3話 猫な僕と僕な何か
「こんにちは」
相変わらず平坦に無機質に。
そうやってもう一度繰り返してきた僕の姿をした何者か。
けれども猫な僕としては、なんとも返答しようがないわけで。
気まずい沈黙を感じながら……そう感じているのはきっと僕だけなんだろうと確信しつつ……互いに見つめ合うことしばし。
僕へと向ける眼差しは冷ややかなまま、僕は口を開いた。
「私の言葉をご理解されていらっしゃらないわけではないようですが、何故かご返事をいただけないご様子。記憶を走査したところによりますと、挨拶には挨拶で返すものであるはずです。これは何か問題が生じていると判断すべきでしょうか」
よどみなく、そして抑揚なく続いた言葉に少し驚かされたものの、それでも返答しようがないことは変わらない。こっちは発声もロクに出来ない状態だ。文句を言われるのはとても心外なわけだけど。
そんなことを思ったところで、相手は変わらぬ平らかな声で言葉を続けてきた。
「成程、了解いたしました。その個体における発声方法が判らないのでは致し方ありません。それと、その個体の口腔の構造上、発音には多くの制限が生じてしまうため、アナタ様の知る言語そのものを発音することは不可能な状態にあることを補足しておきます」
どうやら僕の思考が相手には伝わったようだった。ただ、そんなふうに補足まで出来るぐらいなら、最初から挨拶するのも無理だと判らないものかな?。
「発声については確かにご指摘の通りです。お詫び申し上げます」
と、本当に『申し上げた』だけで、相手は変わらない調子で更に続けてきた。
「このように、私とアナタ様とがリンクしていることもあり、この程度の距離であればアナタ様の思考を読み取る事が可能です。それゆえに私とアナタ様との間における意志疎通は特に問題はございません。ご安心ください」
どこに安心を感じればいいのかも、はなはだ疑問に思いつつ、僕は眉一つ動かさない相手の顔を……つまりは自分の顔を注視する。
見慣れた顔で、けれど見た事のない表情だった。下から見上げるという角度的な意味もあるけれど、それよりもその無機質さに見覚えがない。
声のせいもあるだろう。言葉は滑らかに、けれど抑揚がほとんど無い。声と言うより音だ。漠然とイメージしたのは、自販機やカーナビの音声だったけど。
僕の声、ではあるのだろう。自分の声というものをはっきりと知っている訳でもないし、自分の声を第三者の立場で聞くようなこともまずなかったから、少し自信は無い。でもたぶん僕の声だろう。そう思うのも、これが夢の中だからか。
「なるほど。併せて理解致しました。アナタ様の記憶および思考履歴を走査した結果からして、アナタ様が今の状況に対して取り乱していない事に違和感を感じておりましたが、この状況を夢であると、そう認識しているからこその反応であったわけですね」
気になった……もう少し踏み込んだ言い方をすれば……気に障ったのは、その言い回しだった。丁寧ではあるのだろうけど、若干間違っているようにも感じられる。どこがどう違うのかまでは判らないものの。
(なんだか、バカにされているような気になるよな)
「私としましては、そのような意図はございませんが、不快に思わせているようでしたら謝罪の意を述べさせていただきます。しかしながら、私自身という個に乏しい私としましては、このように話すしかないのです。なにとぞご了承の程をお願いいたします」
こっちのちょっとした感想に、きっかりと答えてくるところは律儀と言うべきなのかも知れないけど。
ただ、それでこの苛立ちが収まるでもないわけで。
さっきよりも見上げる眼差しを強める。猫的にどうすれば良いのか判らず、取り敢えず僕の眉間の辺りを僕は凝視した。
思うだけで相手に伝わるというのならば。
まずはコイツが何なのか。
「私はかつてアノンと呼称されていた存在です。そしてそれだけの存在であり、私は私自身がいかなる存在であるのかを理解出来ておりません。故に、アナタ様の疑問について明確な解答をご用意出来ません」
さすが夢、とでも言うべきか。早くも意味不明で、そしてめんどくさそうな解答ではあった。取り敢えず、僕の姿をした何者かの名前がアノンだと判ったのが成果か。
もう少し相手のことを掘り下げて聞くべきかとも感じつつ、確実にめんどくさい解答が戻ってくる予感しかしない。
僕は話題を変えることにした。
ここは、どこなのか。
「申し訳ありません。この地帯がどのように呼称されているかに関しましては、私も存じ上げません。その必要もありませんでしたので」
さっきよりも酷い解答ではあった。悪びれるどころか、眉ひとつ動かさない。見ているこちらが不安に感じるほどに。
見下ろしてくる無機質な眼差しに、息詰まる自分を自覚する。
僕の目だと言うのに怯まされる。悔しいわけではないけど、納得出来るようなものでもないわけで。
……とまあ、僕がこうして猫になっている時点で、納得も何も無いのだろうけど。夢が理不尽なのは今に始まったことじゃないだろうし。
不意に僕が身をかがませ、猫たる僕へと両手を差し向けてきた。そのまま両側から挟み込むようにして持ちあげられる。
いきなり何してくれんだ、コイツは。
「いえ。視線が同じ高さにあったほうが、アナタ様の負担を軽減出来るのではないかと思いまして」
僕の顔が近い。垂れ下がる長い前髪の間からのぞく大きめの瞳が僕に向いている。
暴れてやろうかと少し迷ったものの、僕を気遣っての行動っぽかったこともあってか、やめておく。
それに実際のところ脱出が出来たかどうかは微妙だった。割としっかりと掴まえられていたし。
僕をまっすぐ見つめてくる瞳に、黒い猫の姿が映り込んでいる……ような気がした。そこに映っているのは、とりあえず猫をやっている僕の姿でしかないはずだ。
そして、僕じゃないやつがやっている僕に持ち上げれている猫な僕と言う状況。ややこしいな。
どうしてそんなことになっているのか。
特別に何かを意識したつもりはなかったのだけど、漠然としたその疑問に、アノンはこれまでと同じ調子で応じてきた。
「時空間転移の際に、アナタ様と私との間で自我および記憶の相互交換を行いました」
淡々と告げられた言葉に、僕はきょとんとするしかない。
実にあっさりと告げられたせいで、内容がすぐには理解出来なかった。下手をすれば聞き逃していたくらいの素っ気なさだった。
徐々に理解が追いつく。と言っても、完全に理解できるようなものでもなかったけど。
時空間転移とか言うものはひとまず置いておくとして……相互交換、つまり僕とコイツとが入れ替わった結果が今だということなのだろう。となると、アノンはもともとは猫だったと言うことか。
(そんなバカなことが……あり得るか?)
あり得るわけがない。完全にフィクションの世界の物語だ。
いや、この状況自体も、確かにフィクションのはずだった。夢の中。どんな理不尽であろうと辻褄が合わなかろうと、それが不自然ではない世界。泡沫のように跡も残らず消えるだけの、脳が自由気ままに描画する意識世界の物語。
だから……あり得なくもない。そう結論付けるしかないのだろう。少なくとも、この夢が覚めてくれない間は。
そろそろ思考放棄をするべきなのかと、ぼんやりと思う。こんなにも意識ははっきりしているのに、目の前にあるのは非常識ばかり。理不尽と言うか、不可思議と断ずるか……ともあれ、しばらくは続きそうではある。
(覚めない限りは付き合わされるってことか)
そうなると、受け入れ難いからと言って拒絶したところで無為にしかならないだろう。
どうせ夢だ。なら逆らわず乗ってしまったほうが楽ではあるか。そろそろ思考するのも億劫になってきている自分にも気づいていた。夢の中とは言え、考え方も猫っぽくなってきているようにも感じる。
猫は猫らしくしていればいい。そんなふうに。
「その猫としての個体ですが、私がその個体に在る間にいくらか手を加えてございます。詳細は自ずとご理解いただけるものかと思いますので省略致しますが、なにとぞご活用下さい」
僕の思考を読みとってか、解説らしいものをしてくる。が、省略の度合いがざっくりとし過ぎていて、たいして意味を感じられなかった。とにかく、ただの猫じゃないと言う事情ではあるようだけど。
そう言えば、さっきから勝手に思考を読まれまくっている。コイツの言い分の通りにリンクしているのならば、向こうの考えが僕に伝わってこないのはおかしくないだろうか。
「アナタ様の脳の処理能力では、私の思考を処理し切れません。確実に損傷に至るため、誠に勝手ながら私側からの接続は制限させていただいております。ご了承下さい」
真っ直ぐに見つめたまま……と言うより、視線を僕に固定させたままで告げてくる。
あなたは頭が悪いので無理、と言うふうにも聞こえかねない。実際にそう言われている可能性もあるけれども。
(まあ今の僕は猫だからな)
そう結論付ける。そうしておくことにしたところで。
ぴくっと僕の猫耳が反応した。アノンの声だけが続いていた中で、それとは違う音を聞き取っていた。
まだ遠い。けれど、近づいてくる。残響を伴って伝わってくる音は存外に大きかった。発生源はまだ遠いようなのに、連続して重く響く音は、何かの爆発音のように聞こえた。
僕も気づいたのか、顔だけを横へ向けた。僕も同じ方向へと目を向けてみる。
(なんだ、あれ?)
それが僕の正直な感想だった。他に言いようもなかった。
白っぽい荒野を走ってくる1体の黒い獣の姿があった。巨大な獣だった。四肢が地面を打つたびに派手に土石が舞い上がっている。連続する爆音は、その音だった。
じっと観察する……までもなく、その獣は異常な姿だった。見た感じは犬。巨大なのはともかくとしても、その全身が真っ黒な毛で覆われているのも良いとしても。
その巨犬には頭がふたつ、あった。ケモノと言うよりもバケモノと言うべきだろうか。合計4つある瞳が赤く染まっている。獰猛さを通り越して、狂気じみた風貌だった。
そんな異形が、僕らに向かってまっしぐらに突き進んでくる。
異質な光景ではある。それは判っていた。いきなり登場したバケモノにこれから襲われようとしている絵図なのはほぼ確定だろう。この先の展開も容易に想像できる。
ただ、焦りも何も感じなかった。ぼんやりと眺めるぐらいの心境しかない。
(夢だしなぁ……)
苦笑いすらしそうになる。猫の苦笑いがどういったものなのかは知らないけれど。
それよりも、こんな夢を見ている自分の心理状況こそを心配すべきかも知れない。
はなはだ不本意ながら、僕は僕の姿をした相手に持ち上げられたままの状態で、爆走してくる黒い双頭のバケモノを眺めやりつつ、そんなことを思っていた。