プールサイドにて
「しっかし、金の無駄遣いだよなぁ……」
プールサイドのデッキチェアに寝転んでいた少年は、不満気な声でそうつぶやいた。
降りそそぐ偽物の陽光をうけとめて、空中に浮かべられた巨大な球体はきらきらと輝いている。その主成分はH2O――水だ。それに塩素が少々。
プールサイドのラインを一歩でも越えると、そこは無重力の空間になる。十メートルもの水玉が空中に浮かんでいられるのは、盛大に無駄遣いされている電力のおかげだ。
無重力プールも、最近はあちこちで見かけるようになった。パラダイス・リゾートで売っている水惑星の軌道ステーションとしては、このくらいの設備はあって当然というところだろう。なんといっても玄関口なのだ。
だがしかし――プールの上空には青い惑星がぽっかりと浮かんでいる。天井の全面にわたる巨大なテクタイトの窓を通して、『惑星まるごと』が謳い文句のリゾート地が一望のもとに見渡せるのだ。すぐそこに本物のリゾートがあるというのに、こんなプールで泳ぐ者がいるはずもない。したがって貸し切りのレンタル料は、非常にリーズナブルなものだった。
「ま、経営難のうちの会社にゃ、ありがたい限りだけど」
慣れないサングラスを片手で直すと、少年は片足を投げだした。重力の境界面に引っかかった足が、ぷらぷらと所在なげに揺れ動く。
傍らには、女物と思われるバッグがいくつかと、ドリンク類を満載したクーラーボックスが置かれていた。バッグの主たちはいま、無重力プールでCM撮影の真っ最中だ。
申しわけ程度の布地を体に張りつかせた四人の女たち。年齢も容姿もさまざまだが、ひとつだけ共通していることがある。いずれも人目を惹く美人だということだ。
初めて訪れたこの星系で、星間万業『SSS』の仕事が充実したものになるかどうか――。
それは四人の女社員たちの、卓越したスタイルとスマイルにかかっている。
「ウソつきどもめ……。ひどいや」
唇をとがらせて、少年はつぶやいた。サイドテーブルに置いたソーダ水のパックに手を伸ばす。少年の名はジークといった。『SSS』では唯一の男性にあたる。十六歳の少年を“男性”と呼べるならだが……。
ゆるやかに湾曲したプールサイドの向こうで、撮影は数十分に渡って続けられていた。暇を持てあますジークの目は、自然とそちらに向いてしまう。
伸びやかな四肢を広げて、無重力遊泳を楽しむファニー・フェイスの美少女。年頃は十四、五といったところか。
「いいよ、そう! 笑って……んー、グッドだね。いいよアニーちゃん」
猫撫で声で誉めまくりながら、カメラマンはポーズの注文をつぎつぎと繰りだしていた。女の子はショートカットの柔らかそうな髪に手をあてて、はにかみながら微笑みをこぼしている。
すっかり気の抜けた色付き水をすすりながら、ジークは再びつぶやいた。
「ウソつきめ」
「誰がウソつきですの?」
「ごほっ! ごほっ!」
むせこみながら、ジークは慌てて飛び起きた。
サイドテーブルをはさんで、その向こう。――空中に、人魚が浮かんでいた。
「どうなさいました、社長……?」
人魚はにこりと微笑んで、七色の尾をひと振りした。軽くウエーブのかかった鳶色の髪が、無重力の中でふわりと広がる。水滴がしずくとなって、彼女の周囲をゆらゆらと漂う。
「え、エレナさん……。あ、水中のテイク、終わったんだ……」
「ええ」
エレナと呼ばれた女性は、ぴちりと尾を振ってみせた。
「あ、いや……僕はなんにも言ってないよ」
言ってから、しまったと考える。これでは白状しているのも同じだ。
エレナのたおやかな手が、空間の界面を抜けてくる。耳元に伸びてくる歳上の女性の手に、ジークの体は思わず硬直してしまった。
「これ、似合いませんことよ……」
白い手がサングラスを取りあげる。その下から、少年らしく澄んだ瞳がのぞく。
「返してくれよ……その、困るんだ」
ブラを押しあげている豊かな膨らみ。彼女が尾ひれを打ち振るたびに、計算不能なベクトルで打ち震えるふたつの物体。無重量ならではの格別な眺めだ。男なら誰でも口笛を吹いて歓迎するところだが、十六歳の少年には刺激が強すぎた。
「手、貸してくださいます?」
少年の目線など気にもしていないという風に、エレナの態度は変わらない。アロハの裾で汗をぬぐってから、ジークは手を差しのべた。
エレナは片手で膝と足首のスナップを外すと、大型のフィンを脱ぎ去った。ゆっくりと押し出された足ひれのセットは、空間界面を抜けると同時に重量を取り戻し、ジークの腕にどさりと落下してくる。
ジークの手にしっかりと掴まったエレナは、無重力空間からするりと体を引き抜いた。乾いたタイルの上に、足の爪先から優雅に着地する。重さを取りもどした長い髪が、柔らかそうな体のラインに覆い被さってゆく。
「ありがとうございます。……おサカナさんもいいですけど、やっぱり両脚が地面を踏んでいるほうが落ちつきますわね」
「アニーは違うみたいだぜ」
撮影は続けられていた。サポート用具を何ひとつ身に着けず、自分の体ひとつで無重力空間を自由に飛びまわる少女。何の手がかりもない空中で、投げかけられたボールや周囲に浮かぶ水玉の運動エネルギーを奪い取っては、踊るように自分のベクトルを変えてゆく。
気まぐれに躍動する肢体をフレームの中に納めようとして、カメラマンも必死だった。視線に追従して、肩にマウントされたレコーダーの三つのレンズが忙しげに動きまわる。
「あの娘は無重力育ちですもの。それこそ水を得たおサカナさんですわ。……で、なにが『ウソつき』なんですの?」
ジークはどきりとした。エレナはいつもそうだ。忘れた頃になって、唐突に前の話題を蒸し返してくる。腕利きの交渉人の性か、それは決まって心に突き刺さるタイミングなのだ。
濡れた髪にタオルをあてながら、エレナはジークに顔を近づけてきた。自然な体臭なのだろうか、甘い香りがジークの鼻をくすぐる。前屈みの姿勢で、胸の谷間が強調されている。ジークはどぎまぎと目をそらした。
「いや、アニーのやつがさ……」
空中でくるくると回る少女に目をとめる。
「……ああしてると、まるで普通の女の子みたいじゃないか」
「あら、アニーは普通の女の子ですわよ」
「そりゃないよ! 船の中、下着姿でウロつきまわるようなのが普通なもんか!」
ジークは思わず声を荒げた。十六歳の少年としては、目下のところ最大の悩みだ。
「あら、そういう意味でしたの。でもそれを言ったら、ジリオラも同罪ですわね。アンダーウエア一枚で、よくトレーニングしてますもの」
話題にのぼった野生派の美女は、口髭を生やしたカメラマンと椰子の木陰で話しこんでいる。寡黙な彼女にしては珍しい。
「うちの会社でまともな女性は、エレナさんだけだよ」
「そうかしら?」
「そうさ。……あの男、自分の口説いている相手が元女傭兵で、その気になればおまえの首を一秒でへし折ることができるんだぞ……って言ってやったら、どんな顔すると思う?」
「うふふっ……」
エレナは口に手をあてて笑った。
「こら、そこっ! 人が働いてるのに遊んでない!」
掛け声とともに、水の玉が飛んでくる。重力の境界面を突き抜けた水玉は、狙いたがわずジークの顔にぱしゃっと命中する。
「あはははは、とっろーい!」
ジークは無言で顔をぬぐった。憮然とした顔で、けたたましく笑う少女を見上げる。
体を折るようにしてひとしきり笑い、アニーは誰の助けも借りずにプールサイドに降り立った。着地する音もしない。猫のような身のこなしだ。
「ね、マネジャーさん。あたしにジンジャエール取ってよ。それからタオルもね」
「誰がマネージャーだっ!」
「撮影隊の人たち、みんな言ってるよ。マネージャーの彼氏、ずいぶん若いねって」
「オレは社長だ! マネージャーなんかじゃない!」
サイドテーブルに置いた飲みかけのパックに目を止め、アニーはたしなめるような口調で言った。
「またソーダ水なんか飲んでる。やめなよ、子供っぽいから」
「ソ、ソーダ水のどこが子供っぽいっていうんだよ! おまえのジンジャエールと、どう違うっていうんだ!?」
「そうやってムキになるところが子供っぽいっていうの。タオル取ってよね、社、長!」
「自分で取りゃいいだろ!」
「ケンカはやめナ、子供たち」
ジークとアニーのあいだに割りこんできたのは、小さな女の子だった。背丈はふたりの胸くらいしかない。歳のほうは、八つか九つといったところだろう。『SSS』第四にして、最強最悪の社員。自称『銀河一の総合科学者』のカンナである。
お子様にお子様扱いされて、ジークは憮然と黙りこんだ。アニーのほうは素知らぬ顔で、クーラーボックスから炭酸飲料のパックを取り出している。
「私ゃ、イチゴミルクがいいわサ。ストロベリーをカルーアミルクでといたヤツ、ないか?」
ワンピースの水着を着た女の子は、そう言いながらジークの前を通りすぎていった。ポニーテールの長い尾が揺れている。まっすぐに伸びた毛先が地面まで届きそうだ。つやのある黒髪に見入っていると、カンナはくるりと振りかえってジークに指を突きつけてきた。
「おい、飲み物係。イチゴミルクがないわさ。いまから三秒で買ってこい」
マネージャーから飲み物係に格下げになったかと、ジークは肩を落とした。
「あのなぁ、カンナ……」
「ナンだい?」
女の子の黒い瞳がジークを見返してくる。黙っていれば可愛いというのに、この口の悪さはどうしたものか。
「オレは社長だってなんど言えば……いや、いい」
ジークは大きくため息をついた。このウソつきどもめと、心の中でつぶやきをあげる。カメラマンには妖精のような可愛らしさで微笑むくせに、ジークに対してはこの仕打ちだ。
「仕方ないワサ、ビールで我慢してヤルか……アーッ!!」
ジークは八歳の少女の手から、ビールのパックを取りあげた。
「このバドはジリオラのだ」
カンナの頭を押さえこんで、ジークはプールサイドを歩いてくる長身の女にパスを通す。豹柄の水着を着た元女傭兵は、六角形のパックを受け取ってうまそうに口をつけた。
「こらぜんぶ飲むナ! ひとクチよこせ、ひとクチ!」
引き締まった腹筋を小さな手がぽかぽかと叩くが、そのくらいではびくともしない。豹柄の水着に包まれた肢体は、目立つほど筋肉質というわけではなかった。だがジークより頭ひとつ大きなこの体には、デスボールのフォワードを吹っ飛ばすだけのパワーが秘められているのだ。
デッキチェアを占領していたアニーが、思いだしたように口を開いた。
「あっ、そうそう……。次のテイクから、上――取ってくれってさ」
女たちは、それぞれにうなずいてみせた。
「……うえって?」
何のことかわからなかったジークは、アニーに尋ね返した。
「だから上よ、水着の上」
「う、上ぇぇっ!?」
ジークはプール中に聞こえるような大声で叫んだ。
「あら、言ってなかったかしら? その件は、こちらからお願いしたんですのよ」
「なっ……、なんでそんな! こ、困るよ……」
ジークは絶句した。これ以上ないほどに開いた目で、エレナを見やる。
「あら? そのほうがいい宣伝になりますわよ」
「いいじゃん、べつに。減るもんじゃなし……。はいはい、あたしは賛成」
軽く言って、アニーは手を挙げた。そのあとにエレナがつづく。
「わたくしも……。控えめに考えてみましても、まだまだ視覚的効果はあると思うんですの」
「ノー・プーブレム、問題ない。――上だけでいいのか?」
ジリオラが言う。淡々とした口調だが、内容は過激だ。
「私ゃほれこのとーり、ワンピースだわサ。どーやって上だけ脱げばいいかね?」
「あんたは脱がなくていーの。出す胸もないんだから」
「ぶう」
放心したままのジークに、アニーが言った。
「はい社長、そういうことで多数決ね。『社則第七条――社の運営に関する重大事項は、全社員の多数決をもってこれを為す』……だったかな? オーケイ?」
勝ち誇ったようなアニーの顔を、ジークは情けない顔で見返した。
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