プロローグ
はぁ、と。
目の前の状況に僕はため息をついた。
もう何度目になるだろうか。判らないけれど。
それで何かが変わるわけでもない。判っていたけれど。
ベッドのようなものの隅っこでじっと座りながら、僕の眺める先にはひとりの少女の眠る姿がある。
虹川真名実。小学校の頃からの幼なじみ。関係としてはそれで事足りるはずの同い年の女の子。
今は高校の制服姿で、そのベッドのようなものに横たわって、とても静かな寝息を立てている。
どうしてこんなことになっているのか。
事情はだいたい把握している。理解出来ているかと言えば微妙なところだけれど。
と言うか、理解したくないというのが正直な気持ちだった。でも、どうにもならないのも判っている。
これは夢じゃないと、そろそろ受け入れなければならなくなってきたから。
ここは異世界。
突拍子もない。自分でもそう思う。けど、事実だった。
たとえば、真名実が横になっているこのベッドのようなもの。そんなものからして、違っている。
そもそもこれがベッドなのかどうかも若干疑わしくはあったものの。
凹凸のない長方形の板状をしたもの。材質は判らないけれど、大理石のような光沢をしていながら、見た目に反して高反発ウレタンのように弾力があって、真名実の全身をしっかりと受け止めている。
問題なのが、それが宙に浮かんでいるということだった。柱も脚も無く、空中で制止している。
何かの手品だと言われれば、そう見えなくもない。けれど、そうじゃないのも、今の僕には判ってしまっている。
長方形の四隅に設置され、ぼんやりと光っている丸い球体。それがこの板を浮遊させている原因だった。
理屈はよく判らない。でも、感覚的にはそういうものだと判る。奇妙な感覚だと自分でも思うけれど、そうなのだからどうしようもない。
ともあれ、このベッドのようなものの在り様は、手品と言うよりも魔法。その類のものだとしか言いようがなかった。
少なくとも、そんな理由でもって空中で制止するものを、僕は今までに見た事もないし聞いたこともない。
ここが異世界だと知らしめてくるものは、もちろんそれだけじゃ無いわけだけど……
自分自身のことも含めて、いちいち羅列するのも無意味に感じているのも事実だった。
何をどう考察しようと、理屈を積み重ねようと、屁理屈をこねてみても、それでこの現実をどうにか出来るわけでもない。
疲れるだけだ。いや、実際のところ、疲れた。やってみなかったわけでもなかったから。
溜息が漏れる。自分でも疲労が滲んでいると思う。
ベッドもどきの脇に用意された食事は、待ち続けている僕のために、あのちょっと変わった女の人が持ってきてくれたものだった。
まあ、「ちょっと変わった」で済ませて良いものかどうかは別問題として。
なんにせよ、それが厚意によるものだと判っていても、僕はそれに手を出すつもりになれないでいた。
もう少しすれば、またあの女の人は顔を出すのだろう。そして、少しも減っていない食事を見て、寂しそうな顔をするだろう。
そんなのを、もう何度か繰り返している。
顔を見せる度に彼女は心配そうな顔を見せるものの、かといって僕に食事の強要はしてこない。気を遣ってくれているのは判る。
それが判るだけに、僕としても申し訳ない気持ちもあるにはあるけれど、それでも食べる気になれなかった。
いつまでたっても、そんな気になれなかった。
良くないことだと判っていてもだ。
たぶん……この状況が変わらない限りは、この気持ちも変わらないと思う。
そして、ベッドに横たわったままの幼なじみもずっと食べていない。
真名実はずっと眠り続けている。目覚めそうな様子もない。
その寝息はずっと静かで、一定のリズムで続いている。この静寂を少しも乱したりしない。
音が聞こえた。小さな音。僕でもなく、真名実でなくて、音は外から。近づいてくる。
足音だった。部屋が静かだからというのもあって、僕の耳にはしっかりと聞こえてきた。
それに呼応して、部屋のすぐ外でも音がする。音と言うには余りに小さい衣擦れの音だった。座っていたところを立ち上がった、と言ったところか。そんなのが聞こえるくらいに、周りはとても静かだった。
むしろ、そんな静寂の中にいて物音ひとつ立てずに座っていたあの男の方こそ異常なんだろう。存在感がないわけじゃないのは判っている。気配の消し方が半端じゃないってだけだ。
足音が止まる。僕と真名実がいる部屋の前で。
「様子は?」
問いかける声で、僕は相手の正体を確信した。足音からもある程度は察知出来ていたけれど。
あのハゲ頭かそれともメガネか。どちらかを光らせている相手の様子が思い浮かぶ。アイツがそのまま入ってくるようならば、僕も相応の対応を取らなければならなくなるだろう。
だから僕は、ゆっくりとドアへと向き直っておく。
「そうですか」
続いて聞こえた声も同じもの。それにゆっくりとした吐息が続いた。
「町に着く前にお話が出来ると良かったのですが、致し方ありませんね。あまり無礼をするわけにも参りませんし。では、引き続きここをお願いいたします。退屈をさせて申し訳ありませんね」
一方的に話しているふうに聞こえれるけれど、これは相手が声を発していないからだった。基本的に無口なやつだったはず。頷くとかぐらいはしているだろうけど。
「もしよろしければ私が今読んでいる本でもお貸ししましょうか。年若い娘ふたりとのめくるめく官能の……」
「確認が済んだのならさっさと去れ、隊長」
拒絶の一声は刺すように鋭かった。容赦もなく、敵意に満ちていた。
「いやはや手厳しいですねぇ」
対する声は相変わらずの調子だった。軽い。一応は部下に当たる相手からの暴言に対して気分を害したような様子もない。
と言うか、楽しんでいる。それが判った。からかって遊んでいるだけなんだろう。
された方がそれを判っているかは微妙だ。判っていても、瞬間的にわき上がる感情はなかなか抑えが効かないだろうし。そう言えば、ああした話題の時だけは、反応が食い気味に速いやつだった。
そういうところがからかわれる原因だと、気づいていないんだろうけど。
再び足音を鳴らしながら、部屋から離れていくのが判った。同時に部屋の前にいた男も、さっきまでの通りにまた座り込むのも判った。
僕らの方で何か変化がない限り、アイツもずっとあのままでいるつもりだろう。ご苦労なことだ。監視か警護か、どちらとも取れるそれが今の彼の仕事ではあるんだろう。
しん、と静けさが戻る。
僕は再び身を翻す。見やった先にある真名実の様子は、全く変わっていない。
仰向けの姿勢ながら、そびえ立つようなふたつの膨らみに目が向いてしまいそうになって、僕は慌てて天井などを見上げてしまう。
何の飾り気のない、無機質な天井。この部屋そのものが殺風景と言うこともあってか、他には照明ぐらいしかない。
その照明と言うのも、天井近くで浮遊している光の玉という、これも魔法の産物としか言えないようなシロモノではあったりする。蛍光灯がないのに明るい部屋と言うのも気持ちが落ち着かない。
異世界。魔法なんてものがある世界。そこにいる僕。そして真名実。
そんな世界に来てしまって、成り行き任せになってしまった結果が、ここでこうしている今。それはどうしようもなかったとは言え。
もう、これが夢だと思うには、少々時間が経ち過ぎてしまっている。
この時間感覚も、そう言う夢だからと……そんな希望にすがりたくなる気持ちもあるとは言え。
真名実の横顔を間近に見ながら、僕は全身を使って溜息を吐き出す。
僕と真名実が、こんなことになってしまってから。
……すでに三日が経とうとしていた。