ビアガーデンにて
「まったくもうっ! 信じらんない! なんて話よ!」
砕けろとばかり、ジョッキをテーブルに叩きつけ、アニーは憤然と言い放った。
「助けてやる義理はないですって? よくもそんな口がきけたもんだわ!」
鼻息も荒く、手にしたチキンにかぶりつく。
ジークは放っておくことにした。
ここは屋外に設けられたビア・ガーデンだ。
どれだけ騒いだところで人の迷惑にはなりそうもない。ジークたちのまわりで飲んでいる連中も、おなじように乱痴気騒ぎをやらかしているところだ。
夕方の薄闇の中、張り渡されたコードから照明デバイスが直接ぶら下がり、なんともうらぶれた雰囲気をかもしだしていた。
宇宙港の敷地内に臨時で設けられたこの酒場にきているのは、ほとんどが足留めを食らっている貨物船の宇宙船乗りたちだった。
船を取りあげられた上に、市街へ出ることを禁じられ、飲むより他にやることのなくなった連中だった。
「どんな具合だい、エレナさん?」
エレナはアルコールには手をつけず、膝の上に乗せたタブレットを操っていた。
この惑星のローカル・ネットにアクセスして情報を集めているのだ。
「やはり情報管制がしかれているようですわね。ニュースをはじめ、政府の見解――公式なところでは、どこも態度はネガティブ。ドクターの声明文を否定してますわ」
つまみで出てきた塩ゆで豆を口にほうりこんで、ジークは聞いた。
「マスコミに踊らされてる一般大衆はそれでいいとして、一部の人間は気付いててもいいんじゃないか?」
「ええ。民間のハッカーと政府筋のハッカーが、あちこちで攻防を繰りかえしている跡がありますわね。でもまだ……いまのところは、機密は保たれているようですわ。時間の問題でしょうけど」
情報の漏洩というのは、針のひと突きに似ている。
不安で風船のように膨らみきった大衆心理に突き刺さる、針のひと突きだ。風船は破裂し、パニックが起こる。
「じゃあ、行政府のデータ・バンクに侵入といこうか」
ソーダ水の残りを一気にあけて、ジークは椅子から立ちあがった。
エレナの後ろにまわって、手を肩に置く。
エレナの白い指が、実行キーを叩く。
その瞬間、広大なネットに向けて、小さなデータ・パケットが送り出された。
待つほどもなく――ひとかたまりとなった数列が、画面の中にいくつも現れはじめる。
「応答が返ってきたな」
「ええ、いけそうですわね」
ジークたちがこのネクサスの大地を踏む何時間も前から、エレナの手による巧妙なオートマトンが、超短波に乗せてネクサスのネットに送りこまれていた。
一連のプログラム・コードは、生き物のように自己の複製を作りつつ、広大なネットの各地に散っていた。
獰猛なセキュリティ・プログラムに貪り喰われ、無数に林立する炎の城壁に焼かれ――。
それでもごく少数のものが、環境に適応して生き残っていたのだ。
ナノセコンド以下で駆動するプログラム・コードの世界では、人の数時間が何万年にも相当する。
世代交代を重ねるうちに、オートマトンたちはオリジナルとずいぶん違う毛並みになってはいたが、それでも自分たちを作り出した造物主のことを忘れてはいなかった。
彼らの伝えてくる安全な道筋をたどり、エレナは行政府のメイン・バンクにやすやすと到達した。
そして最後の難関に到達する。
巨大なセキュリティ・プログラムが、行く手に立ちふさがった。ケルベロス級に分類される怪物のような相手だ。並のハッカーでは出会うこともできない。
「――いい子ね。さあ、お姉さんを通してくれるかしら?」
エレナが語りかけると、セキュリティ・プログラムは雄叫びをあげた――いや、違う。飼い馴らされた犬のように、喉を鳴らしたのだ。
データ・バンクを守る番犬は、その頭を垂れて擦り寄ってきた。エレナを守るかのように、前に立って歩きはじめる。
「そう、案内してくれるの。いい子ね――」
エレナの仕込んだオートマトンを貪るように食らいつづけた結果、エレナへの服従遺伝子が取りこまれてしまったのだった。
「脱出計画第5次修正案――。あと、船の調達と改装作業の状況もお願い」
エレナが望むファイルを次々と嗅ぎ出しては、口にくわえて運んでくる。
ひと通りのものが手に入ると、エレナは足跡を残さないように回線切断の手続きに入った。
「いい子ね――さあ、門に戻って。他の人は誰も入れちゃだめよ」
セキュリティ・プログラムに言い聞かせ、回線を切る。
「ふうっ……終わりましたわ」
エレナは額の汗をぬぐい、椅子の背もたれに体を預けた。
「どれどれッと――見してミナ」
膝の上に登ってきたカンナが、パッドの画面をくるりと回して奪い取る。
「ふゥん。200万人を3回で輸送する計画かね――けどコレって、だいぶ無理があるんじゃないかね? ほれッ、もう15パーセントも計画に遅れが出てる」
「ここの方々を運びだすだけでも、あやしいところですわね」
「上まで面倒見る余裕はないってのが、やつらの言い分ってわけか……」
「ねーねー、なになに? みんなでなに見てるのー?」
首を突っこんできたリムルだが、数字ばかりの画面に、まわれ右して逃げてゆく。
「あーっ! アニー、ひどぉーぃ! ぼくの飲んだぁ!」
「うるさいわねっ! どうせあんた飲めやしないんだから、いいでしょ!」
リムルが席を外していたわずかなあいだに、空のジョッキができあがっている。
アニーの仕業だった。ジリオラを相手にぶちぶちと管を巻きながら、いつになく早いペースでジョッキを空けている。
「おいジル――アニーのやつ、何杯めだ?」
ジリオラは左手の指を全部ひらいてみせた。さらに右手で3本ほど足し添える。
「ジョッキで8杯!? おいアニー、もうそのへんにしとけ。あした二日酔いになっても知らないぞ」
「へんっ、じょーだんじゃないわよ。これが飲まずに、いられますかってーの――」
アニーは立ちあがり、手に持ったジョッキを一気に飲みほした。
「あの政府のイヌども! あたしたちを見殺しにするですって!? いままでさんざん利用してきたくせに!」
「おいアニー、なに言ってるんだよ。オレたちじゃなくて、宇宙樹の人たちだろ? いま問題なのは――」
「そうよ! ああもうっ! だいたいね、あんたがしっかりしてないからいけないのよ! わかってんの? おいこら、ジークっ!」
空のジョッキを振り回し、アニーが声を張りあげた、その時――。
「おっ? アニーじゃねえか! ひさしぶりだなーっ!?」
突然の男の蛮声が響き渡る。
筋骨逞しい大男が、テーブルの合間を抜けてきたかと思うと、いきなり親しげにアニーの肩を抱きにかかった。
「ちょ――放して」
ほそい体をよじらせてアニーは逃れようとするが、男の腕はがっしりと離さない。
「なんだよ? 忘れちまったのか? 俺のこと?」
男を見上げたアニーの顔に、驚きの表情が浮かぶ。
抵抗も忘れて、男の顔をまじまじと見つめる。
「アニー……、知り合いなのか?」
腰を浮かせた姿勢でジークは訊ねた。
男がアニーの知り合いなのか、それとも失礼な酔っ払いなのか、判断に迷っていた。
前者であればアニーの友人として、丁重にもてなすべきだし、後者であれば、即刻、放り出すべきだし。
「ちょ……、やめてってば……、やめてっ」
アニーは男の耳元で小声で言っている。ジークの質問は聞こえていない。
「なあ、おまえいまどうしてるんだ? こっちじゃアレを仕事にしてんのか?」
「やめてよ! やめてって……」
アニーは必死にそう言うが、酔っている男は、気にせずアニーを抱きしめにかかる。
「なあ今晩どうだ? ちゃんと金払うぜ」
「やめて。やめて」
顔も体も硬くして、アニーは拒絶する。
首を何度も振りたくって、同じ言葉を口にする。
「やめろよ。嫌がっているだろ」
アニーが嫌がっているということに、ジークは確信を持った。
それでアニーと男との間に割って入った。
「あ? ああ……?」
男はようやくジークを認めたようで、目をぱちぱちと、何度もしばたたいた。
「わりぃ。先客がいたのか」
「先客? なんの話だよ」
さっきからわけのわからないことを言っている男に、ジークはそう問いかけた。
「やめて。ジーク。やめて」
アニーは青い顔で言う。
だがジークは腹が立っていた。この失礼な男を追い返さないことには気がすまない。
「なあ、あんた。こいつはスゲー女なんだぜ」
「お、おう」
急にアニーを褒めだした男に、ジークは思わずうなずいた。アニーが凄い女であるということは、よく知っている。
「マジ! 天女だぜ――いいや女神だな」
「お……、おう」
ジークはまたもや、うなずいた。
天女とか女神とかいうイメージとは、ちょっと違うような気もするが、アニーがいい女だということは、ジークがいちばんよく知っている。
さっきまでは腹を立てていたジークではあったが、アニーをリスペクトするこの男に、ちょっと親しみが湧いてきた。
男が現れてから、初めて、ジークは笑顔を浮かべた。
「こんなに情が深い女は、俺は、見たことがないね!」
「いや。まあ。アニーはそういうやつだけど……」
自分も思っていたことを男に言われると、なんだかちょっとくすぐったい。
「ほんとすげーんだ! ほんとうに天女だぜ!」
男はアニーのことをベタ褒めだ。
なんだ、こいつ、いいやつじゃないか。
「あっちのほうの具合は、もっと天女だけどな」
「は? あっち? あっちってどっち?」
「な? 思うだろ? そうだろ? おかげで俺たちの航海も潤ったっつーか。ああそうだ……俺のほうは、3Pでもぜんぜんかまわねーぜ?」
男はジークに向けて、にやっと歯を剥きだしてみせた。
「は?」
ジークはびっくりしていた。
男がなにを言っているのか、わからない。いや。言葉の意味はさすがに知ってはいるのだが……。
男はアニーの腰に腕を回した。アニーの耳朶に噛みつくようにして、声を吹きこむ。
「な? かまわねーだろ? ほら昔はもっと、7とか8とか、普通にやってたじゃねえか。いちばん凄え最後の日なんか、ええと……13だったっけ?」
「やめて……」
アニーの顔は血の気を失っていた。
顔面蒼白で、真っ白な――死人みたいな顔で、弱々しく、つぶやく。
男がこれまでしてきた話と、アニーのみせている態度とが、ジークの中で繋がった。
そしてその瞬間、ジークは――。
「痛ってえ! おい! なにしやがんだよ!」
男の怒鳴り声が響き渡った。
片手で頬を押さえている。
思わず出てしまった一発だった。
手加減なしの渾身の一発だった。しかしジークより身長も体重もある相手に対しては、あまり効いていないようである。
「黙れ。これ以上なにも言うな。なにも質問しないで、いますぐ回れ右して帰れ」
ジークはそう告げた。
頭の芯のところが冷え切っていた。
自分から喧嘩を売ったことは、これまでの人生で一度もなかったが、いまこのときだけは、考えるよりも早く手が出ていた。
そして仮に考え抜いたとしても、やはり手を出していただろう。
「なんだとてめえ? いきなりブチ切れやがって? 頭おかしいんじゃねえのか!」
「黙れ。キレてない。聞こえなかったか。オレは帰れと、いまそう言った」
「なんだ? やる気か? やるのかてめえ?」
男が一歩前に出る。ジークもそれを受けて一歩前に出る。
「やめて! やめてジーク! あたしが悪いの! 悪いのはぜんぶあたしなの!」
アニーにすがりついてこられても、ジークは止まらなかった。
「――ライルもやめて!」
アニーはこんどは相手の男のほうにすがりついた。
相手の男の名前を彼女が口にしたことで、ジークは、自分がもうどうにも止まれないことを知ったのだった。
そしてケンカがはじまった。