アリエルの憂鬱
「あのう。アリエルさぁん」
「あっ。はい」
背後から声を掛けられて、アリエルは止まろうとした。壁のフックを足先で狙って、爪先をフックに――。
「はわわっ」
ごちん。
速度のあるまま、足先の一点だけで止まろうとしたものだから、直線運動が円運動に変換されて、壁におでこをしこたまぶつけてしまった。額の光学端末にヒットしたみたいで、情報知覚野に星が飛んでいる。
「あ。あの」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、とにかくだいじょうぶです」
星の飛び交う情報面を知覚外へと追いやって、涙でぼやける視覚面をしっかりと中心に据える。目の前にいる相手は、五回生の女の子だった。同い年なのに「さん」を付けて呼ばれることを不思議に思っていると、手はおずおずと遠慮がちに、話を切り出してきた。
「第十フロアなんですけど。……男の子たちが、サボタージュしてくるんです」
「サボ……タージュ?」
「あっ。……つまりサボってるってことで」
「そういうのは班長に言ってくださいよう」
「班長、私なんですけど」
「あうう~」
なんとなく波長の似ているこの相手を、アリエルは苦手としていた。ふたりしてともにボケあっていて、突っこみ役が不在なコメディアンのコンビみたいな気分になってしまうのだ。
養成校にいるあいだは百人ほどでしかなかった〝ともだち〟は、ジャングル惑星での生活を通じて二百人にまで増えていた。つまりは船の全員だ。
「とにかく、もう私じゃ手に負えないので……、船長に、言っといてくださぁい」
「あっ。はぁい」
相手を見送ってから、アリエルはふと悩んだ。
なぜ自分に言ってくるのだろう? そこまで考えて、アリエルは自分がブリッジ・クルーの一員だということに思いあたった。……まだ。いちおう。
はじめ主情報士席にいた気がするのだが、いつのまにかユーリ君が主で自分は副となり、さらにテレサちゃんがやって来てからというもの、自分は副副の狭いおんぼろ補助席に、お尻をはみ出させて座っているだけだった。
自分なんて、いてもいなくても、どーでもいー気がする。どうせ半分ほどずり落ちかけているのだし。もともとテレサちゃん用のシートなので、自分のお尻にはすこし小さいのだし。
このところのブリッジは、とても居づらい雰囲気となっていた。昼シフトも夜シフトのあいだも、船長席に鎮座しっぱなしの人物が、剣呑な空気をあたりに吐き散らしているからである。
椅子からずり落ちかけている立場としては入りにくい。――と、そこまで考えて、さっきの女の子が自分に伝言を頼んできた理由に察しがついた。自分のようなブリッジクルーの端くれでもそうなのだから、一般のクルーは、もっと入りづらいのだろう。
◇
ブリッジに辿り着くまでに、アリエルはさらに二人に捕まってしまった。厄介事の報告任務を、その度ごとに押しつけられてしまう。三人目のときには「怖いからやです自分で言ってください」と、きちんと言おうとしたのだけど。思っただけでなくて、実際に言いもしたはずなのだけど。
自分よりもっと怖がっていたその子に、怖がりの度合いで負けてしまった。
どうして断れないのか。自分のどんくささに嫌気が差す。やはり世の中は気合いであると、そう思いつつ、ブリッジへのステップを一段一段登ってゆく。
ブリッジに上がるなり、アリエルは気合いを入れて、第一声を張りあげた。
「あの――」
「遅い――っ!」
ひああ。
船長席の魔神から物凄い剣幕で怒鳴り散らされ、アリエルの気合いは、彼女本人を置き去りにしてどこかへ逃げて行ってしまった。
「ごめんなさいごめんなさい」
「当直時間にいったい何時間遅れれば気が済むんですのっ!?」
「そんな何時間も遅れてません。まだあの十一分五十五秒ぐらいで――あっ、いま十二分になったところですけど」
「口答えしている暇があるなら、さっさと席につきなさい」
「あっ――、はい」
自分の席につく。引き継ぎ業務をしてくるユーリ君の声が、いつもより親切に聞こえるのはなぜなのなのか考えているうちに、アリエルは重大なことを思いだした。
まだ報告をしていない。
「あのう……」
首をねじってそう言うと、予想と寸分違わず、「ぎろり」とばかりに強烈なまなざしが返ってきた。まるでレーザービームに射抜かれるように、目玉から後頭部まで貫かれたような錯覚を覚える。
アリエルはめげずに――。というか、めげきっていたが、世の中は気合いであるのだと自分に言い聞かせて、続きを口にした。
「あの……、フロア十で、男の子たちが、仕事をサボタージュしてくるって、班長のミリアさんが……」
セーラは無言で爪を噛みつづけている。指の爪がなくなってしまうのではないかと、妙な心配をしながらも、アリエルは残りの二つも口にしていった。
フロア六で男子と女子とが抗争中であるということ――。あと倉庫班の人たちが倉庫スペースを私物化しているという苦情――。
しばらく待っても、どうにも返事が来ないので、アリエルはセーラに訊いた。
「あの……。どうしましょうか。フロア十の男の子たち」
「花瓶の刑か、エンピツと空き缶の刑か、どちらかを選ばせなさい」
「はい?」
「二度言わせる、おつもり?」
「エンピツと空き缶……って。それ、いったいどういう罰なんでしょう?」
「花瓶の刑って、どーゆーやつ? それ楽しい?」
これはテレサちゃんの声。当直は三交代制で、アリエルの次のシフトのはずだから、まだ寝ているはずの時間なのに、なぜか船長席の隣に浮かんで、船長のコンソールを覗きこんでいる。
「あの……、じゃあ、フロア六のほうは?」
「全員、鞭打ち百回」
「倉庫班の人たちの占有問題は」
「独房入り一週間」
「独房なんてありませんけど。てゆうか、倉庫の中に個人スペース作っちゃっているのが問題なんですけど。プライバシーは贅沢品っていうかあ」
目線を合わせずに言ってくるセーラが、どことなく不気味だった。
言ってくることも、どこか変だった。
「だいたい、どうして船内待機なわけ? 飛んでもいない船の中でさぁ――。街のほうにいけば、部屋なんていくらでもあるじゃん。ひとり一部屋、なんなら二部屋でも三部屋でも、自分の部屋が持てるのに」
「すぐにでも出発して帰還の途につくためです」
妹の声に、姉がぴしりと言って返す。
「だったらジーク置いてって、すぐに出発しちゃったら?」
「なんですって?」
ひいい。
アリエルは心の中で悲鳴をあげていた。やっぱりだめだ。自分はだめだ。気合いは無理だ。ごめんなさい。
テレサちゃんは一歩も引かず、姉の視線を受け止めていた。一歩も引かないだけでなく、にんまりと、したたかに笑みを浮かべる余裕さえ持っている。
「そんなにジークのことぉ、気になるんだぁ」
あ――と、アリエルは気がついた。テレサの言葉で、いまわかった。セーラがどことなくおかしいのは、ジークさんのことを心配しているのだ。
「あの……」
アリエルが口を開くが、セーラは視線を向けてもこない。
「あのっ……」
――それなら心配はいらないですよ。
「あのっ……」
――だってジークさんだし。
言おう、言おうと、しているのだが、セーラは眉間に縦皺を寄せて、不機嫌そうに壁を見つめている。
テレサがあからさまな舌打ちをして、つまんない、と言い残して席を離れていっても、アリエルはまだぐずぐずしていた。
ジークの不在が――、寂しくはあっても――、心配しなくてよいということを――、なんとか伝えたいと思うのだが――。
自分なんて、再び巡り会えるまで、いったい何ヶ月、辛抱したことやら。
「あの……。ジークさん、早く帰ってくると、いいですよね」
アリエルはそっぽを向いてるセーラに向けて、そう言った。
ようやく言えた。やった。
「あたりまえですっ!」
ようやく言えたひとことなのに、セーラはすごい剣幕になって怒鳴り返してきた。
「あわあわあわ」
飛び上がった拍子に足が浮きあがってしまう。微小重力のなかで手脚が完全に離れてしまうと、もうどうにもならない。アリエルはただ、ばたばたと、手脚を振り回すばかりだった。
「はいはい。あんた。こっち来なさいって」
アニーがやってきて、引っぱって行ってくれる。