アニーの憂鬱
三日が経っても、ジークは帰ってこなかった。
出航準備が終わっても、|《にょろQ》は出るに出られず、ドックに足止めを食らっていた。
船のほうでは色々起きているが、アニーは陸に上がって羽を伸ばしていた。飛んでもいない船は鉄のカンオケだ。二百人ぎゅう詰めのまま、我慢していられる連中の気が知れない。
というわけで、アニーは昼から一人で酒場に繰り出していた。
「姐さん。ご機嫌っすね」
空になったカップに、とくとくと酒をついでゆくのは、店に入って顔を合わせたΩ人の誰かであった。「姐さん」と読んでくるからには、マギーの整備班の誰かなのだろう。なにも言っていないのに勝手に奢りに掛かってくるので、そのまま奢らせている。
「んー……。旦那のいない休日ってやつ? それとも子供が林間学校に出かけてったってカンジ? ほーんと、手のかかる子だったからなぁ。こーゆーの、何年ぶりかなー。あれ? 何年はつきあってないのか。まだ、ええと……、一年半? うわぁ。それっぽっちだっけか」
ほとんど独り言に近い内容をアニーは喋っていた。隣の男は、空気のようなものだった。
椅子を斜めに傾けて、テーブルの上に脚を投げだし、ぽけらーとした顔で、壁と天井の継ぎ目あたりを見つめている。
「姐さん。子供いるんですかい」
男は向かいの席から隣に移って来て、そのむさい顔を近づけてくる。
「俺っちの子供も産んでくれませんかね。一人――、できれば二人、いや三人。なんならもっとたくさん」
ふつうなら蹴り倒して踏みつけてやっているところだが、Ω人を相手にいちいち実行していては、靴のかかとがすり減ってしまう。アニーは「バスケ? ベースボール? それともサッカー?」と適当に相づちを打ちながら、酒を注がせていった。
ジークとは、歴史改変が起きる前の宇宙で九ヶ月。歴史が変わった後の宇宙で九ヶ月。合計一年半の付きあいだった。
出会ったときには、自分はまだ十五歳で、あいつは十六歳だった。それがもう自分は十六歳で、あいつは十七歳である。またすぐに自分は十七歳となり、あいつとしばらくのあいだだけ、同い年となる。
アニーはカップの半分を一気に空けた。
ともすればあいつのことを考えてしまう。酒に浸かってぼうっとしているくらいが丁度いい。
この店は、まえ、ε人の豹柄のおねえさんたちが、ぼったくりバーとして開いていた店だった。
ジルと、その激烈ファンのΔ人(ライオン丸とニックネームが付いた)とで、ちょっと締めてやった結果、建て直された店は健全な飲み屋として生まれ変わっていた。〝教育〟の最中に壁が抜けて隣の部屋と繋がったせいで店内も広くなり、いい感じである。経営者も堅気のΞ人となっていた。
アニーがひとつ驚いたのは、ライオン丸の下の名はソードマンだということだった。ジルの何代前かのご先祖様が遺伝子提供者の一人となっているらしく、間接的にちょっぴり親戚であるらしい。
「名前だってもう決めてあるんでさ。男のはじめがジョン。次がボブ。その次がスティーブ。次の次がマイケル。次の次の次がウイリアム。次の次の……なんだっけ? まあいいか。ロバートもいいなぁ。女の子のほうは、エミリー、サラ、ジェシカ、エリザベス、ヘザー」
ありそうな名前トップテンに並びそうな名前を並べ立ててゆく。男の話を空気のように聞き流して、アニーはカップを傾けていた。底の一滴まで喉に流しこんで、かぽんと音を立ててテーブルを叩くが、男は話すことに夢中で次を注いでこようとしなかった。酒瓶は空になっていた。もう金がないのかもしれない。
つまんにゃい。
と、入口の押し戸を両側に開いて、一人、入ってきた。マントを着て、フードを目深にかぶってはいるが、シルエットと歩きかたからして、Ω人の――しかも若い男のようである。
男は店内を軽く見回すと、人の少ないカウンターの端を選んで座った。
Ξ人のバーテンに、二言、三言、なにかを訊いている。何本か取り出してバーテンに向けて滑らせたのは、希金属のバーだった。
共通ガバス通貨ではなくて、希金属だというのがアニーの目を引いた。
店内に来てしばらく経つというのに、男はフードを外そうともしない。
いかにも、いわくありげである。
男が被ったままのフードを剥いてみたくなり――、アニーは席を立った。
「あれ? ……姐さん?」
酒をくれない男を置き去りにして、まっすぐカウンターへと歩いていった。
「ハイ――。ひとり?」
と声を掛けて、返事を待たずに、隣の空いたスツールに腰掛ける。持ってきた空のカップをテーブルに置く。
「なにか奢ってよ。それとも、奢ってあげようか」
フードの中から鋭い視線が向けられるのがわかる。危険な香りに、アニーはぞくぞくと高まるものを感じた。
「ドワーブン・ハルモデウム。――これ、いっぱいにして」
バーテンに視線を投げ、つぎに手元のカップに目線を落とす。蒸留系の強い酒だ。小人が腹の中で大狂乱するとかいう、そんな名前の酒だった。
「それと、こっちのお兄さんにも同じものを――」
「ソーダ水は――」
男が手で遮ってくる。
「――あるか?」
その声は思っていたよりも若かった。青年というよりも少年の声――。それにどこかで聞いたことのある声でもあった。
それに――。
酒場でそんなもんを注文するやつは、アニーは銀河でひとりしか知らなかった。
バーテンは無言でソーダ水を出してきた。じつはこの店の裏メニューにはそれがある。前にジークが注文したことがあるからだ。
男はフードをかぶったままでストローに口を付けてゆく。
「あんたさぁ――、なにやってんの? こんなとこで」
無視された。
カチンときた。
手を伸ばしてフードを剥ぎ取りにかかる。
「あれっ――?」
フードから出てきたその頭は、髪の毛が黒くて――。茶色ではなくて――。
アニーはその髪の毛をまじまじと見つめた。髪の色が違うだけでなく、顔にも見たことのない傷跡がある。
しかし目のかたちから、顔の輪郭から、髪のくせまで、他は見まがうばかりにそっくりであった。どうして自分がそんなにフードを剥いでみたかったのか、アニーはなんとなくわかった気がした。
「――女。俺に用があるのか? ないなら、あっちへいけ」
「うん。そうする」
アニーは素直にそう言って、スツール二つぶん――離れていった。
そっくりさんだと納得したので、因縁を付ける理由はなくなってしまった。
かぽん、かぽんと空のカップをテーブルで鳴らしていると、男がちらちらと視線を向けてくるのが視界の隅に映った。
やがて男の指がぴしりと鳴る。
「ドワーブン・ハルモデウム――だったな。そいつをこの女に一杯」
呼びつけられたバーテンは、そそくさと酒を注ぎにきた。
「聞きたい話がある」
目の前で透明な酒が注がれてゆくさまを見つめていると、二つ離れた場所から、男がそう言ってきた。
さっきバーテンに聞いていたのと同じ話だろう。アニーはそう思った。初めて訪れた場所で、手っ取り早く情報収集をしようとするなら、酒場のマスターにチップをはずむか、常連客に酒をおごるのが一番だ。アニーたちも初めての場所ではそうしている。
そこでふと――、いいことに気づいて、アニーは猫のように目を細めた。
「あたしに用があるの? あるなら、こっちにきなさいよ」
男はさっき、あっちいけと――猫でも追い払うかのように、あしらってくれた。そのお返しである。用があるなら、犬のように足下に駆け寄ってこい、てなもんだ。
二つ分の席の隔たりは大きかった。一つ分なら会話も通るが、二つ分となるとそうはいかない。
アニーはそれきり前を向いて、カップを両手で持って、酒にちびちび口を付けていた。
男が横に一つ動き、二つ動いて、アニーの隣にやってくる。
隣の席を男の体が埋めた瞬間――、空気とともに体臭が迫ってきた。
「臭っ」
じつをいうとそれほどでもなくて、わるくない匂いではあったのだが、アニーはジークとそっくりな顔のこの男を傷つけるつもりで、そう言ってみた。
「あんた、ちゃんとお風呂入ってる? 耳のうしろまでちゃんと洗ってる?」
「おまえは俺のママかなにかか?」
「ママになって欲しいわけ?」
そう聞くと、男は黙りこんでしまった。
「なにか聞きたかったんだっけ?」
いじめすぎてしまったかと、やや胸が痛み、アニーは親切心でそう切り出した。
「……もういい」
「えっ? なんて言ったの?」
聞こえなかったことにして、アニーはもういちど聞き返した。
男はしばらく黙っていたが、やがて観念したように、口を開いた。
「……マツシバ・インダストリーに関して、知っていることがあれば話してくれ。特に女社長の動向に関して」
「酒一杯で?」
男は無言で、希金属のバーを机に滑らしてきた。肘に当たってきたそれを受け取ることなく、アニーはさらに言ってのけた。
「名前も知らない相手に?」
男は頭をかきむしった。しばらくしてから、ぽつりと言う。
「ジークフリードだ。……苗字は知らん」
ずくん、と心が締めつけられる。
「やだ」
と、思わず口にしてしまう。
「邪魔したな」
男はレアメタルのバーを拾いあげると、席を立ち、背中を向けた。
「あっ――」
翻ったマントの裾を、アニーは――はしっとばかりに掴んでいた。
男はこわい顔で振り返ってきた。
「あ。いや。そうじゃなくて……。いまの、いやって、そういう意味じゃなくて……」
アニーはしどろもどろになって説明した。自分らしくなかった。アルコールのせいだと思いたい。
「その……、知ってるやつに、顔だけじゃなくて、名前まで……似てたもんだから」
「そういや、はじめ俺のことを、誰かと間違えていたようだな?」
「そうそう。もうそっくりで」
男は機嫌を直したらしい。アニーは嬉しくなって相槌を打った。
「俺とそいつとは――そんなに、似てるのか?」
男は顔を近づけてきた。男が女を口説くときの距離で囁いてくる。
「ううん。ぜんぜん似てない」
宇宙の終わりまで待っていても、あいつがこんな真似をしてくることはありえない。
ぐいぐい近づいてくる顔に、手を突いて、遠ざける
「似てるのか、似てないのか、どっちなんだよ」
男は笑ってそう言った。
もといたテーブルのほうに目をやると、名前を知らないΩ人のオッサンが、一人で酒を煽っていた。目が合うと、肩をすくめて盃をかかげ、気にしないで楽しんでくれ、みたいなジェスチャーを返してくる。
誤解している。
こいつがあいつだと思っている。
アニーでさえ見間違えたぐらいで、無理もないのだが。
「やだ」
アニーはつぶやいた。傍から見ていたら、これではまるきりデートではないか。
「こんどはどういう意味の〝やだ〟なんだ?」
男は片手をあげて、ソーダ水のおかわりを注文している。
ぷいと顔をそむけて、入口のほうを向くと、何人かの集団が入ってくるのが目にとまる。先頭の者は、別な意味で見たことのある顔だった。
「やばっ――」
「こんどはどういう種類の〝やばい〟なんだ?」
アホなことを言ってる男の首根っこを引っ掴み、ひょいとカウンターを飛び越えて内側に躍りこむ。男の体も引きずり入れる。
アニーたちがカウンターに逃げこんだ直後、シャワーのようにレーザーが横から降ってきた。
飛び交うレーザーは無音だが、壁のあたりが騒々しいことになっていた。酒瓶が踊って、みるみる破片に変わってゆく。
降り注ぐ破片から、頭をかばいつつ、アニーは隣の男の様子をみた。
「なにがどうした?」
まるで動じず、そう訊いてくる。その反応が嬉しくなる。
「お礼参りに来たみたい」
「なんの恨みだ?」
「うちらの仲間が、このあいだ教育的指導をしたから、それだと思う」
「教育が足りないな」
レーザー・マシンガンの銃撃が止む。発振チューブが加熱したか、バッテリーが上がったか、どちらかだろう。フルオートであれだけ撃っていれば、そうなって当然だ。
カウンターに背中をつけた男が、腰から銃を抜く。その銃もまた、見たことのあるレイガンで――。
「勘弁してよ、もう」
アニーは思わずそう言ってしまっていた。
「なにか言ったか?」
聞いてくる男に、違うことを言い返す。
「殺すこたぁないでしょ」
「そういうものか?」
「ケンカに銃なんか持ちだすなって、再教育してやらなきゃ」
「相手は何人なんだ?」
面倒くさそうに、男は言ってくる。
「ε人のお姉さんがたが――、たぶん四人」
「なら銃はやめだ」
男はようやく銃をしまった。
カウンターの中から、無造作に立ち上がる。
戸口の四人から銃口が向けられる。引き金が引かれ、レーザーが撃ち出されてくるが、男はマントを投げつけて受け止めた。対ビームコーティングが施されているらしく、穴も開かない。
男はその隙にカウンターを乗り越えていた。手近な豹女のもとに向かう。その途中で倒れた椅子を蹴り上げ、相手に向けて飛ばしてゆく。顔面めがけて飛んできた椅子を、長く伸びた爪が分断する。だがそのときにはもう、男は足下に滑りこんでいた。
脚をすくい、一人目を倒す。
二人目が重金属製の爪を長く伸ばして、床ごと三つに刻み目をつけるが、男の姿はもうそこにない。高々と舞いあがった空中から、足をギロチンのように振り下ろす。たっぷり一Gの重力を乗せたギロチンチョップが、首筋に決まった。
その頃になって、酒場のあちこちから喝采があがりはじめる。最初のレーザーの洗礼を逃れた酒場の客は、倒れたテーブルの陰や壁際に退避して、見物に回っていた。一発、二発、流れ弾に当たっても、どうということのない連中だから、気楽なものである。
三人目の、他よりやや体格のいい豹女が、大きな箱形の兵器を腰だめに構える。レーザー・バルカンであった。マシンガンなどとは比較にならない凶悪な兵器が、人に対して振り向けられる。
仲間も道連れにしかねない位置と角度で、引き金が絞られた。
アニーは地を蹴り椅子を蹴り、テーブルを蹴り、宙を渡って、六連銃身の上に降り立った。体重を受けて下を向いた銃身が、光を撒き散らして床を掘り抜いてゆく。
射の顎を蹴り上げつつ、その勢いのまま、後ろに向けて宙返りする。サマーソルトを決めて降り立ったところには、男がいた。
「下がってろ」
男が言う。
「そっちこそ」
アニーが言う。
背中合わせになりながら、二人で周囲に目を走らせた。
倒れた三人がのっそりと起きあがってくるところだった。まだたいしたダメージも与えていない。Ω人相手なら致命傷になるようなことをして、ようやくダメージとしてカウントされるのだ。ここの連中は。
「ねえ、あんた? 重力ないとダメなひと?」
背中越しにアニーは訊いた。男はにやりと笑って、返してきた。
「俺を誰だと思ってるんだ?」
――宇宙生まれで、宇宙育ちの男の子。あたしとおんなじ。
と、内心で口にして、アニーはナイフを取り出した。壁の配電盤に向けて放る。火花が飛んで、ブレーカーが落ちた。
室内はいきなり暗くなり、入口からのわずかな光だけが頼りとなった。それだけではなく、重力が失われてゆき、やがて足が地面を離れるようになった。
薄闇のなかで、白光がきらめく。
彼女たちの生の刃物が交錯する。空間の覇者たるε人たちは、重力が消えたせいで、動きのキレが増していた。だがアニーたち二人の側はそれを上回っていた。
ケンカが終決するまでには、さほどの時間は必要でなかった。