表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星くず英雄伝  作者: 新木伸
EP10~12「鏡像宇宙の英雄達」 第三章
308/333

悪女と悪党

 広大な湯面が広がっていた。たなびく湯気が低く立ちこめている。


 果てが見えないほどの洋々たる湯殿であった。


 湯面と同じく、どこまでも続く天井も、それを支える数々の柱も、すべて人工木で組み上げられていた。檜の香りが湯気に乗って、すべての合間に漂っている。


 湯殿の豪華さにくらべて、空間のほうは空虚であった。これだけの広さを使っているのは、ただ一人きりだ。


 少女がひとり、湯の合間に立っている。


 湯をすくっては、白い裸身にかけている。


 肩口から流れ落ちる湯は、乳房の頂を越えてから下腹までなだらかに伝ってゆき、最後には腿の途中から湯面へと還ってゆく。その細い肢体は、まだ少女であり、女と呼ぶためには、二つ三つほど齢が足りていない。


 だが表情だけは別だ。


 満足しきった顔をして、少女は中空を見上げている。その顔はとても少女のものではない。


 少女の心の一部は、精神感応によって、常に|《星鯨》と繋がっていた。いまは心の半分ほどを重ね合わせて《星鯨》の愉悦を感じている。惑星一つを食べきって食欲を満たした《星鯨》の快楽を、少女は我が事のように味わっていた。


「――お待ちください! お待ちくださいっ!! いま湯浴みの最中で――」


 侍女たちの声が重なって響いた。


 無数の足音を引き連れながら、ひとつの足音が荒々しく床を鳴らせて、湯殿に踏み込んでくる。


「ラセリア! ラセリアはいるか!」

「――どうされました? ジークフリード様?」


 微笑むその顔には余裕さえあった。ラセリアと呼ばれた少女は、振り返ったときには、口元の笑いを収めきっていた。


 全裸のその身を隠そうともせずに、板間に立つ相手を見上げにかかる。


 遅れて追いついてきた侍女たちを、手の仕草で追い払う。じきに湯殿は二人きりとなる。


「おまえ。なにを考えている?」


 侍女たちの気配が、壁の向こうからも消えるまで待って、男は声を落としてそう言った。押し殺してはいるが、静かな怒りがこめられている。


「いいお湯ですわよ。ジークフリード様も、ご一緒に、いかがです?」

「なにを考えているのかと、そう言った」

「いまは貴方様のことを」


 その言葉が癇に触れたか――。


 男は着衣のまま、湯の中に踏みこんできた。靴も脱いでいない。


 ズボンの膝上までを湯に浸し、男は少女の前に立つと――にらみつけた。


「いいお湯でしょう?」


 と、少女は手を取って湯の深みに誘おうとするのだが、男は動かない。


「いつまで、ここにいるつもりだ?」

「とりあえず、のぼせるまでというのは?」

「あの惑星が無人だと偽ってみたり、用が済んだのに立ち去らなかったり、――いったい、なにを考えている?」

「偽った覚えはありませんわ。ただ言わなかっただけ」


 立ち尽くしたままの男を残して、少女は一人で湯のなかに潜んだ。髪が扇のように広がって、湯の合間をゆたう。


 少女の言葉になにを読み取ったのか。男の顔が険しくなった。


「おまえとは目的が同じだから、動いているにすぎない」

「あら、わたくしのからだは、目的ではないので?」

「俺の信頼を裏切るなよ」

「いま貴方様は、利害が一致していると――つまり、おたがいに利用し合うだけの間柄だと、そう言われたように思えるのですけど?」


 少女はあいかわらず穏やかな口調で言っているが、その内容は、男のほうが一方的に信頼を寄せているだけと、事実を冷酷に突きつけるものだった。


 男の顔が、険しいというより、冷たくかわった。


「……もういちどだけ訊く。この宙域に留まり続けるのは、なぜだ?」


 男はそう訊いた。少女は答えずにただ笑う。


 あの日以来――男と少女とは、無数の星々を|《星鯨》に食わせ続けていた。男が少女から聞かされていた理由は、《星鯨》に体力を付けさせるため――というものである。来るべき戦いのための準備であった。すでに二十四もの星系を回り、母星を含む岩石型の惑星をすべて砕いて、《星鯨》に飲みこませている。


 通常、恒星系というものは、数個の岩石型惑星と、二つ三つのガス惑星を持っている。食べさせるのは岩石型の惑星だけだ。質量的にはガス惑星のほうが大きいものの、水に浮かんでしまうほどの比重しか持たず、摂取のために掛かる時間と質量の効率でいえば、岩石型惑星のほうが遙かに勝っている。


 ナノテク全盛のこの世界では、たいていの岩石型惑星には、なんらかの種族が住み着いている。――が、それは問題にならない。退去しなければ、そのまま惑星とともに|《星鯨》の腹に収まってもらうだけであるし、抵抗しても排除するだけである。男も少女も、先住民のことは、一切、関知していない。


 惑星を食らうのは、ただ単に、|《星鯨》の腹を満たすためである。


 男は少女から、そう聞かされていた。


 そうであれば、惑星のなくなったこの宙域には、もう用がないはずである。なのに少女は、|《星鯨》をこの宙域に留まらせつづけていた。


 その理由を、言おうとはしない。


 最後通告のつもりで放った言葉を、少女は――ラセリアは、薄く笑ったまま受け流している。


 男は、女の顔を見つめた。


 あの日以前のことは、霧の彼方にあるようなものだった。自分が生きていたという実感が、どうしても持てない。


 記憶はある。生まれてからそれまでの――自分がどこでなにをしてきたかという記憶は、矛盾も欠落もなく、すべてが揃っている。


 だが男には確信があった。


 あの日、女との行為の最中に、自分は生きはじめた。男女の行為のクライマックスと、ちょうど重なる瞬間に――それはやってきた。


 それ以前は、生きてはいなかった。


 記憶があるということと、実際に生きていたということとは、別である。


 男の記憶によれば、女に求め請われて、この場所――放浪惑星に逗留を決めていたようである。男は生来孤独であったはずだが、どうしてそんなことになっていたのか――。記憶はあっても、納得がゆかない。まるで他人事のように感じられてしまう。あたかも自由意志というものを持たず、あらかじめ定められたレールの上を、ただ惰性で進まされていただけのような気がする。


 不思議なことに、その感覚を持っているのは――自分が生きはじめたことを知っているのは、一部の限られた者だけに限られるらしい。男のように|《力》を備えている者か、女のように高位の存在と精神を共有している者かの、どちらかであるらしい。


 男は「生」を受けた瞬間に一緒だった女と、行動を共にしてきていた。


 目的が一致していると、つい先刻までは思っていた。


 体験を共有する仲間であるとも――思っていた。


「ジークフリード様――」


 少女が、湯の中から立ち上がる。


 男は少女を見つめていた。その裸身が美しい。


 答えを待ち受ける少女に、男は、言った。


「おまえは、信頼できない」

「ではどうされます?」

「ここで別れる」


 もともとは女のほうから逗留を願ってきたわけである。そう告げることで、女の態度を改めさせようと、男は考えていた。


「はい。ご随意に」


 目的のこととは別に、男も女のことを惜しく感じていた。これだけの女は、そうそう居るものでは――。


「えっ?」


 男は間抜け顔を浮かべた。十七歳という――年齢相応の表情が、いまこの瞬間だけ、その顔に浮かんでいる。


「ご随意に――と、そう申しあげました」

「えっ。……ああ」


 男は湯の中に立ちつくしていた。ズボンが股のあたりまで濡れてきている。


「出て行かれるのではなかったのですか?」


 催促されるように女に言われ、男は、しぶしぶと背を向けた。


 もうなにも言わなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ