1話 猫と僕と真名実と空き地と
「ねえ、結人。これなんてどうかな?」
高校からの帰り道を並んで歩きながら、にこにこと上機嫌顔で真名実が見せてきたのは一冊のノートだった。
開かれたページには、イラストが描かれている。
マンガチックに描画されているのは、黒いひらひらがいっぱい付いた服を着たツインテールの女の子だった。ゴスロリとかいうファッションだろうか。そういった方面には疎い自覚のある僕としては、正直なところ良く判らない。
そのイラストは、そこそこ巧い。まあ、当人が描き慣れているということもあるだろうけど。
そこに描かれている女の子は、デフォルメの加減もあるにせよ、目が大きめで睫毛も長めに描かれているせいで、なんとなくバランスが悪い印象を受ける。
だからこそ判った。何をモデルにこのイラストを描いたのか。
だからこそ判った、何をする為にこのイラストを描いたのか。
僕は相手によく聞こえるようにため息をついてから、告げる事にした。
「断る」
「まだ何にも言ってないよ?」
そらとぼける真名実に、僕は半眼のままで続けた。
「言わなくても判る。と言うか、いい加減に諦めろ。何を言われようと、お前のコスプレ趣味に付き合うつもりはない」
「コスプレじゃないよ。これはちゃんとした制服だよ。今度はチョコレートケーキの企画モノだから、白と黒のロリータでって、お姉ちゃん達からのオーダーなんだから。白は私で、黒は結人だよ。あ、結人は白のが良かったかな?」
「いやいや、そういうことじゃないし、どう考えてもそれは立派なコスプレだろうが。なによりもだ。僕が着る前提からしておかしいだろ?」
僕としては正論を吐いたつもりだったのだが、この幼なじみはきょとんとした顔で僕を見返してきた。
「え? だって、今度のフェアも、ウチでバイトじゃないの?」
「それとこれとは違う話だ。いい加減、このやりとりも無駄だって気づかないか?」
「可能性がゼロじゃない限り、わたしは常に攻め続けるよ」
「キメ顔で言われても僕の返事はずっと変わらないが?」
即答しておく。と、相手もまた即応してきた。
「でもちょっとは揺らいでたりしてるよね?」
「全く無いな」
「ふたりで可愛くなろうよー」
「断ると言った」
半眼のまま、僕は告げておく。真名実はイラストとにらめっこしながら、小さく口を尖らせてみせた。
明らかに不満そうな顔だった。不満顔をしたいのはこっちなんだけど。
「……このツンデレさんめ。どうしてくれよう」
しかもなんか不穏な呟きを漏らしてるし。こっちこそ、どうしてくれようか。
そんなことを思いながら真名実の横顔を眺めていたところで、ふと僕は気づいた。
道端に三人のおばさんが陣取っているのが見えた。買い物帰りなのか、中身がぎっしり詰まっているのが判るエコバックを手に提げている。
三人で何か話をしているように見えて……ちらちらと僕らを見ているのも判った。それほど離れていないから、さっきの真名実との会話も、少しは聞こえてしまったかも知れない。
(誤解されている……んだろうな、これは)
コスプレとか、その上でバイトとか、あの人たちはどう受け止めてくれただろうか。
僕の視線に気づいて、露骨に視線を逸らすのを見ると、嫌な予感は的中してくれたようだった。うかがうように向けられてくる視線が、ずいぶんと生温かいような気がする。
さっきも真名実に言ってやった通り、僕にコスプレする趣味は全くない。断じてない。あり得ない。無論やったこともないし、興味など持てようもない。
コスプレするのはこの幼なじみだけだ。それも、こいつの家が生業にしているケーキ屋だけの話だ。
毎月22日のショートケーキの日と、シーズンごとに予定されたイベントの日にだけ、この幼なじみは自作の制服……もといコスプレ衣装で売り子となるだけの話で、そしてとある理由からイベント日には僕も手伝い兼アルバイトをしているというだけの話だ。
もちろん、僕はちゃんとした制服でだ。
そう、それだけの話だ。あそこでにやにやとしているお三方が考えているようなものじゃ決してない。精神衛生上の観点から何を考えているのかを具体的にするつもりもないけど。
「こないだの中華スイーツフェアのこと、まだ気にしてる?」
「何の話だ?」
唐突な真名実の発言の意味が判らず、聞き流せば良かったものを、僕はつい問い返してしまっていた。
「あの時にデザインしたチャイナドレスじゃ、身体のラインがはっきり出ちゃってて、結人向けじゃなかったもんね。結人の分をデザインし直す時間が無くて泣く泣く断念しちゃったから、今回のはかなり気合い入れてデザインしたんだよ。だから、今度はばっちり可愛いよ。だから安心していいよ」
得意満面に言ってくる幼なじみに抱いた感情を、どう表現したら良いものか。安心する要素がってどこにあっただろうか。本気で判らないけど。
「根本的なところからしてすでに間違ってるって、そろそろ気づいても良い頃だと思うんだが、どうなんだ?」
「え? ああ、確かにわたしもちょっと恥ずかしかったよ。スリットとかちょっと深すぎたかなって。あと、胸のところも思ってたよりもきつかったし……バランス悪くて変に見られてたかも。結人から見て、わたしの身体、どうだった?」
「いや、そういうことじゃなくてだな」
ぐいっと顔を寄せてくる幼なじみに怯みつつ、漠然と思い描いてしまったのは、目の前の相手の自作チャイナドレス姿だった。
普段はポニーにしている長い髪をおだんごに丸めていた姿、胸周りのサイズが合っていなかったことでよりめいっぱいに丸みが強調されていた双丘、はっきりと浮き出ていたお尻のライン……
(いやいや、何を反芻してんだよ、僕は)
自身の不覚を恥じつつ、ふと、気づく。
視線を感じるなんてことがあり得るかどうかはともかくとして、妙に粘っこいような何かを感じて、僕は目を向けてみた。
さっきのおばさんたちが身を乗り出してきていた。だいぶ自重を捨ててきている。距離はそのままで、一言一句聞き逃さない構えだった。手にしていたエコバックはすでに地面の上にある。
さっきの真名実の言葉が、どういう作用をあのおばさんたちにもたらしたのか。
考えたくもない。嫌な予感しかしないし。
一刻も早く立ち去りたい。それだけを思った。だから。
僕は彼女の腕を掴んでいた。
「ふあ?」
何か言い掛けだったのか、目を丸くする真名実に構わず、僕は強引に手を引いて歩き出す。
まずはおばさんたちの目から逃げることだけ念頭に、僕はちょうど近くにあった路地裏へと入っていった。こんな道を普段通ったりはしないし、どこに続いているのかも知らないけれど、そう変な場所に行くことはないはずだ。
去り際におばさんたちの妙にハイテンションな笑い声が聞こえたけれど、考えないことにした。大股歩きで狭い路地を突き進むのみ。
しばらく進むと、ちょっとした空き地に出た。家と家に挟まれた、乗用車が二台くらい駐車出来そうなスペースの場所だった。
(行き止まりか……)
土と砂とまばらな草が生えているだけの光景を眺めながら、僕は嘆息する。こうなってしまうと、戻るしかなくなっているわけで。
もし、あのおばさんたちがここが行き止まりだと知っていたとしたら、今頃どんなことを想像されているだろうか。あの顔と生暖かな視線と笑い声は、まず健全とは言えない想像力が働いていただろう。考え過ぎかも知れないけど、否定し切れないのも確かだった。そんなことを考えてしまう僕の方こそ健全じゃない、とは思いたくないけれど。
とりあえず、しばらく戻るのは止めた方が良い、か。そう結論づける。
「なあ、真名実。今日、お前の家の方は……」
振り返りながら帰り時間の都合を問おうとしたところで、僕は言葉に詰まる。
真名実が顔を真っ赤にしていた。耳まで赤い。振り返った僕と目が合うと、露骨に目線をキョドらせていた。
「真名実……?」
「え、えと……ちょ、ちょっといきなしすぎて心の準備とか、まだで、さ。あ、でも、大丈夫。大丈夫だから。わたしなら、平気、平気だよ。結人が望むんだったら、ここで、でも……うん」
たどたどしく続けてくる相手に、僕はどんな感情を持てばいいものか。
何を想像しているのか判らないわけじゃない。そこに至った経緯までは不明だったけど。さっきのおばさん達じゃないけれど、ちょっと突飛過ぎるだろうに。
ただ、咄嗟とは言え、誤解を招くような行動ではあったかも。傍目に見れば、確かに人気のないところに連れ込む絵図ではあったわけだし。
けど、何て言うか……どんだけテンパってたのか、自分。有り得んな、これ。なんだこれ。
はっ、と気づいて。
僕はずっと掴まえたままだった彼女の腕を離す。
真名実が小さく声を漏らすのが聞こえたけれど、あえて無視した。
向けられた視線が寂しそうに見えたのも、気のせいに決まっている。
ついでに僕が顔に感じるこの熱も気のせいのはずだった。
僕は真名実に背を向けて、空き地に踏み入った。逃げるみたいに、とは考えないでおく。何にせよ、しばらくここで時間を潰さなければならないのだから、不自然ではないはずだ。
でも、真名実の都合もあって、多分そう長い時間は留まれないはずだ。彼女が売り子に立つのは主にフェアをやっている日だけで、普段は仕事で手が放せない両親の代わりに夕餉や洗濯物の仕分けをするため、少なくとも夕暮れ前には帰っていなければならないはずだ。
(今日は買い出しにいかないのなら、少しは時間に余裕はあるんだろうけど……)
虹川家の台所の様子を思い浮かべながら、何とは無しに目を向けた先で。
砂利の上に奇妙なモノが転がっていることに僕は気づいた。
(何だこれ?)
黒くて丸くてもこもこしたもの。
そうとしか言えないものが、そこにあった。
(……猫、か?)
近づいて見ると、それが手に乗るくらいに小さな黒い猫が、毛糸玉のように丸まっているのだと判る。
さっきまでいただろうか。考えてみる。いたかもしれないし、いなかったかも知れない。これだけ小さな猫が、さらに小さく丸まっているのならば見過ごしていたか。
「可愛い……」
ぽつりと呟く声に目を向けると、空き地へと入ってくる真奈美と目が合った。
少し首を傾けて、笑顔を見せてくる真奈美。その顔がまだ少し赤いように見えたけれど、僕は気づかないふりをしておく。手に持ったままだったあのノートはショルダーバッグに戻したのだろう……とか、どうでも良いようなことを気にしておくことにした。
(いや、どうでも良いわけでもないか。僕のコスプレ案ってだけでも危険物指定だしな。取り上げておいたほうがいいか?)
そんな考察こそどうでも良いのかも知れないけれど。
僕の横まで来た真奈美は、そのまま屈み込んで黒毛玉を眺め始めた。
僕は立ったままで、黒毛玉と真奈美の横顔とを交互に眺める。
さっきの微妙な雰囲気と言うか空気感が、ちょっと残っている。そんな気がする。そう感じているのは僕だけかも知れないけれど。
目の向け先に困って、なんとなく真名実の耳の後ろ辺りをを見下ろしてしまう。
(そう言えば、耳のところが弱いとか言ってたよな……ってそうじゃなくてだな)
僕はぶんぶんと頭を振る。真名実に気づかれないでいるのが救いか。
「この辺のコなのかな。ね、見て見て。すっごくまんまるだよ」
こちらの奇行には気づかず、じっと子猫に見入ったままで、真名実が手だけをぱたぱたと振ってくる。
そんな相手を改めて眺めやって、僕はなぜか溜息を吐きたくなった。
実際にそうしても良かったかも知れない。けれど、僕はとりあえず言われるままに屈み込んでみることにする。
そのまま彼女の左隣に。間にショルダーバックを挟んだ位置取りになったけど。
黒い猫玉は、丸まったまま動かないでいた。僕たちふたりが目の前にいるのに、意に介す様子もない。人慣れしているのか、見かけに寄らず剛胆なのか。ぴんと延びた髭をわずかに揺らしながら、我関せずとばかりに落ち着いている。
それどころか。
「わっ。伸びた」
にょきっと、黒い丸毛玉から尻尾が伸び上がっていた。そしてそのままゆらゆらと左右に揺らしてくる。
「ねえ、結人。このコに触ったりとか、大丈夫かな? これってお誘いされてるのかな?」
何か期待を込めた眼差しを猫に向けたままで問うてくる真奈美に、僕としては返答に困るしかない。それっぽい仕草ではある。が、当の猫にお伺いを立てでもしなければ、判りようもない。
とは言え、僕が何と答えていようと、結果は同じだったろうけど。
ゆっくりと慎重に、真奈美が手を伸ばすのを眺めながら、僕は声には出さずに「ほらな」と呟いておく。
伸ばされた手と、その影とを眺めながら。
不意に、僕は気づいた。
(何だ? 何か、おかしい……?)
違和感がある。でも何がおかしいのかが、すぐには判らなかった。
閃いたのは、真名実の指先が黒い子猫に触れる、その直前だった。
(影が、無い?)
小さな黒子猫の丸くなっている地面に、影が出来ていなかった。小さすぎて判りづらいわけでもない。何より、ぴんと伸ばされた尻尾の長さからして、判りやすい一本の影が出来ていなければおかしいはず。
伸ばした真名実の腕の影はちゃんとあるのに。
だから、だったと思う。
それは咄嗟の行動だった。何か考えがあってのことじゃなかった。
また、僕は真名実の手を横合いから掴んでいた。
「えっ、結人?」
びくっと肩を震わせて僕を見る真名実。普段以上に驚き過ぎなのは、実際のところさっきのやりとりが尾を引いていたからだろうか。判らないけど。
いや、きっと僕が気にし過ぎているだけだ。おばさん達の揶揄の気配を感じた辺りから、調子が狂いっぱなしだ。
ちょっと幼なじみの手を掴んだ。ただそれだけのことに、ドキッとしてしまう自分を自覚してしまう。
そして、そんなことだから、ただそれだけのことなのに、バランスを崩してしまう自分がいてしまう。
「おっと」
前に倒れそうになって、僕は手をついてやり過ごす。
その直後に、気づいた。
今、僕の足下に何がいたか。瞬時に視線を下げたところで、僕は絶句することになった。たぶん、一瞬以上、思考が停止していたかも。
僕が手をついた地面。そこには丸くなっていた黒猫がいた。
……さっきと全く変わらず、丸いままの黒猫が。
ぞっとした。
僕の手は、砂利混じりの地面の冷たさと突起に触れている小さな痛みを感じている。
けれど僕の目は、僕の手と黒い猫とが重なっている映像を伝えてきている。
丸まった黒猫の絵図は、まるで立体映像だ。影がない理由はそのせいだろうとは思いつつ、どうしてそうなのかまでは判りようがない。
(何なんだよ、これ……}
ぬるりと全身を嘗めるような気味悪さに言葉が出なかった。
そして。
待ち構えていたようなタイミングで、子猫が目を開けた。見えたのは鮮やかな緑色の瞳だった。
僕を見上げてくる。それは明らかだった。子猫にしては不釣り合いなほどの、全てを見透かそうとするような、でもひどく無機質で冷たい眼差し。
でも、それも一瞬だった。
唐突に視界が揺らいだ。音もなく、ぐにゃりと歪んだ。
(え?)
声が出た。のかどうかも判らなかった。何も音が聞こえない。それどころか、自分がどういう状況なのかすら判らない。あらゆる感覚が、僕から無くなってしまっていた。
手をついて座り込んでいたはずなのに、それすら確信が持てない。まともに見分けられるものが何もない視界は、何の助けにもならなかった。倒れているかも知れない。それも判らない。
ふっと視界が闇に転じた。瞼を閉じたと言うよりも、視覚情報そのものが途絶えたような、唐突にして冷徹な闇に閉ざされる。
(何が起きて……)
ぐらりと墜ちそうになる。そんな感覚があった。
ひどく曖昧な感覚。だけど、そうとしか呼べない感覚。
気を失いかけている。そんな自覚があった。眠りに落ちる瞬間を、こんなふうにはっきりと感じることなんて今までになかったけれど。
間もなく墜ちる。そんな直感があった。
その刹那に何を考えたか。何かを思ったはずだった。叫ぶように、何かを。
けれどそれが何だったのか、僕自身が理解するよりも先に。
僕は意識を手放していた。