4話 猫な僕と踊る指先
不意に。
僕が猫から右手を離したかと思うと、その手をそのまま向かってくるバケモノへと差し向けてみせた。
ぴんと伸びた指先が空間を滑る。
と、その軌跡に沿って線が描かれていた。更に指が踊り、線が増えていく。徐々に指の動きが速く激しくなり、空間に描かれる線の数が増えていく。直線と曲線が交わり、重なり、複雑な図を描き出していく。加えて、文字のようなものも図形と一緒に描かれていく。
(なんだ、これ)
率直な疑問しか浮かばなかった。何も無い空間に複雑な図形が描かれていく光景は、確かに非常識なものではあっただろうけど。
僕の当惑を更に強めたのは、描かれていく線からどうにも形容出来ないものを感じていたからだった。僕と言うより、この猫の身体がと言うべきか。描かれていく図そのものから、ある種の気配のようなものを感じる。気のせいと思うよりは強くはっきりとした、何かの気配。
そして、その描かれていく図形が何であるのかも、何となく判ってくる。正確に言うと、何が描かれようとしているのかが。
ぴたっと、僕の指が止まる。
図が完成したのだと、僕は直感的に理解していた。してしまっていた。
その時には、双頭の黒犬は目前にまで迫ってきていた。人間ぐらいは軽く一呑みできそうなほどに大きく開いたふたつの口腔、その奥でぬたうつ真っ赤な舌が見えるほどにまで接近して。
唐突に、黒犬の頭ふたつともが消し飛んでいた。
描かれていた図形が意味していた、その通りに。
その反動か、弾かれたように残った胴体が後方へと吹っ飛んでいく。赤い飛沫と肉片と黒い体毛に覆われた部位をまき散らしながら。
グロい。その一言に尽きた。
不意に視界が動く。猫な僕を持ったままで、僕が駆け出していた。が、それも数歩進んだところで止まる。
いきなり振り回されたせいで目が回る……ようなこともなく、すぐに視界が正常に戻ったのは猫の特性なのか夢特有の都合なのかは判らなかったけれど。
僕が目を離したわずかな間に、僕は右手に赤黒い球体を持っていた。ソフトボールくらいの大きさだろうか。さっきのバケモノを消し飛ばした際に飛び散った肉片の一部なのか、赤く濡れている。そして、アノンの手も。当の本人は相変わらずの無表情。それ僕の身体なんですが……
その球体が何かは判らない。判るはずもない。
ただ気づくことはあった。さっき僕が空間に描いた図形から感じた気配に良く似ている。それがぎゅっと凝縮されたような感じだった。
僕の内心の疑問に、僕は気づいているのか、それも微妙ではあった。判っていて無視している可能性が一番高いか。
表情ひとつ変えないまま、その大きめの瞳だけが横に向く。
その視線の先には、さっきの黒犬と同じように土煙を巻き上げながら接近してくる巨大な何かがあった。
ただ今度は犬ではなく、イモムシのようなものではあったけど。まだ距離はあるものの、かなりの大きさのように見えた。そんなのが4、5体ほど、一丸となって僕らへと向かってくる。爆走する大型のタンクローリーのような威圧感を感じる光景だった。それにしては異質過ぎではあったけれど。
その巨大イモムシたちへと、僕が右手を差し向けて、そのまま止まる。
頭だけを僕……左手に掴まえられている猫な僕へと向けて、短く告げて来た。
「これを持っていて下さいますか?」
いやです。即応しておく。
だと言うのに、相手は構わず血塗れた球体を押しつけてきたものだから、僕は身をよじらせて指から脱出し、そのまま僕の腕を伝って肩へと走った
足を落ち着けてから、一連の動作がスムーズだったことに自分で驚く。猫慣れした動きと言うか、なんとも言えない気分にさせられる。
と言うものの、相手はそれにも構わず、空いた左手に球体を持ち替えると、再び右手の指を伸ばして空間に踊らせ始めた。
人差し指だけではなく五指全部の先から線が描かれ、図が描かれ始める。無意味な線の集まりが、交わり重なり増えていくことで、徐々にその全容が判ってくる。
その様子は……正直なところ、見事なものだった。作業は極めて機械的で、隙もない。機械か職人技か、そのぎりぎり境目にあるような仕事ぶりとでも言うところか。
ともあれ、描画が完了して。
直後に虚空から放たれた無数の光線が、イモムシの群れに殺到し、白い炎を吹き上げたかと思うと、異形たちをほぼ一瞬で消し炭へと変えてしまっていた。
圧倒的と言うか一方的と言うか……。
何なんだ、これ。この状況。
「アナタ様の記憶されている中で、魔法というものが、形容するに辺り最も近いものであると思いますが」
目の前の出来事の説明を求めたわけでもない、行き場も無いような僕の漠然とした疑問に、答えてくる声はやはり淡々として、そして無機質そのものだった。
魔法。
そう言われてしまえば、そうとしか呼べないものなのだろうし、理解出来なくもない。納得出来るかどうかは別としても。
夢の中なら、なんでもありなんだろう。たぶん理屈とか原理とかも完全無視だろうし。
「なんでもあり、というわけでもありません。空間に満ちる魔素を体内に取り込むことで変化した魔力。それを用いて先程のように望む事象を描画することによって任意に現象を引き起こすことが可能なわけですが、描画出来ないものについてはその限りではありません」
肩にいる猫な僕の髭が触れてもくすぐったりする素振りも見せず、僕が告げてくる。おそらくは説明と思しきものを。
唐突に、地面が揺れた。それと同時に、すぐ目の前の地面に大きな亀裂が走る。
一際強い揺れがきたのは、すぐだった。ひび割れた地面が隆起したかと思うと、間欠泉のように土砂が吹き上がった。
何かが飛び出してきたのだと判ったのは、舞い上がった土煙の中に長大な黒い影が見えたからだった。
ぱっと見て、それはムカデに酷似していた。大人が乗り込めるほどの巨大で、黒光りする甲殻は鋼鉄を思わせる。
頭部は遙か頭上だった。見下ろしてくる複眼は赤く、頭部から延びたいくつもの突起がドリルのように回転しながら耳障りな音を奏でている。
正真正銘どっから見ても……今度もバケモノだった。
どうしてこう立て続けに登場してくるのか。
「こうした魔獣は、魔力を体内に蓄えて生成した魔力結晶体を、肥大化させるように設定された本能に従い、魔力を強く発するものへと集まる習性があります。知能が低い個体の場合は、魔力を得るために見境なく他の魔獣に襲いかかることもありますので、これからも同様の襲撃が続くと予想されます。もうしばらくのおつきあいの程をお願いいたします」
淡々と告げて来つつ、僕の指は高速で図を描いていく。
でも、それが完成するよりも先に、巨大ムカデが頭部を振り上げていた。その意図はすぐに知れた。
頭突きだ。頭のドリルもどきを僕らに叩きつけてくるつもりだろう。そんなものをくらえばひとたまりもない。
そして、図の描画も間に合わない。指だけで描くには時間が足りなかった。
そのはずだった。少なくとも猫な僕はそう見て取っていたのに。
全く突然に、描画が終わっていた。指先での描画が途中で省略され、図形が完成していた。
そして当然のごとく、巨大ムカデが、その硬そうな甲殻ごとずたずたに切り刻まれ、四散していた。青黒くて粘つく液体と肉片が巻き散る。地面の中に残った胴体部から溢れ出てきたのだろう、亀裂からも液体が染み出してくる。
僕は漂ってきた酸っぱい匂いに思わず鼻をふさごうとして、自分が猫な事に気づいて断念する。肩から転がり落ちてあの液体の上に落ちるような羽目になりかねない。それはかなり、イヤだったから。
「指先による描写が間に合わないようでしたので、この身体の脳内での思考処理能力に手を加えさせていただきました。その更新処理により、今後は魔力をイメージそのままに空間に投影できるようになり、魔法行為の即時発動が可能となりました」
僕の身体を勝手に改造までしてくれたらしい相手からの報告は、実に淡々として、完全に他人事口調だった。当人にとっても僕にとっても他人事ではないはずだったけれど。
「補足としまして、私とリンクしているアナタ様にも同様の魔法行為および自身の生体改変が可能です。必要だと思われましたら、脳内の処理機能の改変を行って下さい。ただし、その個体の脳の容量からして、保持されている記憶や自我などを必要に応じて削除する必要があるかと思われますので、ご留意のほどをお願い申しあげておきます」
言いながら、僕は歩き出していた。地面に散った粘液に頓着せずに進んでいく。
そして立ち止まった先に転がっていたものを無造作に拾い上げていた。
それはさっきの双頭の犬の時と同様に、赤黒い球体だった。こっちはテニスボール程度の大きさか。今度は粘液まみれになっている。当然、その手も。だから僕の身体なんですが。
心底嫌気を自覚しつつ、それでもぴんと来るものがあった。
コイツが両手に持っているものが、さっき言っていた結晶体とかいうやつだろうか。
「はい。生体に取り込まれた魔素が魔力へと代わり、凝縮個体化されたものがこれです」
告げてきながら、アノンはおもむろに両手にある球体……魔力結晶体を近づける。
そしてふたつが触れると、そのまま接合してしまっていた。
そこで気づいたのが、くっついたふたつの球体の大きさがあまり変わらないことだった。最初に回収した方が……縮んでいる、のだろうか。
くっつけるという行動もそうだったけど、意味するところが良く判らない。と言うかさっぱりだった。何がどうなってどうするつもりなのか。
「先程も申し上げましたが、魔法行為には魔力を用います。ですが、人類種がその身に宿しておける魔力には限界があり、また魔獣種のように結晶化させる器官もないため、すぐに枯渇してしまいます。生体は血流を通して身体中を常に一定量の魔力で満たそうとしますから、失われた先から魔素を取り込み始めるのですが、少々時間がかかってしまいます」
無機質な眼差しで遠くを眺めやりながら、僕の姿をしたモノは淡々と続ける。
「ですが、このように魔力結晶体から魔力を直接供給することで、先程の問題は解決致します」
肩に猫な僕を乗せたまま、僕は右手を頭上高くに掲げてみせた。
その直後、伸ばされた手の先に、一瞬にして図形が浮かび上がる。今までになく巨大な図形だった。そして感じたままを加えるのならば、かなり攻撃的な。
そうやって自身が描き上げた図形を見ることもしないまま、僕は更に言葉を続ける。
「さらに、外部からの魔力供給によって、このように通常では描写出来ない規模の魔法行為をも使用可能となります」
言葉が終わるか否かのぎりぎりのタイミングで、描かれた図形が発動するのを感じた。
ぞくっと悪寒のようなものを感じたのは何だったのか。何かしらの予感があったからか、膨大な魔力とやらの動きを猫の身体が感じたからか。
どちらであったにせよ、次に起きた出来事は、圧倒的だった。
雨だった。雲ひとつ無い遙か上空から、無数の光が雨のように降り注ぐのを目撃することになった。光の雨の殆どは、僕たちからだいぶ離れた辺りの一帯を、けれどほぼ360度満遍なく降下していき、そして。
あちこちで一斉に爆発が生じた。重なり合い連鎖する爆音が地面どころか大気をも大きく揺るがし、数秒に渡って猫な僕の聴覚すべてを支配する。他の一切の音が聞こえなかった。というか、目で爆発を見ていなかったら、何の音だったかも判らなかっただろう。
全身で圧力すら感じたほどの、耳鳴りがしてもおかしくない激しい爆音だった。実際に耳の機能がおかしくなったりはしなかったけれど、これもやっぱり夢だからだろうか。
遠くではあってもその衝撃が突風となって僕らの立つ場所まで吹きつけてくる。猫な身体の黒毛を乱雑に撫でて、髭を揺らす。舞い上がった砂塵と酸味がかった匂いを含んだ湿っぽい風は、心地よさとは無縁のものだった。
身じろぎしつつ、僕がそれが過ぎ去ったのを感じてから。
「周辺において、敵対行動を起こす可能性のある魔獣およびその他個体群を殲滅いたしました。これにより、当面の安全は確保できたものと判断致します」
訪れた静寂を少しも損なわないような静かな声音でもって、それを成した当の本人は、そう告げて来た。
実にあっさりと。何事もなかったように。
安全の確保も何も、危険を感じるよりも前に全て終わってしまっていたわけで。
間違いなく……僕が一番危険な奴だよな。
そんな僕の心情もおそらくは伝わっているはずだったけど。
僕は相変わらず無表情のまま、遠くを眺めているだけだった。