プロローグ
海を望む断崖に、少女は立っていた。
黒く、どこまでも黒い海原が、目にうつる彼方までつづいている。
ゆるやかに波をうつ海原は、どれほどの昔から、その黒く呪われた海水を湛えてきたのだろうか。
「――様、お時間ですよ」
名前を呼ばれて、少女は振りかえった。
侍女のひとりが自分を呼んでいる。どうやら式典の時間が来てしまったようだった。もうすこし海を眺めていたかったのだけど――。
この島への訪問は、きわめて公式なものだった。
自分に課せられた義務。そんなものは、どうでもよかった。自由な心を縛ることは、誰にも――何にも、できはしまい。それは十年と少しばかりの生涯の中で少女が見つけた、たったひとつの真理だった。
少女は侍女に向けて笑いかけると、ゆっくりと歩きはじめた。
身寄りのない自分を、家族同然にあつかってくれた人たちがいる。幼いころから世話をしてくれた人たちがいる。
義務ではないのだ――少女にとって、面倒な公務をこなすということは。
それは彼女の大切な権利だった。
得られるのは、ちいさな報酬――笑顔という名のちいさな報酬だった。
その超古代の遺跡は、人々から『神殿』と呼ばれていた。
少女はどうしても、この場所が好きにはなれなかった。
少女が足を踏み入れると、異形の美意識によって作りあげられた建物は、息を吹き返すかのように機能を回復してゆくのだった。
石畳を踏みしめて歩くたび、少女の通ったあとが虹色の光をはなって無気味な活動を開始する。
こんな不気味な遺跡など、死んだままでいればよいのに――。
少女の前に、巨大な人影が立ちふさがった。
「これはこれはお美しい――口付けをする栄誉を、お与え願えますかな?」
勇気を振り絞って、少女は手を差しだした。
その巨人は、少女の前に屈みこむと、手の甲にくちびるを押しつけた。背筋に、腕に――少女の全身に鳥肌が生じる。
少女は助けを求めるように、居並ぶ人々に顔を向けた。
誰もが、にこやかな笑いを顔に浮かべている。ただのひとりも例外はなかった。
――だまされているのだ。
こんな男は、悪いやつでなければならない。こんな奇怪な容貌をした男が、悪人でないはずがない。
3メートルに届くかという身長と、子供の頭ほどもある巨大な眼球。
ひとつ目の巨人――それが男を言い表すのに、もっともふさわしい言葉だった。
片方の手を巨人に与えたまま、少女はもう片方の手を胸元へともっていった。
子供のころから大切にしていたロケットを握りしめる。少女の脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。
あの人――あの人ならば、わかってくれるだろうか?
◇
「おや?」
重量指示計に目をやって、男はふと難しい顔になった。
貨物室内の全重量を示す計器の表示は、30分ほど前に見たときよりわずかに増えていた。30キロと少々、そんなところだろうか――。
「このオンボロめ!」
男は計器を叩きつけた。
叩くときの角度にはコツがあるのだ。
計器のデジタル数字はめちゃくちゃに点滅をしたあとで、ひとつの数値に落ちついた。
期待した通りの数値が出たことに満足すると、男は何事もなかったかのように出港前のチェックを再開した。
星くず英雄伝、第2話、「パンドラの少女」スタートしました!
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