出発準備
「さーんじゅうー、さんじゅういーち、さんじゅうにー……」
鍋を風呂桶に――。チビキノコは肩までどっぷりと風呂に浸かっていた。鍋に入っているのは熱燗に温めた蒸留酒。むわっとアルコールの匂いが湯気とともに立ち昇ってくる。
百まで数えきると、チビキノコは鍋のふちを三本足で跨いできた。
「はーい、つぎこっちねー」
女の子たちの声に誘導されて、チビキノコは裸のまま、ぽたぽたとしずくを垂らしながら隣の鍋へと移ってゆく。ざぷんと肩まで浸かると、数え係の子ウサギ二匹が、声を揃えて、「いーち、にー」と、またはじめから数えにかかる。
他の女の子たちは、鍋の酒を瓶に移し替えていた。
「ほい。一番ダシの出てるやつ」
割烹着姿のアニーが、詰め終わったばかりの瓶を渡してくれる。
「ふっ……、ふっふっふ……、ふっふっふっふ」
酒瓶を抱きしめて、ジークは笑った。
あのスクラップ屋の脂肪質の円盤生物のΟ人の――下からだったか上からだったか、とにかく十三番目のやつが、酒に目がないのだという。そして店の奥にわだかまったまま、パーツ探しにも出ていっていないのだという。夜の部の接客班が、そんな情報を手に入れてくれていた。
パーツは売った。もうない。七日あればまた掘ってこれる。――などと、ウソをついて騙していたのだ。ならばこちらも容赦しない。騙しかえしてやるのだ。この大宇宙の大銘酒、珍味『蕈誉』でもって、パーツをせしめてやるのだ。
まあ極上の美味だというのは本当らしい。だが酒の味はジークにはわからない。キノコ人の入浴を見ていると、三本足の合間あたりから、なにやら黄色い液体が染みだしているのだが。それで酒に色と味とが付いているのだが。あんまり飲みたくはないのだが。
一番ダシ(湯)、二番ダシ、三番ダシ――と、一日三本限定の酒だった。鍵を掛けてしまいこんでおかないと、ジリオラあたりがこっそりと飲んでいってしまうから、やはり相当な美酒なのだろう。
酒瓶を抱え込んで、ジークはほくそ笑んだ。
◇
翌日――。昼。
「これ……、パーツ……、たしかに……、渡したからなっ」
テーブルに辿り着いたところで、ジークは力尽きた。テーブルの面に突っ伏したまま、しっかりと抱えていた包みをマギーのほうに押しやる。
「ん。これ食べんの。待ってて」
マギーはフォークを操って、ランチの残りを三倍速で片づけにかかった。
たっぷりと睡眠を取ったせいか、ずいぶんと血色が戻っている。ツナギも洗濯済みでぱりっとしていて、胸だってドカンと垂直に迫り出していた。いや胸は関係ないのだが。
ジークはテーブルの面に頬を張りつけたまま、マギーの胸のあたりに視線を向けていた。
ジークが疲れ果てているのは、交渉がトラブったせいだった。
例によってまたテレサがくっついてきて、例によってあの平面ジジイが「他にも欲しがっているヤツがおってのう。もう一本、いや二本出してくれたなら」などと、性懲りもなく値を吊り上げにかかってきた。
――それがいけなかった。
カウンターに足を乗せたテレサが、その黒いスカートから白い太腿をにょっきりと突き出して、内腿のホルスターから凶悪な口径の熱線銃を抜き放ち――姉とおなじに、警告もなしに、いきなりぶっ放してしまっていた。
Ο人は三枚ほど端っこが焼けて、油がしたたっていた。その油に引火して、店の一部が燃えはじめていたりもした。
ジークが銃を取り上げたときには、テレサはジェニーの白いスカートの中から手榴弾を取り出してきていて、ピンが抜かれて遅延信管に点火されていて、白煙のしゅうしゅうと吹き上がるそれは、ちょうどカウンターの内側に投げ込まれるところであった。
さいわい、音と光の音響手榴弾だったので、たいした被害は出なかったものの、間近で直撃を食らったΟ人は、上下合わせて三七枚ともに失神していた。
爆風で火も消えていた。
ジークは金と酒とを置いて、パーツを強奪――もとい、受け取って立ち去ってきたのだった。
帰りの道すがら、テレサは懲りることもなく、「ね。早かったでしょ」と得意げに言ってきた。褒め言葉を期待するその顔に、ジークは怒る気力も、尻を百叩きする気力もなく、ただ曖昧にうなずくばかりだった。
「ほい。ごちそーさま。おいしゅうございました」
空になった皿に向かって手を合わせて、マギーは祈りだかなんだか、よくわからない仕草をしていた。
「じゃー、たしかに。うんうん。ごくろーさん。よくできましたね~」
なでなでと頭に触れてくる手を払いのける力もない。
好きなようにさせていると、マギーはひとしきりジークの髪を手指で梳いていってから、立ち上がった。
「夜明けまでには、あがるから」
去り際に掛けられた言葉に、どきりとした。
テーブル面に頬を張りつかせたまま、ジークはその言葉の持つ意味を考えていた。
その言葉は、ジークたちがこの惑星を出発することを意味していた。
◇
『みんなー! ダイスキダヨー!』
ラストコンサートは盛況のようだった。
道すがらに覗いてゆくと、よく動くテレサがまず視界に飛びこんできた。〝大きなおともだち〟が数人で作りあげた掌のステージで、歌って踊って動き回る。どうせ子供のお遊戯なのだろうと思っていたのだが、これが意外によく動いている。二人で考えた振り付けなのか、ジェニーのほうもシンクロして、きっちりダンスしているのには驚いた。いつもモタモタしている子だと思っていたのだが。なかなかどうして――。
細い手足がスリップから飛び出してくるたびに、見ていてはらはらとする。大きな連中のまなざしが、気のせいかイヤらしくギラついている気がする。巨人種族Ζ人たちと、子ウサギたちのサイズの違いは、〝体格差〟などという生やさしいものではなく――子ウサギたちは二匹一緒に、連中の口の中に、ひょいと丸飲みされてしまうぐらいなのだった。
「あぶないわよ。お兄ちゃん。落っこっちゃうんだから」
エレナの声にそう呼び止められて――ジークははじめて、自分が断崖から身を乗り出していることに気がついた。
断崖の上に立つくらいで、やつらとはちょうど目線が合う。連中の足下に立つのは自殺行為であった。特にコンサート中で、どいつもこいつも足を踏み鳴らしている最中においては――。
法被を着て。鉢巻きを締め。そして二の腕には「TELESA▽LOVE」――あるいは「JENNY▽LOVE」と彫り込んで、可聴域ぎりぎりの低い声で、「てーれさ、ちゃ~ん」「じぇ~に、ちゃ~ん」とやっている。白派と黒派とに、きっぱり分かれているらしい。
「おつかれさまでッス!」
ひとり遅れてやってきた巨人が、崖の上のジークに大声で挨拶していった。大砲をぶっぱなしたように大気が震える。
|《にょろQ》の整備現場で、重機替わりにアルバイトしているΖ人だった。彼のアルバイト代は、そのまま、右から左に素通りして、テレサ&ジェニーによって回収されてくることになっている。
「カンナのとこ行くんでしょ。お兄ちゃん」
「あ。うん」
「じゃあ一緒にいこっ」
「う。うん」
白いワンピース姿のエレナは、バスケットを提げてついてきた。ジークはただ様子を見ようと思っただけだが、エレナはバスケットの中に軽食とポットを用意してきたらしい。気の利かない自分が恥ずかしくて、足取りはやや速くなってしまう。
つづら折りの道を、ずっとずっと上っていった先に、カンナの東屋がある。
丘の上に目をやると、巨大な飛行物体が空中に静止しているのが見える。六角結晶生物Λ人の族長であった。彼らの普通の個体はせいぜいが自動販売機サイズなのだが、族長だけは特別で、宇宙船規模の巨大な体を持っている。ジークたちが明日出発すると聞きつけて、族長みずから勝負を挑んできたのだった。
賭け将棋の勝負だ。
こと知力において負けを喫することは、Λ人の誇りと名誉に関わる問題らしい。もう金は必要ないのだが、|《にょろQ》ごと回収してくれた恩人でもあって、カンナも無碍にはできないのだ。
「もうっ――。待って、お兄ちゃん」
足を止めて待つ。丘の上に浮かぶΛ人の族長は、体のあちこちに輝きが灯っていた。光が回路に沿って流れては消えるさまは、まるでイルミネーションのようだった。あの光は本物の光ではなくて、物理法則がねじ曲げられるときに発生する|《力》の輝きなのだろう。
しばらく、二人してその輝きを見上げていた。
「ここのとこ、ずうっと忙しくって、二人きりになれるのって、あんまりなかったね」
「あ。うん」
いつの間にか、エレナの腕が絡んできていた。そのことに気づいたとたん、ジークの体は硬くなった。
「お兄ちゃん、なにかエレナのこと避けていたりする?」
「そ――、そんなこと。……ないよ」
最後のほうは弱々しい声となってしまう。
「そう? アニーやカンナやジルとは、よくお話とかしてるのに。エレナとは、お仕事のことでしか、お話、してくれないんだもん」
きゅっと、エレナは絡めた腕に力をこめてきた。柔らか、というよりも、やや硬く感じる膨らみが、ジークの腕にぎゅっと押し当てられてくる。
エレナはいま十四歳の姿であった。テレサやジェニーたちとほんの二つしか違わない。
しかし中身のほうはジークの五割増しの年齢の女性なのであった。十五年前に起きた過去改変による記憶の重複を含めると、ジークの十七歳という年齢の、なんと二倍半ということになる。
正直、どう話せばいいのか、わからない。
十五年前の世界で出会ったときにはエレナは正真正銘掛け値なしの十一歳であり、利発でおませな女の子として、普通に話せていたのだが。
「お兄ちゃん……、困ってる?」
「ああ。うん」
「あ。こっちじゃなくって」
エレナはさっと身を離すと、持っていたバスケットをジークの側の手に持った。
「社長……、困ってらっしゃいます?」
「あ。うん」
ほっとする声で、ジークは素直に認めた。
「エレナちゃん」と「エレナさん」――ジークが選んでしまったのは「エレナさん」のほうだ。十五年前の世界に十一歳の少女を置き去りにしてきてしまった。そしてこのところずっと、彼女は「エレナちゃん」のままでいる。養成校の連中の前では、年相応の仕草をしていなければならないわけだが、身内だけでいるときにまで「エレナちゃん」でいるのだ。それがたとえ嫌がらせであったのだとしても、抗議する権利は、ジークにはないのだった。
空から降りおろされる幾色もの光に照らされて、エレナの顔も幾色にも光っていた。
「?」
その顔に迷いの色が浮かんでいるような気がした。もっとよく見ようとして、ジークは顔を近づけていった。
――と、エレナが小さな手で、ジークの口元を押しかえしてきた。
「そういうの。だめよ」
「いやべつにそんなつもりじゃなくって」
「うれしいけど。だめ。いまは話したいことがあるから」
「だからべつにそんなつもりじゃなくって」
「聞いて」
「はい」
ジークは黙った。
その件は置いて、とにかく聞くことにする。姿勢を正して、エレナの言葉を待つ。
「お兄ちゃん……、戻ってあげようか。おとなのエレナに」
「えっ――?」
ジークは耳を疑った。まさか彼女が自分の口から、そんなことを言い出してくるとは――。
「オレ……、そんなに、イヤそうにしてたかな?」
「ううん。違うの」
エレナは首を横に振った。一歩前に出て、上目遣いにジークのことを見つめてくる。
「お兄ちゃんのせいじゃ――、ないの」
ワンピースの裾をつまんで拡げ持つ。膝頭までが覗いた。
自分のからだを上から見下ろして――エレナはため息をついた。
「がんばってきたんだけど――、やっぱり、ダメみたい」
「な、なにが……?」
エレナはジークの目をのぞきこんできた。
「お兄ちゃん……知ってる? いっぺん汚れちゃったお洋服って――洗っても、もとの純白には決して戻らないものなのよ」
スカートの裾を持ち上げて、エレナは笑った。使い回しの生地で仕立てたワンピースは、白は白でも、純白とはほど遠い色をしていた。
「ええっと、それって……」
わかるような。わからないような。
「お兄ちゃんがそうして欲しいなら、戻ってあげても、いいかなー……って、いまはそう思いはじめているところ」
「じゃ、じゃぁ……」
ジークの声に、期待がこもる。
「でもね、お兄ちゃん。――まだゆるしてあげてないんだから。なんにも言わないで、行っちゃったこと」
「うっ……」
そうなのだ。
ここ半年ほど、真綿で首を絞めるように、じわじわとジークを追いつめていた例の件が、まだ片づいていないのだった。片づけていないというべきか。怖くて、そして恐くて――エレナとじっくり話し合うことを避けていたのは、ジークのほうであった。
十五年前。ネクサスで十一歳の頃のエレナと出会い――そして別れてきた。
別れるときには、つい出来心で、挨拶をしないで済ませてしまった。
十五年という時を越えて、再会したときには、ひどく恨まれていた。まず一発目に張り手をくらった。鼻血が出た。当然だろう。自分でもそう思う。ひどいやつだった。自分という男は。
「ねぇ、お兄ちゃん……」
エレナは挑む目つきで、訊いてきた。
「お兄ちゃんは、どっちがいいの? いまのエレナのほう? それとも、おとなのエレナのほう?」
「あ……。う……」
ジークは声にならない声をあげた。いますぐにでも逃げ出したい気分だったが、それではあの時の二の舞になってしまう。
「お兄ちゃんが選んでくれたら――。エレナ、その通りにする。ね……、だから選んで。いまここで」
「う……、う、うん」
ジークは考えた。
いいや考えるまでもない。答えは決まっていた。ほかに道などない。それを口にするのに、すこしばかりの勇気がいる――ただそれだけのことだった。
ジークは口を開いた。
「エ、エレナちゃんの、好きなほうで――いいよ」
そう、言った。
「いいの? それで?」
エレナは目を細めて、そう訊き返してくる。
すくなくとも十四歳の少女がする表情ではない。
「お兄ちゃん、わかってる? それって、エレナがなくしちゃった十五年間の――責任をとって、もういちどやり直してくれるって……そういうことなのよ。それでいいの? 後悔しない?」
これはたぶん、エレナが与えてくれた――前言を撤回する最後のチャンスなのだろう。
だがジークは迷わなかった。
――いいんだ。踏んでやる。後悔してやる。
「ああ――いいんだ」
なにかを失ったような。それでいて、どこかほっとするような、そんな気分で、ジークはうなずいた。
途端――。
エレナは邪気のない顔になった。
「じゃあ……戻ってあげるね。お兄ちゃん。おとなのほうに」
「え? ええっ――!?」
ジークは耳を疑った。
「えっ? えっ? でもっ、いまっ……? えっ? ええっ?」
「あら。お兄ちゃんってば、わたしの好きなほう――って、いま、そう言ったじゃない」
「い、言ったけど。で、でもっ――」
「だからいいの。もう決めたの」
エレナは笑った。
その表情に、なにも言い返せなくなる。
「だけどその前に、帰り着かないとね――向こうの宇宙に」
「う……、うんっ」
エレナが近づいてきた。バスケットを預けてくる。そのまま抱きつく姿勢で距離を詰めて、背伸びをしてきた。
キスされるのかと身構えたが、頬を擦りあわせただけで行ってしまった。
「ほらっ、お兄ちゃん、はやくはやく」
エレナは元気に駆けだしていった。ジークはバスケットを持って、その後を追いかけた。
◇
「おウ。――待てや。もうすぐだから」
濡れた首筋をぱたぱたと扇子で扇ぎながら、カンナは背中でそう言ってきた。
はだけた浴衣の上と下から、なんの遠慮も慎みもなく、手脚が伸び出していた。その肌を汗の膜が薄く覆っている。
「はい、お腹がすくころだと思って」
「おっ。水じゃん」
ポットに直に口を付けたカンナは、一口飲むと、そう言った。頭の上にポットを持ってゆくと、じょぼじょぼと脳天から水を注いだ。ぶるぶると犬のように身を震って水を飛ばす。
「あー、サッパリ。――気い利いてるジャン」
「きっと汗だくになってると思って」
丘の上の断崖は風の通り道となっていて、本来ならこの街でいちばん涼しいはずの場所だった。しかし天空には蓋がされていた。星はまったく見えず、かわりに見えない遠赤外線でじりじりとあぶられている。
「アイツさー、もう三時間もあのママなんだぜ。なんか言ってヤレよ」
「あら。それって詰んでない?」
――と、盤面を見たエレナがそう言った。ジークにはよくわからなかった。チェスなら少しはたしなむが、将棋のほうは駒の動きを覚えているくらいで、さっぱりである。取った相手の駒を自分で使えたりと、ひどくルールがややこしい。
「詰んでるヨ。とっくに詰んでんだヨ。けど認めねーんだよ。ムダに熱量使ってやがんの」
「それでこんなに暑いのか」
ジークは空を見上げた。巨大オーブンの中に閉じこめられた小人の気分である。
「|《力》まで使って物理法則をねじ曲げようが、将棋のルールは曲がんねーんだッつーの。言ってヤレ、言ってヤレ」
「ま――、いいさ」
ジークはカンナの座る長椅子の端に腰を下ろした。
「諦めるまで、付き合ってやれよ」
バスケットの中から握り飯をひとつ取り出し、パクついた。
「――どうせ今夜で最後なんだ」
握り飯は塩がよく利いていた。