緊急警報
「あーあ、こんなに散らかしやがって……」
髪の毛の巻きついたブラシ。船の備品の古ぼけたコードレス・ドライヤー。
ジークは取り散らかされたスタイリング用品を、片端からバッグの中に放りこんでいるところだった。嵐のような騒ぎは、すでに過ぎ去っていた。顔と髪を作りあげた女たちは、カメラマンたちのところで打ち合わせに入っている。
この撮影に、専門のスタイリストなど用意されていない。そのぐらい自分たちでこなせなければ、『宇宙万業』を名乗ることなどできないだろう。
必要とあらば、『SSS』は葬儀屋にだってなれるのだ。ちなみにその場合、依頼主に告げる社名は『SPACE SLEEPER SERVICE』ということになる。
今回、スタイリストの心得があったのはエレナだった。「昔取った杵柄ですの」と微笑みながら、たったひとりで全員の髪を手早く仕上げてしまう。本業である交渉人のほかに、いったいいくつの特技を持っているのだろうか。まったくもって経歴不明の人物だ。
バッグのファスナーを締め、ジークは遠くで打ち合わせに入っている女たちに目を向けた。
チーフ・カメラマンのイタリア男は、あいかわらず派手な身振りで喋りまくっている。折に触れては女たちの体に手を伸ばし、親密なスキンシップを持とうとする。
そのイタリア男の手が、アニーの腰に伸びる。腰を抱かれたアニーは、嬉しそうな顔で身をくねらせた。一瞬、ジークと目が合う。
――んべっ。
舌を突きだすその仕草に、怒っていることが馬鹿らしくなる。
「アホらし、寝よ寝よ」
バッグを放り出してデッキチェアに身を落とした。麦の茎で作った帽子を、顔の上にぱさりと落とす。
撮影開始を告げるエディの声が聞こえてきた。心を平静にしようとして、ジークは大きく息を吸った。
「はぁい! それじゃあ上取ってみようかぁ!」
どういうわけか、心臓が高鳴る。
「いいね、アニーちゃん。いいや、隠さないで! 小さくなんかないさ、可愛いよ……」
「よぅしエレナ、ちょっと下から押しあげてみようか……」
暑いわけでもないのに、だらだらと汗が流れる。
「ジル、君はもうすこし気分だしてみよう。ちょっと目を細めてもの憂げな感じ、そう、それでいい。とってもセクシーだよ」
「はぁいカンナちゃん、邪魔しないでねー」
ジークが脂汗を浮かべているその時――。
突如として耳をつんざくような大音響が鳴り響いた。
宇宙で最も聞きたくない音色――緊急警報だ。
牛の吠えるような音がきっかり一秒間ほど続き、ついで断続的な高低音のシーケンスに入ってゆく。すでに飛び起きていたジークは、耳を澄ませた。
「この符号、ジオメニック社の系統か――?」
ローカルなコード体系を、記憶の底から引っぱりだす。
「衝突警報――隔壁閉鎖、対衝撃準備だって!?」
コードに込められた三つの意味をジークが読みとるのと同時に、天井ではシャッターが閉まりはじめていた。
撮影隊の面々は、何が起きようとしているのか分からずにウロたえている。空中に浮かんだ女たちのほうは、ジークと同じようにコードを聞き取って早くも行動を起こしていた。プールサイドに戻ろうと、空中を泳ぎはじめている。
ジークは撮影隊の男たちに向かって駆け出した。プールサイドを走りながら、男たちに向かって叫ぶ。
「何やってるんだ! 早くどこかに掴まれッ!」
頭上では、透明な窓の上を鋼のシャッターが走っていた。だが直径にして数十メートルもある巨大な窓だ。完全に閉まりきるまでに、二、三十秒の時間はかかる。
「なんだってあんな大きな窓を作ったんだ! 早く閉まれ! ちくしょう!」
割れる船体。吸い出される空気――。真空にさらされた子供の頃の恐怖が、ジークの精神を揺さぶってくる。ジークはプールの設計者を呪ってやりたくなった。
「そこらにしがみついてろ!」
立ちつくす男たちを手近な樹木に向けて突きとばし、足元に丸められたケーブルを解く。足場のない空中でもがいている女たちに向けて、ケーブルの一端を放り投げた。
先頭にいたアニーが手を伸ばし、ケーブルの端を受け止めようとする。だが無重力空間で生き物のようにのたうつケーブルは、手の中になかなか収まろうとしない。
その時、窓の向こう側――宇宙空間を何かが通り過ぎていった。青いプラズマの奔流が、レンズの全面を覆いつくす。
衝撃が来た。
ダイヤモンド以上の硬度をもつ硬化テクタイト製の窓に、ひびが走る。もはや透明でなくなった窓は、いくつもの破片にわかれて内側に膨らんだ。それも一瞬のこと。きらめく破片のすべてが、真空の宇宙に吸い出されてゆく。
窓のあった場所には、ぽっかりと黒い空間がひろがっていた。
減圧がはじまった。
空気中の水蒸気が凝縮して、視界が白いもやに覆われる。
「――!!」
ジークは女たちの浮かぶ場所に向けて叫んでいた。何を叫んだのかよくわからない。耳に痛みが走る。自分の声さえも聞こえない。
宇宙へと続く黒い穴の縁で、竜巻が育ちはじめていた。
女たちの姿が、白いもやを通して見え隠れする。女たちはゆっくりと流され始めていた。プールの巨大な水球さえもが、竜巻に引き寄せられるように徐々に動きはじめている。
ジークは狂ったようにケーブルを繰りだしていた。その手が終端を探りあててしまう。あと数メートル。たったそれだけの長さが足りない。
四人でしっかりと身を寄せあった女たちは、竜巻に向かって徐々に流されていた。
「――!!」
ジークは叫んだ。誰の名を叫んだのか、よくわからない。
飛びだそうとしたジークの体を、誰かの腕ががっしりと押さえこんだ。
水球が竜巻に捕らえられた。縦に引き伸ばされ、細長くなった水の流れが宇宙へと吸い出されてゆく。その水流の最後のあたりに、女たちの白い体がちらりと見える。
それが最後の光景だった。装甲シャッターが閉じると同時に、静寂が戻ってきた。ひりつく肌に血の気が通いはじめる。ちくちくと痒かった。つんと鳴りっぱなしだった耳が抜け、周囲の物音が聞こえるようになる。
激しく咳きこむ音。
鳴りつづけているサイレン。
補充される空気がノズルを通る擦過音。
背中からしっかりとジークを押さえている男の腕は、撮影チーフのものだった。男は咳きこみながらも、なんとか口を開いた。
「早まって……くれる…なよ。君まで死んで、どうする?」
「死ぬ……だって?」
ジークは激しく首を振った。
「そんなことさせるもんか! うちの社員だぞ! 死なせるもんか! 何があっても助けてみせる!」
「助けるったって、もう宇宙に――おい! どこへ行く!?」
呼びかける声を振りきって、ジークは駆け出していた。
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