そして――現在
最上階のしゃれたラウンジは、百万クレジットの夜景を眺めるには絶好の場所だった。
窓際の席に座ったカップルが、そびえたつ摩天楼を見下ろしながら、熱くてクールな、大人の会話をかわしていた。
「なぁ……いいだろう? 下に部屋をとってあるんだ。熱い夜をすごそうじゃないか」
「あのっ、でも……」
握ってくる手をはねのけることもできず、エレナはただ、心の中でつぶやいた。
私って――どうしてこう男運が悪いのかしら?
言い寄ってくるのは、ろくでもない男ばかり。
人並みに結婚願望は持っていても、ふと気づけば、もう二十六になってしまっている。
郷里のシュレームで配管工を営む両親からは、早く相手を見つけろと、毎週手紙が届けられてくる。
今夜もこのまま、男の誘いを断ることもできず、誘われるまま身体を許してしまうことになるのだろうか――。
そして明日の朝になると、男はいなくなってしまうのだ。
慎ましい家庭をともに築き、老いた両親と同居してくれるような男なんて、いったいどこにいるのだろう。
世の中にそういった男が存在していても、きっと自分には縁がない所にいるのだろう。
昔はよかった――と、つくづく思う。
いくつもの油田を持っていた父親は、シュレームの石油王などと呼ばれていた。
財界や政界にも顔が利く父親を持って、エレナは幼い頃から華やかな社交界を飛びまわっていた。
幸せで満ち足りた少女時代を過ごしたものだった。
このネクサスで十五年前に宇宙樹が実用化され、無限のエネルギーを生みだすようになってから、エレナの生活は激変した。
安価な反物質燃料が大量に出まわるようになって、石油などに目を向ける者はいなくなった。
事業が失敗し、積み重なる負債がさらなる負債を呼びこんで、土地も家も、すべてを失うのにたいした時間はかからなかった。
とはいえ、エレナはもう運命を恨んではいない。
しがないOLのひとり暮らしというのも、これはこれで味のあるものだと思っている。
長い年月を積み重ねて、そう思えるようになっていた。
だが時折――心に浮かんでくるものがある。
それは初恋の人の面影だった。
いまではもう、ぼんやりとしか思いだせない。
彼女の命を救い、そのあといくつかの活躍をしたあとで、忽然と姿を消してしまった若き《ヒーロー》。
どこへ行ってしまったのかもわからない。
別れも告げず、彼はいなくなってしまった。その彼が――。
その彼が――。
エレナは眉をひそめた。
心の中に、彼の顔がはっきりと浮かんでいたのだ。長い時の中で薄れていって、いまではぼんやりとしか思いだせなくなっていたはずの面影が――。
まるで毎日顔を合わせているかのような鮮明さで、彼の顔が思いだせるのだ。
「お兄ちゃん……。ううん、違うわ。……社…長?」
「そうそう、俺は会社も持ってるんだぜ」
エレナのつぶやきを聞きつけて、男が言った。
「貿易関係で、ちょっとしたもんさ――」
調子にのってしゃべりまくりながら、男はエレナの肩に大胆に手を回した。
男に肩を抱かれたまま、エレナは壁の時計を見上げた。
あと三十分ほどで、午前零時になるところだ。そして今日の日付は、英雄暦一四一年、六月十六日だった。
「もうしわけありませんけど、この手をはなしてくださいます?」
「痛ててっ!」
男の手をつねりあげると、エレナは席から立ち上がった。
「ごめんなさいね。大切な用事を思いだしまして――」
憤然とした男が、思わず見とれてしまうような微笑みを投げかけて、その場から颯爽と歩き去る。
男は、ぽかんと口を開けたまま座っていたが、やがてカウンターに席を移すと、派手な身なりをした別の女性を口説きはじめた。
◇
「さて――っと、あと三十分ってとこかね。こりャあ、タクシーでも拾わんと間に合わんか」
大きなスーツケースを転がしながら、宇宙港のロビーを小さな女の子が歩いていた。
ポニー・テールに結った黒髪が、歩きのリズムに連れて左右に振れる。
「あいつ、このチビっこくなった私を見たら、どんな顔するだろうかね。きひひっ――」
少女――カンナは笑い声をたてた。
十五年前――未来に向けて送り出した少年が、今日この時間、戻ってくることになっている。
タイマーがセットしてあるので停滞力場はほうっておいても勝手に解ける。わざわざカンナがネクサスまでやってきたのは、この姿を見せて、驚かせてやろうと思ってのことだった。
「なにせあいつが知ってんのは、ナイスバディの私の姿だけだから……ん? いや、ちょっと待てヨ……?」
カンナはぴたりと足を止めた。
宙を見つめて、考えこむ。
「この一年……、私ャずっと研究室にこもりっきりのはずで……。いや違うゾ! この一年! 私ャ、あのノビタくんに付きあって、ずっと……」
カンナは驚愕した。
自分の頭の中に、この一年間の記憶が二重に存在している。人里離れた小惑星で隠者のように研究に没頭していた自分と、ひとりの少年を《ヒーロー》に鍛えあげようとして刺激に満ちた毎日を送っていた自分と、両方の記憶が、同時に頭の中に存在しているのだった。
「えッと……だから私は、エエっと……」
滅多に見せることのない狼狽した表情で、彼女はその場に立ちつくしていた。
必死に考える。
自分にわからないことなど、この世にあってはならないのだ。
「つまり、アレだなッ! アイツが戻ってくるこの時間に合わせて、パラドックスが具現化してきたってコトかい? そうするっテーと……、いまごろ銀河のあちこちで、アイツと関係をもった連中が一斉に記憶を取り戻し――」
さらに考えを推し進めようとしたとき、彼女は大変なことに気づいて大声を張りあげた。
「シマッたッ! 私ャ、なんてことをッ!」
パラドックスについての考察などより、もっと重大なことだった。
速やかに――なによりも優先して処理しなければならないことだ。
カンナはまっ赤な顔で駆けだした。
荷物をその場に残したことも気づかないほどの慌てぶりだった。
「タクシー! タクシーっ! 止まれってンだ! おいこのヤロウ! ブッ殺すぞ!」
一刻も早く駆けつけて、絶対にあのことを口外しないよう、口封じをしなければならない。
若気の至りとはいえ、ジークを誘惑しようとしたなどと――。
◇
彼女は傭兵だった。
いくつも戦場を駆け抜け、鍛えあげた体と精神にも、たまには休息が必要だ。
先の契約が切れたことをきっかけに、彼女は普段より長めの休暇を取ることにしていた。
船を乗り継ぎ、ネクサスの宇宙港までやってきた彼女は、ロビーに立ちどまって、これからどうしたものか考えていた。
深い考えもなく、ついこのネクサスまで来てしまったが――。
最近になって、不思議な夢を見る。
その夢の中では、彼女には仲間がいるのだった。
夢の中でも彼女はあいかわらず戦っていたが、戦う理由は、傭兵として金のためにではなかった。
仲間のため――ひいては、ひとりの少年の手助けをするためだった。
夢でありながら、それは彼女にとって大事な記憶になりつつあった。
ふと気を許すと、現実の人生のほうがまぼろしであるかのように思えてくる。
宇宙港のロビーに立ったままの彼女は、ふと――置き去りにされたスーツケースに気がついた。
ロビーのまんなかに置きっぱなしにされたスーツケースに、「カンナ」と小さな名札がついている。
その名前には覚えがあった。
「……」
彼女は思案に暮れた。
このまま引き返すこともできる。
乗ってきた船でこの惑星を立ち去ってしまえば、慣れ親しんだ血と硝煙の香る現実に戻ることができるだろう。
彼女は足を踏みだした。
置き去りにされたスーツケースをひょいと肩に担ぎあげ、そのまま歩きつづける。
どうせ目的地は同じなのだから――。
◇
カーゴ・ルームの片隅で、少女は息を殺して、じっと身動きを止めていた。
もうしばらくすれば、この貨物船は発進する。
あとしばらくの辛抱だった。
前の二回も、こうして密航を成功させた。今度もうまくゆくに違いない。
少女がとぼしい忍耐力をかき集めて身じろぎもせずにじっとしていると、しゅっと音を立てて、カーゴ・ルームの扉が開いた。
まぶしい逆光のなかに、女性のシルエットが浮かんでいる。
「さあ、見つけましたよ。同じ手が三度も通用すると思ったのですか?」
少女は壁にへばりつくようにして叫んだ。
「やだー! ぼく行かなきゃならないんだぁ!」
「はいはい、さあ帰りましょうね……」
保護者であるアルテミスの手にかかって、リムルは首根っこをつかまれた小猫のように引きずられていった。
「ぼく行くんだぁ! ジークのとこにぃ!」
◇
品よくまとまった調度品の並ぶ部屋だった。
夜の十一時を回って、ノックの音とともに執事がドアを開ける。
「お嬢さま、そろそろお休みの時間ですが……。アニーお嬢さま?」
部屋の中に誰もいないことに気がついて、執事は首を傾げた。開け放された窓辺で、カーテンが風に揺られている。
いくばくかの不安が彼の心をよぎった。
主人から、少女の仕付けに関しては強く言い渡されていた。
こんな夜遅くに表を出歩くなど、とんでもないことだ。
きっとトイレにでも行っているのだろうと思って、彼は自分を納得させた。
一階にいた彼に気づかせることなく、表に出ることは不可能なはずだ。
カーテンを伝って、庭に降りたのでもなければ……。
あのおとなしく上品な少女に、そんな芸当ができるとも思えない。
彼は少女が戻ってくるまで、部屋の中で待つことにした。
◇
少女は街中を駆けていた。
植えこみに引っ掛けて破れたドレスから、白い足がのぞいている。
通行人の何人かが振り向くが、彼女は気にもとめなかった。
現金の持ち合わせがなく、タクシーの代金は指輪で払った。
気に入っていた指輪だったが、そんなことはどうでもよかった。
目指す公園が遠くに見えてきたとき、彼女は足を取られて転倒した。
やわな作りのパンプスの踵が取れてしまっている。
靴を脱ぎ捨て、彼女は裸足で走りはじめた。
昨日までの彼女なら、擦りむいた手足の痛みに泣き出していたところだが、いまの彼女はそんなことで泣けるような、やわな女ではないのだ。
公園には、三人ほどの先客がいた。
女がふたりに、九つくらいの少女がひとり――。
駆けこんできた少女に気づくことなく、広場の中央に立つ銀色の彫像をじっと見つめていた。
彼女は息を整えながら、他の女たちと同じように彫像を見上げた。
それは十数年も前に、ある《ヒーロー》の活躍を記念して建てられた彫像だった。
銀色に輝く彫像は、凜々しい少年の姿をかたどったものだった。
銃を空に向けて構えた、少年の像――。
その表面は一点の曇りもなく、磨きあげられた鏡の艶を持っている。
広場の隅で、時計が十二時の鐘を鳴らす。
この場にいる四人のうち、いちばん小さな女の子が、口を開いた。
「戻ってくるゾ。停滞力場が、もう解ける――」
彫像の鏡のような表面に、すこしずつ、色合いが生まれてゆく。
髪がうっすらと茶色に染まりはじめ、頬が色付いて、肌色に変わってゆく。
そして、彼は――。