エピローグ
「もう少し待ってください。お金なら、かならず返済いたしますから……」
仮設庁舎の一室で公務をこなしていたアルテミスは、ジークの顔を見るなりそう言った。
「いいよ、何年かかったって。オレに返す金があったら、どうか他のことに使ってくれ。この惑星は、これからたいへんなんだからさ……」
ジークがそう言うと、彼女はやつれきった顔に力なく微笑みを浮かべた。
「お心遣い、感謝いたします。でもご心配なく……。男の――ええと、夫と言うんでしたっけ。彼らが外貨を稼いでくるって、はりきってくれているようですから……」
「そ、そう……。が、外貨ね……」
海賊たちの稼いでくる外貨というのは、どういうものだろうか。あまり考えたくない。
アルテミスはしばらく天井を見上げていた。ふと顔を下ろして、何気なく言う。
「男性というのは、よいものですね」
倍も歳上の女性になまめかしい表情を向けられ、ジークは思わず後じさってしまった。ドアの近くまで後退する。
「そ、そうだね――そ、それじゃあのっ、オレはもう行かせてもらうよ。またそのうち寄らせてもらうから、ぜったいに」
「ええ、そうしてください。リムル様も喜びます」
逃げだすようにして、ジークは部屋から出ていった。
ひとつ深呼吸をしてから、人気のない廊下を歩きはじめた。ジャケットの前をぴったりと閉じあわせてから、庁舎の玄関から雪の中に飛びだしてゆく。
静かな街には、大粒の雪が降りしきっていた。
パンドラの復興の手伝いをして、もう3週間ばかりになる。
すでに馴染んでしまった光景だった。
パンドラの全地表は今後2年間にわたって毎日数メートルもの積雪が予想されているという。
南太平洋がまるごと蒸発し、大量の水蒸気が大気中に放出されたせいだ。
降りつもった雪の中を足早に歩きながら、ジークは顔をあげた。
降り落ちてくる雪のその向こう――空を、宇宙を見上げる。
昼間だというのに、そこに太陽はなかった。あるはずがないのだ。
ディーゼルの手によって超空間に放りこまれたパンドラは、十数光年ほど離れた空間に出現した。その結果、太陽を失って宇宙の迷い星になってしまったのである。
もちろん、失ったものばかりではない。
〝神業〟の解放とともに、パンドラに満ちていた邪悪な精神波動は消滅した。
いまでは何千人もの男たちが平然と暮らしている。
黒かった海も本来の青い色を取りもどした。
しばらくして新しい太陽が到着すれば、それを目で見ることもできるだろう。
惑星企業マツシバ・インダストリーに注文した『人工太陽打ちあげキット』が、そろそろ配達される手筈になっている。
前方から、ひと組のカップルが歩いてくる。
ジークは道の端によって、そのふたりを通してやった。
片方はピンク色の髪をしたパンドラの女性。もう片方は、ひと目で海賊風とわかる男だった。女の腰に手を回した男は、天にも昇りそうな至福の表情をたたえている。
いまパンドラでは、〝結婚〟がブームとなっていた。
連日何十組もの新婚夫婦が誕生している。パンドラ唯一の聖職者であるアルテミスは、プライベートな時間も持てないほどの忙しさだそうだ。
パンドラの女性たちがジャンプアウト後の動乱期を乗りこえるときには、海賊たちが大いに助けとなった。義に厚いパンドラの女性たちに手厚くもてなされ、海賊たちはいま間違いなく幸せの絶頂にいた。
もともと儀式好きだったパンドラの女性たちは、深く考えもせずに次々と籍をいれている。
海賊たちのほうは、誰に求婚されても二つ返事だ。
ついでに言うと、10ヶ月後には、一大ベビーブームの到来が予想されている。
まあ、精神的に完璧に自立したパンドラの女性たちのことだ。不幸な結婚生活になることもないだろう。その点は心配していない。
幸せそうなカップルの後ろ姿を見送って、ジークはふたたび空を見上げた。
パンドラが手にいれたもうひとつのもの、それは衛星だった。
肉眼では見えないが、真っ暗な空のどこかに|《海賊島》が浮かんでいるはずだ。
どういう偶然によってか、パンドラの出現ポイントは|《海賊島》のすぐとなりだったのである。
|《海賊島》はパンドラの重力に捉えられ、楕円軌道を回る衛星となってしまったのだった。
「ようっ、ジークじゃねぇか」
ふたつ先の酒場から出てきた人物が、ジークを見て顔をほころばせた。
一匹狼の賞金首であるジョン・ケルべロスは、『ファニージュエル親衛隊』の親衛隊長でもあった。
もっとも、当のファニージュエルはもういない。船と部下たちを〝弟〟であるジークに任せ、宇宙の果てに旅立っていった――ということになっている。
ジークはポケットにしまったままの手紙の存在を思いだした。ペンを取ってしたためはしたものの、渡すかどうか悩みつづけていた手紙だった。
「あの、これ――姉さんから。あんたにって」
よれよれになった手紙を手渡す。
彼はしばらく手紙を見つめ、それを大事そうに懐へしまった。気まずい沈黙が、彼女を知っているふたりの男のあいだに訪れる。
ジークも言葉がなかった。
貴方と別れなくてはならなくて非常につらい――とか、手紙にはそんなことが延々と書かれている。あれが読まれるのだ。この男はどんな顔で読むのか。
「そうそう。調べてくれって頼まれてたギルのことだけどよ……」
沈黙を破るように、ジョンは話しはじめた。
「やつぁ、例の娼館の下男として働いてるぜ。女に捨てられただの騒いで、しばらくは落ち込んでやがったみたいだが……。なんのことはねぇ。勘違いだったんだな。あのとき娼館にゃ賞金稼ぎが来てやがって、女はやつを逃がそうとして『来ちゃいけない』って言ったんだそうだ」
「そうかい……。わかった、伝えておくよ。姉さんに会ったらさ」
「ああ。その時は、俺からもよろしくって、そう言っといてくれ。おめえは最高にいい女だったとよ」
手を振って歩きはじめるジョンを見送って、ジークはふたたび歩きはじめた。
これで挨拶まわりはすべて終わった。あとは船にもどって出発するだけだ。
別れを言っておきたい人物は、まだ何人か残っていた。
リムルとディーゼル、あと名前も聞いていないあの副官の彼女。
宇宙海賊キャプテン・ディーゼルは、海賊船《ワイバーン》とともにその姿を消していた。だがジークは信じていた。やつが死ぬはずはない。かならずどこかで生きているだろう。彼女とともに、宇宙のどこかで。
リムルの姿はどこにも見あたらなかった。
今日が出港の日であることは知っているはずなのだが――。
そんなことを考えながら、ジークは雪の中を歩いていった。
「よし、そろそろ出発するか」
キャプテン・シートに体をあずけて、ジークは女たちに視線を向けた。
女たちはそれぞれの分担を受けもって、出港前のチェックを進めている。
「あれあれっ?」
「どうした?」
ジークは訊ねかけた。
アニーが計器を見てしきりに首を傾げている。
「なんか、重量計の調子がおかしくて。ちょっと前より増えてるみたいなのよ」
「どれどれ――」
ジークはアニーの後ろに立って、計器を覗きこんだ。
たしかに30分ほど前に見たときよりわずかに増えている。30キロと少々、そんなところだろうか――。
「このオンボロめ!」
ジークは計器を叩きつけた。叩くときの角度にはコツがあるのだ。
計器のデジタル数字はめちゃくちゃに点滅をしたあとで、ひとつの数値に落ちついた。
「ほら、これでいい――」
期待した通りの数値が出たことに満足すると、ジークは何事もなかったかのようにキャプテン・シートへ戻っていった。
ブリッジの全員に向かって、声を張りあげる。
「よし、《サラマンドラ》発進!」
「パンドラの乙女」完結です。
次回からは、星くず英雄伝のプレストーリーとなる「社員採用試験」をお送りします。