炎の海へ
気の抜けた表情で船倉の壁にもたれていたアニーは、尻の底でわずかな重力の変化を感じ取った。
パイロットとしての感性が、船が慣性航法にはいったことを知らせる。だがいまのアニーにとって、それはどうでもいいことだった。
目をつぶると、血まみれで横たわるジークの姿が浮かんでくるのだ。
アニーは目を閉じることができずに、薄汚れた壁をじっと見つめていた。
あの出血で助かるはずがない。
幼い頃から、人が死ぬ場面を何度も見てきている。どのくらいの怪我で人が死ぬか、よくわかっているつもりだった。
アニーはふと、隣に座るラセリアに目をやった。
彼女は瞑想でもするかのように、静かに目を閉じていた。
しばらく前からそんな状態だ。身動きひとつしようとしない。取り澄ましたようなその態度が、アニーの癇に触る。
「あんた、よく平気な顔でいられるわね」
返事はなかったが、アニーは構わずにつづけた。
「ジークはあんたのために戦って、それで――」
不覚にも、涙がこぼれてくる。
アニーは剥きだしの腕で頬をぬぐった。
ラセリアと一緒に《ダーク・ヒーロー》に連れ去られ、そのままこの海賊船の船倉に閉じこめられたままの格好だった。
身に着けているのはショーツと胸元を覆う短めのタンクトップだけだ。
空気にあたる肌がすこし寒い。アニーは自分の肩を抱きしめるようにして身を縮めた。
「アニー……」
瞑想を解いて、ラセリアは目を開いた。
近くに置かれた箱の中から一枚のシャツを探しだし、アニーの肩にそっとかけてくる。
「わたくしは、勇者さまを信じておりますから……」
アニーは顔をあげた。涙で濡れたその顔に、みるみる怒りが噴き出した。
「それがジークを殺したんだって! あたしはそう言ってるの!」
罵りの言葉を浴びても、ラセリアはアニーの顔から視線をはずさなかった。先に顔を伏せたのはアニーのほうだ。
「どうしてよ? どうして……そんなにあいつのことを信じていられるのよ? あいつは本当に、《ヒーロー》でもなんでもないただの男の子なんだから……。あんたなんかより、あたしのほうがよくわかってるんだから……」
そう言って、アニーは膝のあいだに顔をうずめた。
ラセリアはアニーの背中をさすりながら、そっとつぶやいた。
「わたくしの信じているのは、《ヒーロー》のあの人ではありませんよ。ジークフリード・フォン・ブラウンって男の子が、どんな時にでも、せいいっぱい頑張ってくれるって――そのことを信じています」
アニーは顔をあげてラセリアを見つめた。
「わたくしよりも、あなたのほうがよくわかっているのでは?」
「うん……知ってる」
「なら信じて待ちましょう」
「……うん」
アニーはうなずいた。
その時、船倉のドアが音を立てて開いた。
廊下からさしこむ明るい光に、アニーはまぶしげに目を細めかけ――次の瞬間、その目を大きく見開いた。
巨大な人影が部屋に押し入ろうとしている。身を屈めなければドアをくぐることもできないような巨大な人影だ。
「ひィッ!」
アニーは息を呑んだ。
その人物の顔をまともに見てしまったのだ。
「い、いやあああぁ――ぁッ!」
絶叫が響きわたった。
◇
船の〝意志〟とでもいうべきものに、ジークは身を任せるだけでよかった。
どう扱えばいいのかは、船自身が教えてくれる。
前方に5隻、後方からは1隻の敵艦が《サラマンドラ》を挟み撃ちにしようと躍起になっていた。
絶え間なく降り注がれるミサイルと重粒子ビームの嵐を、《サラマンドラ》は風に舞う木の葉のように自然に受け流してゆく。
あらゆるセンサーからの入力が、ジークの意識に直接流れこんでくる。体を動かすのと同様の感覚で、ジークは《サラマンドラ》を操っていた。
6隻の船の追撃をかわして、まっしぐらに北極上空を目指す。
ラセリアとアニーが連れ去られてからしばらく経って、地上から発進した1隻の小型艇が確認されている。軌道上の本船とランデブーしたのち、それは北極へと針路を向けていた。
「いま行くぞ! アニー! ラセリア!」
《サラマンドラ》はジークの意志にこたえるかのように、凄まじい加速を開始した。
◇
「わしの素顔を見て、悲鳴をあげなかったのは貴方が初めてですぞ。なんという気丈さ! さすがはマツシバの姫というところか――」
通路の先に立って歩きながら、巨人は感心したようにそう言った。
胸を張って歩くラセリアの後ろに隠れるようにして、アニーは恐る恐る通路を進んでいた。
巨人の頭は、艦内通路の天井近くまで届いている。
ということは、身の丈は2メートルを軽く越えていることになる。信じられないような巨躯だった。
マントの下の肉体も、強靱な筋肉がぎっしりと詰まっているように思える。
「そうそう。申し遅れましたな――」
そう言って、巨人は足を止めた。
くるりと振りかえってラセリアに向く。
「我が名はドクター・サイクロプス。宇宙の真理を探究する者と覚えていただきたい」
ひとつしかない巨大な眼球がぎょろりと動いて、アニーはまたもや悲鳴をあげそうになった。男の眼球は、バレーボールほどのサイズがあるのだ。
「わたくしはラセリア。こちらはアニー。けれどわたくし、悪のマッド・サイエンティストって、もっと不気味なものと思っていましたわ。こんなにチャーミングな方だなんて」
「はっは――」
痛烈な皮肉――あるいは本心――に、ドクターを名乗った男は、笑い声を立てた。まつげのたくさん生えた巨大なまぶたが、閉じては開く。アニーは卒倒しそうになった。
「さあ、着きましたぞ。ブリッジへようこそ――」
ドアが開く。3人はブリッジへと足を踏みいれた。
広いブリッジに人気はなかった。
自動機械だけが静かに作動している。駆逐艦クラスの船としては、異例なほどに広い空間だった。旗艦として運用されるためか、壁際に並ぶシートには管制機器が目立つ。
薄闇の支配するブリッジに、ただひとり男が立っていた。男は振りかえると、口を開いた。
「ようこそ姫、我がブラック・ウィンド号へ――」
「無理やりさらってきて、ようこそもないもんだわ」
ラセリアのかわりにアニーが答えた。
いつもの憎まれ口がでてきたことに、アニーは自分でも驚いていた。
ラセリアを見ていると、どういうわけか信じられるのだ。ジークは生きているのだと――。
《ダーク・ヒーロー》は、アニーにじろりと視線を向けた。
「娘。お前の存在など、ただの余興にすぎん。少しでも長生きしたいのなら黙っていることだ」
「ふん、だ」
アニーはそっぽを向いた。
「お前の狙いはわかっていますよ。このわたくしに、ポチ――いえ、《星鯨》の口を開けさせようというのでしょう?」
「そうだ。あの役立たずには、結局できなかったことだ。はじめからわかっていたなら、目をかけはしなかったのだがな……」
「カサンドラを侮辱することは、わたくしが許しません。彼女はこのマツシバの社員です」
アニーの目には、《ダーク・ヒーロー》がラセリアに気圧されたように見えた。
《ダーク・ヒーロー》のかわりに、ドクターが口を開いて説明する。
「同じ《星鯨》の巫女であっても、貴方にしかできんことのようだ。是が非でも、開けてもらいますぞ。この者との約束でしてな、手ぶらで帰っては大損になってしまう」
慣れるとユーモラスな眼球が、ラセリアの反応をうかがっている。
「わかりましたわ。言う通りにしましょう」
あっさりと答えたラセリアに、アニーは慌てた。
「ちょ、ちょっと――! そんな簡単に!」
「アニー、あなた痛いのはお好き?」
「へ?」
調子外れの声を返すアニーに、《ダーク・ヒーロー》がいらついた声で警告する。
「余計な口を挟むなと言ったろう、小娘。――貴様、なんのためにここにいると思っている」
言葉の意味を理解して、アニーは黙りこんだ。ラセリアの即断は自分のためだったのだ。
「カシナートと言いましたか? 貴方も気をつけたほうがよろしいですわよ。さっきからの台詞――やられ役の三流悪役みたいですわ」
《ダーク・ヒーロー》は苦々しげに顔を歪めた。
「さて、そろそろよろしいですかな? 《星鯨》の口を開いていただきましょう」
窓の外に、惑星の北端がゆっくりと昇ってくる。
閉じ合わさった6枚の“歯”を見つめながら、ラセリアは静かに唇を動かした。
「いいのよ、ポチ……だいじょうぶだから、口を開けて。――ね?」
ぴったりと閉じていた“歯”の合わせ目が、わずかに広がったようだった。それはみるみるうちに隙間を広げ、外側に向けてゆっくりと開いてゆく。
「これでよいのですね?」
「うむ。申し分ない」
ドクターは巨大な眼球をぐりぐりと動かして、開きつつある口を見つめた。