係留場にて
「ねえ君、ここの船のひと?」
背後から声をかけられて、ジークはぎくりと手を止めた。
オイルのにじみ出た着陸脚から目を離して振り返ると、オレンジ色の作業服を来た女の子が空中を移動してくるところだった。きっと港湾局の女子作業員に違いない。
ジークはアニーの姿を探した。
一緒に船の下回りを整備していたはずなのだが……。
「ねえってば、ねえっ」
女の子は床へのひと蹴りで体の慣性を殺すと、ジークの前に降り立った。
ポニーテールに結った髪先が、ふわりと揺れる。ジークよりもひとつふたつ年上といったところか。ただでさえタイトな無重力用の作業服が、ウエストのあたりでぎゅっと引き絞られている。
ジークは鼓動が早くなってゆくのを感じた。
しっかりしろと、自分を叱咤する。
この半年のあいだに充分な経験を積んできたはずだ。
以前の自分――女の子と話したこともない自分――とは違うのだ。
直接会話した女の子の数は、すでに2、30人にも及んでいる。
「ねえったら。君、この船の人なんでしょ? 違うの? どうなの?」
そばかすがチャーム・ポイントの顔に苛立ちの色を浮かべ、女の子はジークに詰め寄った。
「もうっ、はっきりしてよ!」
「あ……、あうっ」
「あうっ……?」
女の子は眉をひそめた。
両者の間に気まずい沈黙が流れる。
「なに失語症になってんのよ、あんたは」
着陸脚の引き込みスペースにさかさまにぶら下がる格好で、アニーがひょいと身を乗りだしてくる。無重力ならではの芸当だ。
「ていっ、ショック療法!」
ブーツの硬い靴底が、ジークの頭を容赦なく蹴りつける。
「いてっ!」
声と同時に、ジークの中でつっかえていた何かが外れた。
「え、えっと、そう……。オレ、この船のひと」
「それならそうと、早く言ってよ。こっちだって忙しいんだから」
女の子はぶつぶつ言いながら、胸に抱いていたクリップボードをジークに向けて押し出した。
空中を渡ってジークの手に収まったそれは、女の子の体温が残ってほんのりと暖かかった。
「その書類に社長さんのサインを貰ってきて」
「え……? でも……」
ジークが口ごもると、女の子の表情が険しくなる。
「もうっ! べつに船長さんのでもいいわよ。この船の責任者なら、誰のでもね!」
「だ、だって……。だけどさ……」
「ああもうっ!」
女の子はついに癇癪を起こした。
ジークではなく、すぐとなりで成り行きを見守っているアニーに体を向け、大声を張りあげる。
「あなたのとこ、なんだってこんなトロくさいのを飼ってるわけ!?」
「ぷっ……」
アニーの顔がみるみる崩れていった。
堰を切ったように笑いはじめる。
「ぷははははっ! あーっ、はははっ!! もうおかしーっ!」
「なっ…、なによ? なにがおかしいのよ?」
けたたましく笑うアニーに、女の子は当惑の表情をうかべた。
無理もない。女の子はこの会社――星間よろず業『SSS』――の社長が誰であるかを知らないのだ。
「か、か、かっ……飼ってるだって! ひひっ…、ひー」
「もう、くそっ! こら笑うなっ! 笑うなってば!」
ジークは両手を振りまわして抗議した。
アニーは目に涙を浮かべて空中をのたうちまわっている。
騒いでいるふたりをよそに、女の子はすっかり白けた顔になっていた。
「なに身内でウケてるのか知んないけどさ……。早くサイン取ってきてくんない?」
「わかってるよ!」
ジークは胸ポケットからペンを引っこ抜いた。
殴るような勢いでサインし、クリップボードを女の子に向けて突きだす。
「なにこれ……?」
女の子は、冷ややかな顔をジークに向けた。
「だから、サインだろ」
「君ねぇ――わたしの話、ちゃんと聞いてたのかな?」
女の子はにっこりと微笑んだ。その微笑みが、ゆっくりと怒りの形相に変わってゆく。
「社長さんのサインって、言ったでしょーがっ!!」
クリップボードの連打が、頭といわず腕といわず、ジークの体をぱかぱかと叩く。
「いてっ! いててっ! ちょ、ちょっとやめてくれよっ!」
ジークは頭を押さえながら、笑いつづけるアニーに叫んだ。
「お、おいアニー! 笑ってないで言ってやってくれって――いてッ! いててッ!」
「この、このこのっ! あなたのッ! 落書きなんかでッ! 書類だめにしてッ! また作り直さなきゃいけないじゃないのッ! この忙しいっていうのにッ!」
「アハはははッ! ひィッ、ィッ……、ら、落書きだッて……、おか、おかし……もおだめ、もお死ぬ、死んじャう、いひひひひっ! やめ、やめて、ひーひひひッ!」
「だからッ! オレがッ! いてっ! 社長なんだってッ! いいのッ! 社長だからいいのッ! いいんだってばっ!」
ジークが放免され、アニーが笑い終えるのには、いましばらくの時間がかかりそうだった。