死の淵
「血だッ! もっと血を持ってコイ!」
戦場の後方に仮設された野戦病院で、カンナは血まみれの姿で奮闘していた。戦いが終結したいまとなっては、司令部の役目は残っていない。
丈の余る手術着をひきずって、カンナは存分にメスを振るっていた。
処置を行った患者は、すでに数十人に及ぶ。いずれも緊急手術の必要な重体患者ばかりだった。
「たいへん! 脈拍が弱まってきてるわ――」
看護婦の経験もあるエレナが、心電計の指示を読み取って報告をしてくる。
カンナは強心剤のアンプルをへし折って注射器に吸いあげた。先端から滴をたらす注射器を、腹にぱっくりと開いた傷口に差しいれた。人体の中でもっとも太い下大静脈に、薬液を直接注入する。
カンナは患者の名前を叫んだ。
「ぜったい助けてみせるからナ! ジークっ!」
◇
そこには何もなく、ただ闇だけがどこまでも広がっていた。
奈落という名の闇の底に向かって、まっすぐに落ちてゆく自分だけがある。かすかに残ったジークの意識は、その過程をぼんやりと感じていた。
蛍火のような小さな輝きが、ジークの周囲をしきりに飛びまわっていた。そのひとつに向けて、ジークは疲れたように語りかけた。
(もういいだろ? 休ませてくれよ……)
その蛍火は、ぱっと燃えひろがるように弾けて、カンナのイメージに変化した。
もうひとつの蛍火が、燃えあがる。こんどはエレナだった。ついでジリオラが、アニーが現れる。
4人の女たちのイメージはしばらくジークのまわりを漂っていたが、やがて上に向かって昇っていってしまった。
ジークのほうがさらに下降したのかもしれない。ジークにとっては、どちらでもいいことだった。
深く深く、安息の待つ“底”に向かって落ちてゆくジークを、呼び止める声があった。
(勇者さま――勇者さま――)
ジークの意識は、消滅に向かう一歩手前で振り返った。目の前にひとつのイメージが浮かんでいる。
(ラセリア……かい?)
返事がくるわけもなかったが、ジークは思わず尋ねてしまっていた。
そのイメージがあまりにもまばゆく輝いていたからだ。清冽な輝きがディテールを覆いかくしてしまっている。
(ごめん。やっぱりぼくは、君の勇者さまにはなれなかったよ……。言いたかったんだ。君を助けてみせるって……でもだめだった)
ジークは呻くように言った。罪悪感が重くのしかかる。
(どうして言えなかったんだろう。助けるって、そのひと言が……)
光をまとったラセリアのイメージは、ゆっくりと首を横に振った。
(気になさらないでください、勇者さま)
ジークは愕然となった。自分の作りだしたイメージだとばかり思っていたものが、返事を返してきたのだ。
(貴方はよくしてくれました。謝らなくてはならないのは、わたくしのほうです。貴方を巻きこんでしまったのですから……)
(ぼ、ぼくは……)
(いいのです。こうなることは、初めから決まっていたのですから……)
(ちがうんだ……。ぼくは――)
ラセリアのイメージは、優しげに微笑んだ。
(勇者さま、ラセリアは感謝しております。勇者さまは、いつだって精一杯がんばってくださったのですもの)
(違うんだ! ぼくは――!)
ジークは自分の周りにたちこめる闇を、腕を振って追い散らした。
なんのことはない。すべては自分の心が作り出していた、偽りの情景なのだった。
もはやジークは迷うことなく、まっしぐらに上昇していった。
◇
「5分、経過したわ――」
エレナは唇を噛んで、そう言った。
それは実質上の死亡宣告に等しい。
その場にいた医師と看護婦たちの顔に、諦めの色が浮かぶ。カンナだけがただひとり、黙々と体を動かしていた。
両手に持った電極を、チャージの完了を示す発信音とともに押しあてる。
そのたびに少年の体は手術台の上で跳ねあがる。5秒に1回。カンナはそれだけを延々と繰りかえしていた。
「カンナ、もう……」
傍らに立ったエレナが、カンナの腕にそっと触れる。カンナは鬼のような形相でエレナの腕を振りはらった。
「じゃまだい! コイツが死ぬもんか! 私が死なせるもんか!」
カンナはそう叫んで、ふたたび電極を押しあてようとした。
その手が、ぴたりと止まった。
ジークの首にかけられたままのペンダントから、白い光が洩れだしていたのだ。
ピッ――と、音が響きはじめる。
全員の視線が、心電計のモニターに向いた。完全にフラットだったその画面に、力強い脈動が現れている。
「イヤッホォォゥ――!」
「奇跡だ!」
手術室に勝利の雄叫びが響きわたった。
医師と看護婦は手に手を取って喜びあった。その感激も過ぎ去らないうちに、彼らはもっと信じられない光景を目撃することになった。
いましがた心臓が動きだしたばかりのその患者が、がばっと跳ね起きたのだ。
「ジ、ジーク……? お前サ……」
カンナでさえ、驚いたようにジークの顔を見ていた。それはすでに死人の顔ではなかった。生命力に輝く生者の顔だ。
「おいカンナ! なにぼけっとしてる! 行くぞ! あいつを追いかけに!」
ジークはそう叫ぶと、手術台から床に軽々と降り立った。