2話 猫な僕と見知らぬ光景
2月22日の今日は猫の日らしいです。だからどうしたと言われればそれまでですけど。
白い何か。
気がついた僕の視界に最初に飛び込んできたのが、それだった。
視界はクリアだった。意識もすぐに覚醒したと判る。
ただ、それでも目の前にあるそれが何なのかをすぐには判断出来なかった。
いや、少し違うか。思い当たるものはあった。ただ、そんなふうに見えたことに違和感があったせいで決めかねていたというのが正しい。
視界いっぱいに広がる、白。丸い曲線を描く膨らみを包んでいる白いそれ。
左に目を動かしてみれば、その白から横へと伸びた二本の肌色をしたものが伸びているのが見えた。
右に目を動かしてみれば、その白を覆い隠していたはずのチェック柄の布地がめくれあがっているのが見えた。
確信する。胸中で、静かに。
ショーツだ。僕の視界いっぱいに広がっているのは女のものらしきお尻だった。
もう意味が判らなかった。が、とにかく僕は全力で目を逸らしつつ、即断する。とにかく離れるべきだと。女の人の尻にうつぶせになって顔を寄せているという絵図は、弁明の余地のない変態さんの所行でしかない。
立ち上がる。そのつもりだった。
でも、立ち上がろうとして、僕は失敗していた。
(あれ……?)
また意味が判らなかった。身体が動かないとか、腕が痺れていたとかではなく、単純に立ち上がれなかった。腕を立てて膝を曲げて起き上がる。その動作の過程で、バランスが取れずに前のめりに倒れていた。
おかげで、白いショーツがさらに近くなる。視界に入りきらないほどの超接近をする羽目になっていた。
(落ち着け。ゆっくりと、だ)
状況が判らないものの、声を出すべきでは無い。むしろ出したらいろいろと終わる。間近で観察をしたあげくに匂いを嗅ぎに出た変質者の構図でしかない。状況はこの上もなく悪化している。
慎重を期すべきだと自分自身に言い聞かせながら、僕はひとつひとつの動作に意識を向ける。視線は地面に完全固定した。
まずは地面に手をつけて、上体を支える。それをしようとしたところで、僕は気づいた。
違和感があった。いや、むしろそれしかなかった。
地面に立てたはずの自分の腕が、視界に入ってこなかった。地面に手を押し当てている触感はあると言うのに。
見えたのは、やけに白っぽい地面を押さえるように伸びた、小さな黒いもの。短い毛に覆われたそれは、何かの動物の足のように見えた。
そう……例えるなら。
(…………猫?)
ふと思いついたのは、行き止まりの広場で見たあの黒い子猫だったけれど。
僕は慌てて自分の手のひらを見る。普段からそんな動作をするのにいちいち意識を集中させるようなことはなかったけれど、僕の意志に当たり前のように反応を示したのは、地面に伸びていた小さな黒毛だった。
こちらへと裏向かれた手には、薄いピンク色の丸い膨らみがくっついていた。
可愛らしい肉球だった。
猫の手そのものだった。
なんで……と、咄嗟に呟きかけて、でも声が出なかった。音を出すのがマズい状況なだけにそれが良かったのかどうか微妙ではあるものの、呟こうとした声も出てこなかったのは、ちょっと驚きだった。口腔を空気が通る感覚はあるものの、それが声どころか音にすらならない。
とは言え、まずは。
声の件はいったん置いておくことにして、僕は肉球でもって全身をまさぐってみた。全身を短くて少し硬い毛が覆っているのが判る。触れた感触は意外と気持ちいい。短い体躯。脚。そのどれもが知らない触感を返してくる。
首を巡らしてみると尻尾が見えた。長い尻尾だった。意識を向けると、あっさりと動く。だいたい思った通りに手でも足でもないものが動くその様子は、何かむずがゆい気持ちにさせられるものだった
顔に触れてみる。ぴんと立った耳、伸びた髭、口と確認出来た。
つまり。
猫だった。
やっぱり猫だった。
僕は立ち上がってみる。直立するのではなくて、後ろ足を曲げ、前脚を伸ばして座り込む猫の姿勢を思い浮かべながら、それを真似してみる。
こんどはすんなりと出来た。あまり視点に変化がなかったものの、今度は安定出来ていた。相変わらず近い白いものからは目を逸らしておく。
代わりに見上げてみる。青い空が広がっている。やけに青色が濃い気がする。
そして、僕は気づいた。
(ここ、どこだ?)
あの広場ではなかった。何も無いという点は同じなのかも知れない。けれども、その広さが違っていた。
やけに白っぽい地面が、どこまでも広がっている。見渡す限りの荒野だった。ずっと遠くにうっすらと山っぽいものが見えるだけの、とにかくだだっ広い場所に、僕はいた。
猫として。
(…………)
少し考える。と言っても何をどう考えたものかを考えるような、そんな曖昧な思考ではあったけれど。
ほどなくして、僕は息を吐き出した。ひとつの結論に到達する。
(夢か)
そんなところだろう。気がついたら猫で見知らぬ場所で誰かのお尻を眺めていた……意味不明だ。
と言うか、そんな夢を見てる自分こそ何なのか。いろいろと揺らでしまいそうだった……人間性とか人格とか、そういったものが。
頑なに空を眺めつつ。
(夢ってことは、僕は寝てるってことか)
僕はどこで寝て、こんな夢を見ているのだろう?
記憶を辿ってみる。路地裏で黒い子猫を見たのを最後に途絶えていて、今に至っている。
(今の僕はあの時の猫になってるってことか)
鏡でもあれば確定出来そうではあるが、とりあえずそれは置いておく。どうせ夢だと言ってしまえばそれまでのことだ。
あの空き地での出来事も夢だったのだろうか。あの猫と僕の手とが重なっていたことからして、現実的とは言い難い。あんな何も無い場所に立体映像というのもおかしな話だと思う。原理とか、良く知らないし。
あの猫に触れた途端に気が遠くなったのも覚えている。
……でも、そうなると順序がおかしいのか。
どの時点で、僕は寝てしまっていたのだろうか。
おばさんたちから逃げた後、広場で時間を潰してる内にうっかり寝てしまった……少々強引な気もするが、そのぐらいが妥当なところか。猫については、どこから出てきたのか良く判らない。
出来ることなら、あのおばさんたちの件も夢オチを期待したいところだった。まだ学校で居眠りしているというのが望ましい。それが授業中で無ければ御の字だろう。
あの広場で、と仮定するなら、そこに真名実もいるはずだった。校内であったとしても、やはりいるような気がするけど。
眠りこける僕の隣で、にやにやしながら人の寝顔を眺めていそうだ。そう言えば前科もある。しかも複数回。
何が楽しいのか、されている方としてはさっぱり理解出来ないけれど。
風を感じた。少し冷たくて乾燥した風。夢にしては、妙にリアルな感触だった。
視界の端で、ひらひらとチェック柄の布地が揺れるのが見える。
(……もしかして、この倒れているのって)
思うと同時に、半ば確信は出来ていたものの。
僕は身を起こしてみる。猫らしく、四肢を使ってだ。もう一度直立に挑戦することも考えたものの、無駄だろうとも思えて諦めた。
どうせ猫だし、猫らしくいこう。そんな心境だった。開き直りとも言うかも知れない。
横たわる後ろ姿を眺めつつ、歩く。無造作に地面に投げ出されたままの黒髪ポニーテイルを踏まないように、僕は慎重に歩を進めて前へと回り込む。
やっぱり、だった。真名実だった。高校の制服姿の幼なじみの姿が横たわっている。
閉ざされた目と、少しだけ開いた唇。眠っているのだと判ったのは、彼女の呼吸する音が聞き取れたから。
左腕は地面に投げ出されるように伸び、右腕は自分の胸を抱えるようにして横たわっている。真名実と僕との体の大きさが違い過ぎるせいか、さっきのお尻以上に丸い膨らみの存在感が半端なく見える。
猫な今の僕よりもずっと大きい。思わず後ずさってしまっていた。
(で……見知らぬ荒野で真名実と猫な僕って、なんだこの夢?)
真名実の寝顔を眺めながら、僕は首を傾げるしかない。
夢に意味を求めることに、それこそ意味があるかどうかも判らないとは言え。
もともとからして、僕自身は夢をすぐに忘れてしまう性質だ。普段から見ていないことはないだろうけど、目が覚めたらきれいに消えてしまうのが常だ。
となると、この夢も目覚めたら、記憶に残ることもなくさっさと消えてしまうんだろう。
ただ、こんなふうに自分の意識がはっきりしているというのも、妙な気分ではあった。こんなふうに自分が感じていたことも、たぶん目が覚めれば消えるのだろうけど。
(それで、これからどうするか)
目の前には無防備に眠る幼なじみの姿。周囲は荒野で、他には何もない。
真名実を起こせば良いのだろうか。それとも起こさないでおくのが良いのか。
幼なじみの姿を夢で見ている……そのことだけでも、気持ちがもやもやしてくるのだけど。
確かに付き合いは長い相手ではある。でも、夢に見るまでとは……さすがに認めがたい。
それも、こんな無防備な姿でとなれば、なおのこと。
最初の距離を保ったまま、彼女の寝顔を眺める。と言うか、それより下の方へと視線を向けられなかった。あの双丘よりさらに先がどうなっているか、確認することに躊躇いがあった。もし後ろ側と同じ状況になっているのが判明したら、いろいろやばかったから。
真名実のそんな姿を夢に思い描いた自分を許せるような気がしない。
半端で、しかも持て余すしかないもやもやしたものだけを感じつつ、そうしていることしばし。
不意に、聞こえた音に耳が反応した。
足音が近づいてくる。ちょうど後方からだった。
振り返ってみて、僕はそのまま硬直する。そうするしかなかった。見えたものが余りに想定外に過ぎていた。完全に予想外だった。
僕が、そこにいた。見間違いじゃない。制服姿の僕が歩いてくる。
(そう来たか……)
そして僕の目の前で立ち止まった相手……一色結人の姿をしたそれは、立ったままの姿勢で目だけをこちらに向けてきた。
ぞくりとした。
見下ろしてくる眼差しが冷たい。顔の大きさに比べてやや大きめで、そして睫毛が長い僕の顔。誰よりも知っている僕の顔は、今この瞬間、僕の知らない表情を見せてきていた。
冷たい、と言うよりも、無機質だと言うべきかも知れない。人の目で見られているのに、カメラのレンズを向けられているような気さえしてくる。普段は意識して半眼にしていたはずの僕の目を大きく開き、その上で瞳だけをこちらに向けてくる。その姿だけでも異様ではあった。少し目が隠れるようにと長めに垂れ下がる前髪も、下から見上げる分にはたいして意味を成していない。むしろ不気味さを助長している。
でも、何よりもそれ以上に、その視線こそが異質だった。
僕を見ている。ただそれだけだった。そこに何の感情も見えなかった。僕を見ている相手は、何も感じていないし、きっと何も思っていないと思わせる。
まるで人形に見られているみたいだった。
少なくとも、僕はそう感じた。僕だから、かも知れないけれど。
それでも僕は……猫たる僕は相手の視線を真っ向から受けた。
そんな目を真名実に向けてくれるな。そうならないために、こっちで全部引き受けてやる。どうしてか、そう思ってしまったから。
しばしの視線の交錯。互いに何度かまばたきを挟みつつ、互いに視線を動かさない。無言にして無表情の相手の視線に、僕が早くも限界を感じ始めた頃。
まったく唐突に、僕の姿をした相手は、口を開いた。
「こんにちは」
その声が僕のものか、正直な所自信が無かった。自分のイメージと実際の声に差異があるのは判っている。ただ、それでも確証が持てなかったのは、相手が発した声そのもののせいだった。
その視線と同様に、無機質な声だった。抑揚がない。機械で合成されたような声だった。トラックやバスが発するアナウンスや、音声の出る自販機の合成音のような、そんな声。いや、音だった。
ただ、何にせよ、猫たる僕には何とも返答しようがなかったのだけれど。
「…………」
沈黙が続く。居心地の悪さだけが募っていく。が。
「こんにちは」
辛抱強く、と言うにはほど遠く、無表情に無機質に言葉を重ねてくる。
そんな僕に、僕はどう反応を返したものか。
途方に暮れるというのはこういう心境の事なんだろう。
そんな漠然とした感想を抱きつつ、僕はただ僕の姿をした何者かの顔を見上げるぐらいのことしか出来なかった。