ワイバーンへ
ジークは首をめぐらせてまわりを確認した。
さすがは《サラマンドラ》と同型船だった。ブリッジの構造がほとんど同じだ。
濃密な瘴気がたちこめるブリッジに、ひとりの女性が倒れていた。
「おいっ! しっかりしろ!」
抱き起こすと、彼女はうっすらと目を開いた。
虚脱したような表情をジークに向ける。
「少年――お前か。なぜここにいる?」
「ディーゼルを連れてきた。やつは死にかけている」
その名前を告げたとたん、彼女の瞳に生気がもどった。
「どこだ!? キャプテンは!」
がばりと身を起こし、リムルを突きとばしてディーゼルに取りすがる。
「キャプテン――キャプテン! おねがい! 目を開いて、ディー!」
気丈な女副官ではなく、ひとりの女として彼女は叫んだ。
「体のほうはなんともない。けど心のほうが……。助けられるのは、あんただけじゃないかって、そう思ったんだ」
彼女は、すっくと立ちあがった。
服に手をかけて、ジークの見ている前でつぎつぎと脱ぎ捨ててゆく。
「おっ――おい!?」
最後の下着を床のうえに落とし、背中を向けたまま彼女は言った。
「やってみよう。彼を死なせはしない。この私の命にかえても」
彼女は凍りついたディーゼルの体に、自分の身を重ねた。
量感のある乳房がディーゼルのメタル・ボディに押しあてられ、その形を歪める。
「くっ……」
彼女は唇を噛みしめた。
ついさきほどまで宇宙を漂っていたディーゼルのボディは、皮膚が凍り付くような超低温になっているはずだ。
「ぼくも脱ぐのーっ!」
リムルも負けじと服を脱ぎ捨てる。
アニーと同じくらい貧弱な乳をさらし、彼女の横に割りこんでいった。同じようにして、凍りついたディーゼルに胸を押しあてる。
「おじさま、つめたーい……」
リムルには悲壮感というものがまるでなかった。
だがそれでいい。信じることが力になる時があるとしたら、それはいまを置いて他にないのだから。
「ディー……目を覚まして、ディー」
彼女はディーゼルの耳元で呼びかけつづけていた。
彼女もまた、信じているのだ。ディーゼルが、ふたたびその目を開くことを――。
胸に埋めこまれた《ヒロニウム》に、光が――ほんのわずかな輝きがまたたいた。
「ディー、わたしの……ディー」
彼女はディーゼルにそっと口付けをした。
「さあ、目覚めて……」
彼女の目から、ひとしずくの涙がこぼれ落ちる。
その美しい液体は、輝きを失った《ヒロニウム》にぽたりと落下し、染みこんでいった。
決定的な変化が生まれた。
まばゆく純粋な輝きが、《ヒロニウム》から放たれる。その光はいままでの色とは違っていた。
例えるなら、情熱の赤という色だ。
数秒前まで死人同然だった男は、がばりと身を起こした。
「ふはハハハーッ! 愛の力によって――いま、俺様大復かーっ!」
◇
――あたし、死ぬのかな。
《サラマンドラ》のブリッジで、アニーはひとり孤独に耐えていた。
もうどんな制御も受けつけない。
終焉への道を駆けおりようとしているエンジンを止めることは、もう誰にもできそうになかった。
ジークを脱出させたあと、まるで舵の利かない船体をなんとか宇宙に向けることだけは成功した。
それがせめてもの救いだった。
宇宙空間でなら、爆発したときの周囲への被害を最小限に抑えることができるだろう。
すでに操縦は放棄していた。
機関部の制御に専念しても、機関内の圧力レベルは徐々に高まりつつあった。設計限界温度を超えたのは、もう数分も前のことになるだろうか。
「やだな、あたし……。最後の言葉が、行ってきなさい――だってさ。まるでいい子ちゃんじゃないの」
ジークの心に、そんな自分がいつまでも残ることになるのだろうか。
本当の自分は、もっと卑しく浅ましく、嫉妬深くて性悪な女だというのに、ジークの心には奇麗なイメージだけが残ってしまうのだろうか。
そんなものは自分ではない。
どうせ覚えていてくれるなら、本当の自分を覚えていてほしかった。
圧力レベルをしめすゲージが、またひとつ上昇する。
「そろそろお別れだね、ジーク――」
その言葉を言い終わったとき、不意に背後で物音が響いた。
人の気配が感じられる。それはひとつだけではなく、いくつもあった。
レッド・ゾーンの遥か上にあったゲージが、どうしたわけか、みるみるうちに下がってゆく。安定域に落ちついて、快調に活動しはじめる。
持ち主が帰ってきただけで、これか。なんと現金な船なのだろう。
後ろから、暖かな手がアニーの肩を抱いてきた。
「わるいアニー、遅くなっちまってさ――」
「なによ、早かったじゃない」
前を向いたままで、アニーはそう言った。
いまの顔は、とても見せられそうにない。
◇
『いいか、小僧――あの〝神業〟とやらを離すのは、俺様がなんとかする。てめえのやることは、ヤツの横っ面に一発食らわせて、グロッキーにさせるだけのこった。なァ――小僧にもできそうな簡単なこったろ?』
耳にはめたレシーバーから、ディーゼルの声が聞こえてくる。
もうジークのことをガルーダと呼ぶことはなかった。
タイム・スケジュール通りに事が進んでいれば、《サラマンドラ》のとなりに並んでいる《ワイバーン》では、D砲に弾頭を〝装填〟している最中だろう。砲塔の中からディーゼルは話しているのだろうか。
「そっちこそ、生き返ったばかりで大変だろ。しくじらないでくれよ」
『バカ野郎。小僧が悪たれ口をきくなんざぁ十年はええんだよ。心配しねぇでも、愛のエネルギーは俺様のハートに満タンよ。いまの俺様に不可能なんかねぇぜ、それを見せてやる。よし、閉めろ――』
その声を最後に、ディーゼルの声は聞こえなくなった。
臆面もなく〝愛〟だのと言われて、ジークは思わずため息をもらした。真空の宇宙ではあったが――。
宇宙服などというものは、身に着けていない。その必要はなかった。
ジークは2本の足で、《サラマンドラ》の上甲板に立っていた。
まさか自分がこんなことをするはめになるとは思いもしなかった。
子供のころ、ドラマで見た《ヒーロー》は、たしかに〝生身〟で宇宙に乗りだしていた。
あれは演出なのだと――子供心にも、そう思ったものなのだが。
胸に下げたペンダントは、いまだに輝きつづけていた。
こんなに長い時間、輝きが持続しているのは初めての経験だ。
『D砲の発射準備は完了したぞ――少年』
「発射の合図は、オレが出すのかい?」
『他に誰がいるというのだ?』
すっかり副官の口調にもどって、彼女はそう言った。
そういえば、まだ名前も聞いていない。これが終わったら必ず聞こう――そう心に決めて、ジークは言った。
『よしっ、発射っ――!』
長大なカノン砲が、火を噴いた。
2万キロほど彼方に浮かぶ惑星パンドラに向けて、撃ち出されていった。
着弾までは、20秒――。
ディーゼルの暴走によって、パンドラの南太平洋上には直径数百キロもの大穴が口を開いていた。
海水が流れこみ、巨大な滝ができあがっていた。
惑星上では、さぞかし凄い眺めになっていることだろう。
穴は惑星内部にまで続いているのか、大洋の海水をすべて飲みこみかねないように思える。
流れこむ海水のかわりに、それは這いだしてきつつあった。
機械の目には観測不能だが、ジークたちの目には高密度の黒い靄のように視えている。
〝神業〟は惑星の一面を覆いつくし、なおも肥大しつつあった。パンドラの内側から、体の残りをずるずると引き出している。
ぽっ――と、パンドラの地表で光球があがった。規模からすれば、核爆発程度の輝きだ。D砲の発射は、単にディーゼルが地表に降りるための手段にすぎない。爆発力は最小限に抑える手筈だった。惑星そのものを砕いてしまっては何の意味もない。
――うおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――
どこからともなく、そんな〝声〟が聞こえてきた。
宇宙を渡ってきたその〝声〟が誰のものであるのか、考えるまでもない。
ジークは腰のホルスターからレイガンを抜いた。シリンダー・ブロックを開いて、カートリッジを1発だけ装填する。
そして、待った。〝神業〟をパンドラから引き離すと言ったディーゼルの言葉を信じて、ただひたすらに待ちつづけた。
やつなら、できる。
どうやって実行するかは想像もつかないが、とにかくやり遂げることは間違いなかった。なぜならやつは、ディーゼルだからだ。
――うおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――
ディーゼルの〝声〟は、あいかわらず聞こえつづけていた。
そしてパンドラが――惑星が、ゆっくりと動きはじめた。ジークは目をしばたいた。見間違いではない。パンドラはたしかに動きはじめていた。
パンドラが移動してゆくにつれて、〝神業〟の残りの部分が引き出されてくる。
――うおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――
元の位置に〝神業〟だけを置き去りにして、惑星パンドラはさらに移動速度を増していった。
惑星の進むさきに、7色にきらめく鮮やかな光が生まれはじめる。
7色の光は集合と離散を繰り返し、やがてトンネルのような形をかたどっていった。
空間に開いた虹のトンネルに、惑星パンドラは飛びこんでいった。
トンネルが閉じて、消滅する。
「ち、超空間に――放りこみやがった。わ、惑星を……」
〝神業〟だけが、宇宙に取り残されていた。
ディーゼルは約束通り、惑星と〝神業〟とを引き離してみせたのだった。
驚いてばかりもいられない。
今度はジークが約束を守る番だった。
パンドラという殼から抜けだした〝神業〝は、縮めていたその身をゆっくりと広げていった。
2万キロの彼方で、星雲のようにゆっくりと自転をはじめる。
その輪郭は伸びては引きこむという運動を繰りかえしていた。突如として自分の前に開けた広大な空間を探ってでもいるようだ。
その存在から、凄まじく濃密な気配が放出されている。
殺気立ち、闘争相手を求めつづける苛立った精神波動。何十億年もの時を経ても衰えることのない闘争本能の発露だ。
ジークは、〝神業〟に向けて、何気なく腕を伸ばしていった。
手の中にあるレイガンの存在が、意識にのぼることはない。銃と一体化したジークの腕が、気配の放射される中心――〝神業〟の核へと向けられる。
ぎりっと、もう一段階の集中。
真芯をつかむ感触が、手の中に返ってくる。
ジークは〝神業〟に腕を向けたまま、手の中に握りこんだエネルギーへと意識を向けた。
解放の瞬間を待ち焦がれるエネルギー。ただ1発のカートリッジの中に圧縮された、輝ける光。
握っていた手を開いて、ジークはそのエネルギーを解き放った。
指のあいだから、光がはじける。
目標を指し示した指先を通りぬけ、青いレーザーはまっすぐに伸びていった。〝神業〟の核を貫いて、さらに宇宙の虚空へと向かう。
ぶるりと身を震わせて、〝神業〟は自転を停止した。
〈――よし、わしの出番だな〉
ドクターの思念が、ジークの意識に送られてくる。
宇宙の一点に、底なしの穴が出現した。〝神業〟を構成する黒い靄状のエネルギーは、動きを止めたまま、その一点に向けて吸い寄せられていった。
核を撃ち抜いてから、十数秒が経過しただろうか。〝神業〟の活動がふたたびはじまった。弱々しく身もだえをしながら、吸い寄せる力に抵抗する。だが自由にならないその身は、吸引を受けて体積を減少してゆくしかなかった。
ついには、空間から完全に消滅してしまう。
〈うむ、これでよい〉
ドクターの思念が、ジークの意識に流れこんでくる。
〈若き《ヒーロー》よ、礼を言わせてもらおう。これでわしは、崇高なる目的に向けて一歩前進したことになる。ではさらば――〉
ジークはどっと疲れを覚えた。体中から気が抜けてゆく。
これでよかったのか? 本当にこれで――?
はっと、ジークは喉を押さえた。息ができない。目を胸元に向けると、《ヒロニウム》が輝きを止めていた。
――死ぬのか? オレはここで死ぬのか? こんな情けない死にかたで?
ジークの意識は、暗闇へと落ちこんでいった。