶら下げながら、アニーは駐機場に向かって歩いていた。
出てくる涙は、とっくに枯れていた。だから帰る気にもなったのだ。
空の一角が、うっすらと白みはじめている。
遠い山脈の向こうから、ゆっくりと朝が迫りつつある。予定では、夜中のうちにシャトルで帰ることになっていた。
皆は、待っていてくれただろうか――?
そうでなかったとしても、それはそれでよいような気がする。
合わせる顔がないのだ。
いまの自分にできそうなことは、せいぜい――なにもなかったように振るまって、タフで恥知らずな、いつもの自分を演じることだけだ。
「あーあ、知られちゃった……」
口から、つぶやきが漏れる。
アニーは自問した。
知られたくなかったのは、いったいどれだったろうか――。
宇宙樹の出身だったということだろうか?
それとも自分がすでに男性経験があるということだろうか?
それとも宇宙樹のスラムから出るために体を売るような真似をしていたということだろうか。
娼婦とは違う、と、自分ではそう思っている。
あの男――ライルはすっかり勘違いしていたようだが。それにジークもきっと勘違いしただろうが……。
アニーは宇宙樹のスラムから抜け出す機会を狙っていた。
チャンスがあれば飛びつくつもりだったし、実際にチャンスが来たので飛びついた。
宇宙樹のスラムに生きる者ならば、みんなそうするはずだ。
金などなかった。
だが人を騙したり利用したりするのはもっと嫌だった。
だからギブアンドテイクの取引を持ちかけたのだ。
次の寄港地までのあいだ、運賃がわりに、男たちの相手をするという、これはフィフティ・フィフティの取引であって――。
金銭は、直接には――受け取っていない。
男たちと別れる時に、彼らがお金を出しあって、かなりの額のお金を渡してくれようとした。
新生活の足しにしてくれ、と、彼らなりの祝福のこもったお金だった。
かなりの額だった。
貧乏船乗りたちには、それは大金だった。
そしてスラム育ちのアニーにとっては、それはもっと物凄い大金だった。
それこそ、喉が鳴るほどの――。
だがアニーはそれを断った。
彼らの好意は嬉しかったし、お金はとても欲しかったが、それを受け取ってしまえば、自分は本当に体を売ったことになると思っていたからだ。
惑星アーリアの酒場でウエイトレスの仕事を見つけた。その出来事を恥じたことは一度もなかった。あの時はそうするしかなかったのだし、もし時間が戻ってやり直すことができたとしても、自分は同じ決断をして、同じことを繰り返すだろう。
そういう確信を持っていた。
それが変わったのは、ほんの数ヶ月ほど前のことだった。
ジークと出会ってから、アニーのなかで何かが変わってしまったのだ。
それまでは、ひとりで生きてきたことに胸を張りこそすれ、自分の生い立ちや過去について、後ろめたく思うことなど一度もなかったのだから。
「あーあ、知られちゃった……」
アニーはふたたびつぶやいた。
口から漏れたつぶやきは、明け方の――すこしは過ごしやすい空気の中に、溶けるように消えていった。
駐機場に近づく。
動力の落ちた宇宙船の群れは、静かに眠りこんでいるようだった。その足元を、アニーは歩いてゆく。
A37と、路面にペイントされた文字の上――シャトルはそこにあった。
左舷のエアロックに回りこむあいだ、心臓が大きく脈打ちつづける。
機首近くに、タラップが降りているのが見える。その下まできて、アニーは足を止めた。
出かける時には、上げてあったはずのタラップだ。
深呼吸をひとつ。
アニーはタラップを一気に駆けあがった。エアロックを通りぬけ、機内に足を踏みいれる。
「いやー、ごめんごめん! ここ広くって、迷っちゃってさぁ――遅くなってごめんねっ!」
誰もいなかった。
1枚のメモが、操縦席の計器盤に貼り付けてあった。
用事ができた
先にユグドラシルに戻っててくれ
あとで連絡する
ジーク
「なによ! ジークのバカっ!」
アニーはメモを引っぺがすなり、床に叩きつけた。