3「衛星軌道上」
「現在高度30キロメートル。速度2キロメートル毎秒。クレーターの縁まで200キロメートル。推定接触時間95秒後――」
淡々とデータを読みあげるエレナの声が、《サラマンドラ》のブリッジに響いた。
光量を落とされて薄暗くなったブリッジで光を発しているのは、外部の状況を映しだすモニターと、それぞれのコンソールの計器表示だけだ。
船の人工重力も、いまは切られている。
いくつかに分割されたモニターのひとつには、《サラマンドラ》の30万キロ下方をゆっくりと流れる月面のようすが映しだされている。
みょうに黒い色をしているのは、ここがクレーターの中だからだ。
正面のフロント・モニターのほうには、200キロほど先にあるクレーターの縁が映っている。
《サラマンドラ》はいま、直径500キロの巨大クレーターの上空にあった。
高度はゆっくりと落下しつつある。
メインエンジンをはじめ、姿勢制御のバーニアなどもすべてオフにされ、自由落下状態になっている。このままいくと、200キロ彼方のクレーターの縁にまっすぐ激突する計算だ。
これはジークがアニーのために出した、〝実技試験〟の課題だった。
惑星アーリアの第1衛星である《シルバームーン》まで、3Gの加速で2時間ほど。
わざわざこんなところまで来たのは、彼女のパイロットとしての技量を正確につかみたかったからだ。
軌道ステーションからの発進と、その後のちょっとした機動操作で、アニーがそれなりに経験を積んだパイロットだということはわかった。
だが普通に船を飛ばすだけならジークにもやれる。
パイロットとしての資質が真に問われるのは非常事態に直面したときだと、キャプテン・ガルーダはそう言っていた。
「社長、月面の施設から問い合わせが入っています。機関の不調か、とのことですけど」
「スライド・ランディングの演習だといってくれ」
惑星の近くでできそうなテストをつぎつぎとあげるジークが『スライド・ランディング』という言葉を口にし、アニーが首を傾げたとき、このテストが決定された。
現在でもたまに使われているとはいえ、数百年前に考案された大気のない天体への着陸方法をアニーが知らなかったとしても無理はないだろう。
天体のまわりを回る周回軌道から減速し、細長い楕円軌道の一端が天体の表面にふれるような軌道をとり、軌道速度を保ったまま天体の表面に着陸する。
早い話が胴体着陸だ。
うまくやりさえすればバーニア噴射をいっさい使わずにすむので、現在でもたまに、エンジンに不調をきたした宇宙船などが行うことがある。
いくら頑丈な《サラマンドラ》とはいえ、さすがに停止するまでやってしまうと船底が痛んでしまう。
月面に軽くふれるだけでフライ・パスするようにと、アニーには指示してあった。
「最初の制動をすこしばかりミスったな、渓谷の左に流されてるぞ」
「うるさいわね、もう。黙っててよ」
頭の上でしゃべるジークを手で払いのけて、アニーはコンソールのキーを忙しく叩いた。
本来その仕事をするべきはずのカンナは、頭のうえに腕をくんだままおもしろそうにアニーを見ている。このテストでは、航法士は「死亡」という設定になっている。その分の仕事もアニーがしなくてはならない。
「クレーターの縁まであと20秒――」
「安全率20、これもだめ! 推力が足らないじゃない!」
アニーは渓谷の内部が映しだされたシミュレーション画面に悪態をついている。
「どうした、もう時間がないぞ」
アニーの焦りに拍車をかけるように、ジークは言った。
なんとなく、楽しい。
スライド・ランディングをするにあたり、ジークはさらに2つの条件をだしていた。
大破した宇宙船でもなければこんな着陸方法など取らないだろう。本調子の宇宙船でやれたとしても、テストにはならない。
メインエンジンを使用不可にして、軌道制御バーニアの噴射も合計で30秒以内に制限した。さらにランディング・ポイントの手前に、最大高度50キロメートルのクレーターの縁がくるようにしたのだ。
エンジンが不調、航路の自由度のない状態で緊急着陸という設定だ。
さきほどの「航法士が死亡」というのもこの中に含まれている。
ランディング・ポイントにたどり着くためには、クレーターの縁にできた細い渓谷を通り抜けて行かなければならない。
推力の関係で、上を飛びこしてゆくのは不可能だ。
アニーが必死にやっているのは、限られた推力で曲がりくねった渓谷を通り抜けるための計算だった。
後ろから見ているかぎりでは、だいぶつらい状況になっているらしい。
最初の軌道進入のわずかなミスが、だんだんと大きくなってきているようだ。
「突入します!」
計算を途中で放りだし、度胸を決めてアニーが叫んだ。
すでにジークはキャプテン・シートに戻り、7点支持のベルトで体を固定している。
左側のサイド・モニターに、ものすごい速さで岩肌が流れてゆく。
数百メートルと離れていない。
秒速2キロという速度は、地上でいうならマッハ6あたりに相当する。
最新鋭戦闘機に匹敵する速度で渓谷をぶっ飛んでいるのだ。
しかも遥かに機動性の劣る宇宙船で、バーニア噴射をケチりながら――。
ぐんと、体がシートの左側に押しつけられた。
すぐにGカウンターの動作が追いつき、体感上のGが打ち消される。
噴射時間の残量を示す採点用のカウンターが減算を続けている。体に感じるGはなくなっても、バーニア噴射は続いているのだ。
サイド・モニターをなめるように流れていた岩肌が、みるみる遠ざかっていった。
「ひとォー!!」
アニーが意味不明の叫びをあげた。
ひとつ目の関門をクリアしたと言いたいのだろう。
バーニア噴射が切られると同時に、がくんと右に大きく揺りかえしがくる。
人工重力を応用して最大100Gまでの加速度を打ち消すことのできる《サラマンドラ》のGカウンターも、瞬時の変動には意外と弱い。
ふつうはもっとゆっくり推力を増減するものだ。いきなりオンにしたりオフにしたりはしない。
「もっとていねいにやってくれよ。ムチウチになるだろ」
「フンだ、どケチ! 誰のせいよ!」
口汚なくののしる口調にあわせるように、アニーはバーニアを荒っぽく吹かした。
下から突きあげる加速度に、ジークは危うく舌をかみそうになる。船内重力を切っていなかったらもう1Gが加えられ、痛い思いをしていたことだろう。
安心するひまもなく、すぐに揺りかえしがきた。
「残り20秒!」
残った推進力を、アニーは十数回にわけて小刻みに使った。
1回1回の噴射時間は短くとも、瞬間の推力はかなり大きい。Gカウンターの揺りかえしが、三半規管を容赦なくシェイクする。
渓谷を抜けるころには、ジークは不覚にも船酔いを覚えていた。
この《サラマンドラ》で16年過ごしてきた、ジークがだ。
《サラマンドラ》は月の砂漠に船底を一度だけこすりつけ、それからメインエンジンに点火した。
プラズマと化したH2Oの噴流を受けた砂が、爆発するように吹きあがる。
水面から水鳥が舞いあがるように、《サラマンドラ》は軌道に向けて上昇していった。