セーラのおしごと
「船長! 船長! たいへんです船長っ!!」
船長席に深々と座り物思いに耽っていたセーラは、その声で現実に引き戻された。爪を深々と噛んでいたことに気がついて、慌てて手をお尻の下に敷く。
「――なんですか。いったい」
船長は常に平静であるべき。
どんな苦境におかれようと、ただの一度も慌てたことのない〝彼〟を見習って、セーラは自分を律することにしていた。いまこのときも、そのように――出来たと思う。
「報告なさい」
一段高くなった船長の椅子から、声を下ろす。
「ケンカが――わたしたちじゃ、止められなくって!」
その五回生の女子は、取り乱しきっていた。
「なんですか。そんなこと」
セーラは溜めていた息を吐きだした。
血気にはやる男子が、つまらないことでケンカを始めることは、よくあることだった。口論から発展しての殴り合いだったり、本当につまらない理由ではあるが――女の子のことだったり、理由は様々だ。
しかし、セーラが出てゆくまでもない。
キースか、ラファエルか――どちらかが、セーラの到着前に制圧してしまってくれているのが常である。彼らにかなう人間は、ジリオラを除くと、船内には誰もいない。
「キースとラファエルはどこにいますか? 非番でしょう。二人に片付けさせなさい」
「それがっ! ケンカしているのっ! ――キースさんとラファエルさんの、二人なんですっ!」
「なんで……すって?」
これにはセーラも顔色を変えた。
――なぜ二人が。いやそれより誰が二人を止めるのか。
セーラはブリッジに顔をさまよわせた。機関士席は空だった。そこに座っているはずの、船内最強の人物――ジリオラは、ブリッジの隅っこのほうの円陣になぜか加わっていた。ブリッジクルーのうち、正要員ばかり、女ばかりで六人ほど――怪しげな寄り合いが、いつの間にかできあがっていた。
そこの連中が、全員、こちらを見ている。
なんなのか。なぜ自分のことを見てくるのか。
ふとセーラは気がついた。片隅の六人ばかりでなく、ブリッジ中の全員の視線が自分に集まっている。
期待されている。船長として。
「――どこです?」
セーラは椅子の手すりを跨ぎ越えると、ハッチにその身を飛ばした。呼びに来た女子に先導させて、船内通路を突き進む。
各フロアから覗き出している顔に、手を振って下がらせる。
期待される視線を、首筋と背中で、痛いほど味わう。普段なら心地良いはずのその視線が、いまはひたすらに重かった。
心臓が、ばくばくと血液を送り出している。
こともあろうに、あの二人がケンカだなんて。いったいなんで。
誰が止めるというのか。自分だ。自分が止めなければならないのだ。あの二人のケンカを。できるのか。自分に。やらねばならない。船のすべてに責任を持つのが船長というものだ。
どうしてこんなときに〝彼〟はいないのか。
心臓が早鐘を打っている。彼のように、どんな苦境においても平静でいるなんて、自分には無理だと、セーラは思った。
現場が見えてくる。
機関部の手前。倉庫スペースとの境界付近の主通路に、人間が何人も浮かんでいた。半分は野次馬だが、残りの半分は伸びてしまった人間だ。
キースとラファエルの姿は、浮遊物の向こうにあった。
激しく殴り合っている。
壁を蹴りつけて反動をつけ、相手に向かっていっては、拳で殴りつける。壁に飛ばされたほうは、反動を付けて戻ってきて、また殴り飛ばす。その繰り返しだ。
格闘の達人である二人らしからぬ戦いかただった。無重力下の戦いで、打撃はまったく有効ではない。無重力下で相手を屈服させ、戦闘力を奪うことを目的とするなら、真に有効なのは関節技であり、絞め技だった。
そんなことを当然知っているはずの二人なのに、殴り合いを続けている。
セーラはわけがわからず、野次馬の一人と化して、その場に浮かんでいた。
「なぜ……、ケンカ……してるの?」
自分をここまで連れてきた女子に、そう訊いた。
「ラフが――キースさんに撤回を要求して」
「撤回?」
愛称でラファエルのことを呼んでいる。顔をよく見てみれば――彼女はラファエル親衛隊のうちの一人だった。
「キースさんが、あとユーリ君もなんですけど――言って。それでラフが怒っちゃって、その言葉を撤回しろって迫って、それで殴り合いになっちゃって。止めに入った人たちも殴られちゃってノビちゃって――」
「よくわかりませんわ。わかるように。きちんと説明なさい。いったいなにを言ったというのです?」
「私だってわかりません! あんなに――あんなに怒ったラフをみるの! 私だってはじめてでっ!」
彼女はすっかり混乱しているようで、どうにも使えない。
気絶して浮かんでいる顔ぶれのなかに、ユーリの姿もあったような気がする。まっ先にのされて浮かんでいたらしい。死人に口なし。他の説明役を求めて顔をさまよわせると、まずいものに出会ってしまった。
期待する視線だ。
延々と続く悲惨な殴り合いに、野次馬の目は見物を楽しむというより、セーラが止めてくれることを願う色になっている。
殴られた片方が、ちょうどセーラのところにふっ飛んでくる。その背中を受け止めて、ともに後方に漂いつつ、セーラは抱きとめた男に詰問した。
「ラァフ――! あなた何をやっていらっしゃるのっ!?」
親衛隊の娘たちとはやや違う――彼女しか使わない愛称で呼びかけると、闘争中の男も、誰に声をかけられているのか、気がついたようだった。
「単なるケンカさ」
と、振り向いてきた男は、口と鼻から流れる血を拭いもせず、言ってきた。
「ケ、ケンカ……って」
本人の口から臆面もなく告げられて、セーラは言葉を失った。
ラファエルはすぐまた殴り合いに戻っていこうとする。
「およしなさい――二人ともっ!」
セーラは叫んで、その肩を掴みにいった。
「放してくれたまえセーラ。僕はそいつを殴らなくてはならない。そいつに――あの言葉を撤回させなければ、僕の気が済まない。僕は君を殴るッ! 君が撤回するまで、殴るのをやめないッ!」
「おやめなさい――ラフっ!」
後ろから羽交い締めにしようとするのだが、男の力には、まったくかなわない。ラファエルは抵抗らしい抵抗もみせず、ただエキサイトしているだけだというのに、セーラは振り回されるばかりだった。体重で二倍近い格差がある。筋肉量ではもっと大きな差がついてしまうだろう。
「撤回はしない。何度でも言ってやる」
キースも口元の血を拭いつつ、言ってくる。
「俺はあいつがこのまま帰ってこないほうがいいと、そう言った。撤回はしない。なぜなら本当にそう思っているからだ」
「まだ言うかッ!」
セーラを首に吊したまま、ラファエルが飛びだす。
「きゃぁっ!」
大きな背中にしがみつき、セーラは少女のように悲鳴をあげた。
キースの拳がラファエルの顔面を捉えにくる。その拳を顔面で受け止め、ラファエルはさらに押しこんでいった。強烈な頭突きを食らわせる。
男と男の体が激突をする。
セーラの小さな体は跳ね飛ばされた。
通路の壁に足をつき、蹴り出して、すぐに戻る。
「おやめなさい!」
二人のあいだに体を割り込ませてゆく。
「見損なったぞ、同志キース! それが仲間に対して言う言葉か!」
「俺はあいつを仲間と思ったことはない!」
「貴様ぁ!」
ラファエルが殴りかかる。キースも拳を握り固めて応じる。
「やめなさい! やめてっ! やめ――」
セーラは割って入った。
その瞬間、両頬に衝撃を感じた。
鼻の奥が熱くなる。目にちかちかと閃光が飛んで、自分がどちらを向いているのかわからなくなった。
手近なものにしがみついて、体の回転をまず止める。
口の中がなにか熱いもので溢れかえっていた。鼻から上 唇に向かっても、熱く濡れる感触が広がってゆく。
歯がうまく噛み合ってくれない。顎を動かそうとすると、耳の付け根がぎしぎしと鳴った。
「あ……」
指を入れてさぐると、血まみれの口の中から、ころんと白い塊が転がり出してきた。
ケンカはいつのまにか止まっていた。
ラファエルも――そしてキースも、セーラのことを見つめている。
口の中から出てきた奥歯を後ろ手に隠し、セーラは二人に視線を定めた。
「ケ、ケンカなんて――おやめなさい! ゆ――、許しませんことよ!」
「あ、ああ……」
「す、すまない……」
キースもラファエルも、短く言ってきただけで、すぐセーラから顔を背けていってしまう。
「わ、わかれば……、いいのです」
セーラは鷹揚にうなずいてみせたが、虚勢であると、自分でもわかっていた。止めようと割って入って、二人からパンチを食らって、歯が折れて鼻血も流して――。
ケンカを止めたのではなく、止めてもらえただけだった。
自分の器量で止めたわけではない。
男性の考えることはよくわからないけれど、たぶん、女の顔を殴ってしまって、それで続けられなくなってしまったのだろう。
そんなこと――、べつに自分でなくとも――セーラ・バーニンガムでなくとも、女でありさえすれば、誰でもできてしまえることだった。
「キース、ラファエル。二人とも持ち場に戻りなさい」
二人に対して、そう言った。
最低限の体裁を整えるために、そう言った。
セーラの考えることは、一刻も早く、この場から逃げ出すことだけだった。
「皆も持ち場にお戻りなさい!」
集まっているギャラリーを一喝して、人垣を割るようにして、セーラはその場をあとにした。




