アニーとキッチンで
ようやく煙の消えたキッチンで、ジークとアニーはふたりで黙々と清掃作業をつづけていた。
テーブルに乗ったジークが天井のすすを落とし、アニーが金属ブラシでオーブンの内部をがしがしとこすっている。
手ごわいほうをアニーが引き受けている理由は、背丈が足りないということがひとつ。
もうひとつは、ミニスカートの中身が丸見えになってしまうからだ。
アニーは気にしないだろうが、ジークのほうが掃除どころではなくなる。
当のリムルには、メモを持たせて買い物に出していた。
自分で尻拭いさせるのが筋だとわかっていても、そこまで冷酷にはなりきれない。
口にこそ出さないが、アニーも賛同してくれているようだ。こうして手伝ってくれているのが、その証拠だ。
「だけどリムルって命しらずよね」
作業に没頭していたアニーが、ぽつりと言った。
「怒ったエレナさんって、オレはじめて見たよ」
「あれってぜったい本気だったわよ。まぁ、面と向かってタレてるなんて言われちゃあね……。ところでさ、ジークはどう思う?」
「なにが?」
ジークは振りかえった。
アニーも手を止めて顔を向けてくる。
「だから、エレナさんがタレてるかどうかってコト。前に見たでしょ? しっかりとナマでさ」
「そっ、そんなの知るかよっ!」
頬に熱を覚える。ジークはぷいと顔をそむけた。
「あははっ! 赤くなった赤くなった」
アニーはすっかり面白がっている。ジークは話題を強引に変えることにした。
「と、ところでさ。よくみんな許してくれたよな。オレさ、今回ばかりはさすがにダメだろうって思ったよ」
ジークの言葉に、アニーが意外そうな顔をする。
「なに言ってんのよ。あんたがリムルのことをかばったから、みんなだって引いてくれたんじゃない。あんたに免じてさ。そうでなかったら、あんなにあっさりと許すわけないでしょ」
「え――? じゃあみんな気づいてたのか?」
「あったりまえよ」
当然だろうという顔で、アニーがうなずく。ジークは大きくため息をついた。
「なんだよ、オレひとりだけバカみたいじゃないか」
「そんなの前からわかってたわよ。――だいたいさ、なんでかばったりしたのよ?」
そう言いながら、アニーはふたたびオーブンに向き直った。がしがしと、力まかせの作業を再開する。
「オレが悪いんだよ。そうだと思う。リムルに愚痴を聞かせたりしたから」
「グチって――あのこと?」
「ああ、下着を洗わせられて嫌だ……なんて言っちまってさ」
「ふぅん……あんたが洗濯に取りかかるまえに、自分がやっちゃおうとしたわけか。まあ、あの子も悪気はないんでしょうけど。――ねぇ、ちょっとスポンジ取ってよ」
「ああ……」
ジークはテーブルから飛び降りると、言われるままにスポンジを手に取った。
湿らせるために蛇口をひねる。
蛇口からは流れだしてきたのは、コーヒー色に染まった水だ。――これもリムルの仕業だった。
スポンジを手渡そうとしたジークは、ふと、あることに気づいて手を止めた。
「ちょっと待てよ? それじゃあおまえ、全部わかってて吹っ掛けやがったのか? 5クレジットなんて大金――」
「そうよぉ」
「ひっでぇヤツ」
「はいはい。どうせあたしは、育ちの悪くて金にがめつい性悪オンナですよーっだ」
アニーは舌を出して応じた。
「そっ……」
そんなことないよと言いかけて、ジークは言葉を飲みこんだ。
かわりに、前から疑問に思っていたことを口にする。
「そっ…、そんなに金ばかり稼いで……いったいどうすんだよ?」
基本給とその他諸々の手当にボーナス。
この半年でアニーに支払った給料は500クレジットを軽く越えている。服や宝石に金をかけるわけでもなく、それだけの大金がいったいどこに消えてゆくのか。
「いいでしょ、なんに使ったって」
「教えろよ、気になるだろ?」
しばらくためらってから、アニーは言った。
「……仕送りしてるのよ」
「あ……」
まずいことを聞いてしまったと、ジークは頭を掻いた。
『SSS』に来る以前のアニーをまるで知らないことに、いまさらながら気づく。
「なによ……ひとの顔、じろじろ見ないでよね」
きまり悪げに、アニーが言う。
「い、いやぁ……」
ふたりのあいだに、気まずい空気が漂う。
こういうときどうすればいいのか、ジークは知らない。歳を取って経験を積めば、自然と覚えてゆくものだろうか。
壁際のコンソールから、ベルの音が響いてきた。
「あ…、あたし出る」
救われたような顔で、アニーはコンソールに向かった。外から掛かってきた映話を取って、よそ行きの声で応対する。相手の顔は、ジークの位置からだと見えない。ミニスカートに包まれた小振りなヒップがモニターを隠している。
猫をかぶって応対していたアニーだったが、その声色が、突如としてがらりと変わる。
「――誰よ、あんた?」
数秒前とうってかわって、ぞんざい極まりない口調だ。
「誰だい?」
「知らない。変な女! ――あんたを出してくれってさ」
ジークはアニーにかわってコンソールの前に立った。モニターの中で笑顔を浮かべていたのは、見覚えのある女の子だった。
「やあリズ、ひさしぶり。――どうしたんだい?」
『もうブラウンさんたらぁ、ちっとも掛けてきてくれないんだもん。せっかくアドレス渡しといたのにィ……。だからァ、わたしのほうから掛けちゃった』
なまめかしい視線を送られて、ジークはどきりとした。
『今夜さ、これから時間取れない? わたし、いいお店知ってるんだ』
「ち、ちょっと――いま困るよ。あとでこっちから掛け直すから――なっ?」
ジークはうろたえた。コンソールに屈みこんで、小声になる。
首筋に、突き刺さるような視線を感じる。ちらりと振り返ると、真後ろにアニーが立っていた。
「誰よ。その女?」
「ほ、ほらっ! おまえだって会ってるだろ? 書類にサインを取りにきて、オレのことを何度もぶっ叩いていった女の子!」
「こんなケバかったっけ?」
アニーは疑わしげな目をモニターに向けた。
無理もない。アニーは作業着姿の彼女しか見ていないのだ。モニターの中で微笑んでいる彼女は、ばっちりと化粧を決めたうえで、肩出しのビスチェに大きなイヤリングという派手な出で立ちだ。
モニターの隅に浮かんでいる時計表示には、銀河標準時で4時を回ったところと出ている。アフター・フォーとかいうやつだ。ジークたち船乗りには縁のないものだが――。
『ねえ――会えない?』
流し目に、背筋がぞくりとする。
「いや、ちょっと……その、今日は忙しくて」
生まれて初めてのデートのお誘いではあったが、ジークは口を濁してそう言った。背後にぴったりとアニーに立たれていては、他に選択の予知はない。NOだ。
『そうなんだぁ……ざーんねん。でもこのつぎは付きあってね』
「あ、うん――ごめん」
「もういいわね? じゃあ切るわよ――」
横から身を乗りだしてきたアニーが、映話のスイッチに手をかける。
それが見えたのか、リズは慌てて叫んだ。
『あっ――ちょっと待って! まだあるんだから!』
「なによ?」
不機嫌そうな声で、アニーが答える。
その頭をわきに押しやって、ジークはモニターの正面に立った。
「なんだい?」
『会ってから話そうと思ったんだけど、こんどの仕事ってちょっとヤバそうなのよ』
「こんどの仕事?」
『ええ。ブラウンさんの会社――SSSだっけ? その次のお仕事ことよ』
「つぎの仕事だって?」
ジークは眉を寄せて考えた。ちらりと、アニーを見る。
「エレナさんなら、ガーデンでハーブの世話。気持ちを落ち着けたいんだってさ」
会社の仕事を取ってくるのは、交渉人であるエレナの役目だった。ほかの誰かが勝手に仕事を取るようなことはない。
ないはずだ。
ないはずなのだが――。
「ほら、このあいだのピンクの髪の男の子。なんていったっけ? あの子がね――」
リズが言いかけるのと同時に、廊下を走ってくる音がした。
「たっだいまーっ! ねぇねぇジークぅ、聞いて聞いてぇ!」
風とともに、リムルがキッチンに飛びこんでくる。
「あのねっあのね、ぼくねぼくねっ――」
顔をいっぱいに輝かせて、リムルは何かを言おうとした。
ジークは片手で制した。聞かずとも、わかっていた。
わかってしまうのだった。