プロローグ
「嵐が、来ます」
「さようでございますか」
数十年を務めあげた老侍従は、うら若い主人の言葉にうやうやしく頭を下げた。
少女は雲ひとつない夜空を見上げていた。降りしきる星明かりに身をさらして、満天の星々にじっと目を凝らしている。ほっそりした体を包む薄絹に、星の光がまとわりつく。
「ひどい嵐です。この星を覆いつくす、欲望と暴力の嵐……」
星空から目を離さずに、少女はつぶやいた。まるで星々の声に耳を澄ますかのように――。
海からの風に、肩に巻いたケープがゆっくりとたなびく。
少女は星空から目を下ろし、腰ほどの高さにある手すりに掴まった。かすかな揺れが感じられる。海上に浮かべられたこのステージは、直径にして数百メートルの大きさがある。それでも不動というわけにはいかない。小さな風が吹いただけで揺らいでしまうものだ。
それは、ひとつの国にしても同じことだろう。
「どうしても、行かれるおつもりですか? ――姫」
幼い頃から慣れ親しんだ老人の声には、少女の身を案じる響きがあった。
「行かねばなりません。運命を変えることのできるのは、《ヒーロー》だけなのですから」
老人はそれ以上、何も言わなかった。
姫が主張し、閣僚たちのあいだで何度も繰りかえし論じられたことだ。結論はすでに出ている。あと数時間以内に、少女はたったひとりで星々の世界に旅立つことになるだろう。
海上に浮かべられたこのステージは、発射台だった。三百年前にこの星に不時着し、モニュメントとして遺されていた祖先の宇宙船を、三ヶ月かけて形骸から飛び立てるまでに復元した。
この星に現存するただ一隻の宇宙船は、チタニウム製のステージの中央に銀色の巨塔としてそびえ立っている。
「姫、お願いがございます。せめてこの爺だけは、なにとぞお側に……」
「なりません」
少女が一瞬だけみせた威厳に打たれて、老人は頭を垂れた。
「姫たる者がひとりで赴くのが、星界の慣わし……。そうでなければ、勇者様も現れてはくれないでしょう」
厳しい顔で宇宙船を見上げる少女に、老人は尋ねた。
「姫、この爺めには、本音を言ってくださってかまわないのですよ」
「じゃあ言いますわ。爺やなんか連れていったら、うるさくてかないませんもの」
そう言って、少女は歳相応の打ち解けた笑顔を浮かべた。
「心配いりません。運命がかならず、勇者様のもとに導いてくれるはず。それにあの子も……。そう言ってくれてます」
その瞬間、大気と海が小さく揺れ動いた。
夜空のはるか高み――星々と同じくらい高いところを、オーロラのような無数の縞模様が走り抜けてゆく。
惑星全体が揺れ動くような微動が終わると、少女はいたずらっぽく微笑みを浮かべた。
「――ね?」
*
数時間後――。
夜の闇を、巨大な噴射炎が切り裂いた。銀色の槍を思わせる宇宙船は、まっすぐ星々の世界に向かって昇っていった。