催眠術師
そのただならぬ雰囲気に、全員の視線が課長へと集中する。先ほどから小声で何かを喋っていたが、電話だったらしい。そして、その目つきはいつにも増して剣呑だ。
課長は更に二言三言話すと、携帯を耳から離し、ため息をついた。
「先程の男、球体コード『催眠術』だが、護送中に逃げられたそうだ。どうやら目を合わせた警官がいたらしい。現在四区路地付近を逃走中。行くぞ」
雰囲気が張り詰め、表情が引き締まる。コートの裾を翻した課長に続いて、それぞれが研究所を後にした。
「柊、東雲。二人は私と共に来い。先回りする」
車へと向かっていた俺たちは、途中で課長に呼び止められた。先回りとはいえ付近に車は見当たらないし、それよりも車の方が早いのではないのか。それ以上に使い勝手のいい乗り物があるのだろうか。
「残りは通常通り車で目標へと向かえ。その後は状況を見て指示する」
そんな俺の疑問を挟み込む余地も無く、他の三人はさっさと車へと走り去っていく。残された俺たちは疑問符を浮かべるばかりなのだが。
「来い」
とりあえず指示に従っておく。その途中、ふと課長の目を見る。最早見慣れた、深紅だった。つまり、もう既に何らかの能力が発動しているのか。
「言っておこう。私の能力は『身体能力強化』。肉体を常人の三から五倍に強化する。それと、必要以上に暴れた場合、安全は保証できない可能性もあるから注意しろ」
その言葉に俺たちがまだ反応できないうちに、腰に腕が回され、二人揃って脇に抱えられる。合計重量は決して軽くは無いはずだが、そんな苦痛など感じていないような顔だ。これが強化の賜物か。
と、のんびり考えていると、いきなり体が上から押されるような感覚と共に、目の前の地面が遠のいた。
「きゃぁぁ!?」
五十鈴の悲鳴が聞こえる。つまり、俺だけの感覚ではないという事だ。慌てて顔を上げると、住宅街の屋根が足元に連なっているのが見える。
導き出される結論は一つ。課長が俺たち二人を抱えたまま、地面から塀へ、そして住宅の屋根へと跳躍したのだ。
そしてそのまま、ぴょんぴょんと飛び石のように住宅街を駆け抜け、雑居ビルが立ち並ぶ区画へと入る。その一角で、いきなりビルの屋上から飛び降りた。
「うおああああ!?」
「きゃああああああ!」
完璧に同期した俺たちの叫びと共に、地上五階建てのビルから地面へと平然と落下した課長は、地面を軽くへこませて着地した。
「四区到着、そっちはどうだ?」
俺たちをさっさと下ろすと、戸惑いなどどこ吹く風、なにやら一人で喋り出した。どうやら会話が成立しているようだが、誰かの能力なんだろうか。
そうこうしているうちに、路地の角から人影が飛び出してきた。
「はぁ、はぁ、はぁ、な!なん!お、お前らぁ……!」
見間違える事などない、数時間前に目にしたばかりの姿。瀬上や五十鈴を操り、そして殺そうとした男。球体コードから行くのであれば、『催眠術師』と言ったところか。
「目を合わせるなよ。目的は逮捕だが抵抗すれば反撃していい。もちろん死なせない程度にだ」
「了解です。……五十鈴、止められるか?」
「足くらいなら。体全体だと、どうしても目を合わせることになりそう」
「それでいい。気をつけろよ」
「私は退路を塞ぐ。後五分ほどで湯川たちも到着するはずだ。最悪それまで耐えればいい」
「了解」
課長がもう一度地を蹴って路地の向こうへと消え、いよいよ俺たち二人だけになる。それを男も察したのだろう。消えた課長を探すのをやめ、俺たちへと集中したようだ。
「お前ら、さっきのお返しをしてやるよ」
咄嗟に目を逸らす。その判断はあたりだったようで、男の舌打ちが響く。だが、こうやって目を逸らすと、男の動きも判別しにくい。こうやってやり過ごすのも余り長くは続かないだろう。
「五十鈴、頼む」
その声に反応した五十鈴が右手を伸ばし、照準を合わせる――――ことは叶わなかった。
「はっ!お前のその能力、狙いが定まらないと発動しねぇんだろ?知ってんだよ!」
どうやら先程俺が取った対処法を覚えていたらしい。左右に小刻みかつランダムに動き回る男を前に、困惑した様子の五十鈴が俺の方を窺ってくる。とはいえ、俺かて効果的な対処法は……一つだけあるじゃないか。
「『抵抗すれば反撃していい』んだよな?」
「……一応そう言われてるけど」
「じゃあ遠慮なく行くからな」
後で責任取れとか言われても取れないし。誰にとも無くそう断ってから、右手の人差し指と中指を立てる。丁度子供が手で拳銃を模るような形状。そして、男の右腿を狙って緩く振った。
コンマ数秒のタイムラグ。その後、狙い通りの部分がさっきよりも深めに斬れた。
「ぐあああああぁぁぁぁぁ!」
身の毛もよだつような絶叫を残して、男が地面に崩れ落ちる。傷を抱えるようにしてのた打ち回り始めた。もはや目を合わせることも、能力を発動する余裕すらも無いだろう。
「課長!逮捕お願いします!」
すぐさま走りより、男の傷を確認する。幸いと言うべきか、そこまで深いわけでもなく、血が止まらなさそうなわけじゃない。とりあえず男のズボンを片方切り取って、傷口に巻き付けておいた。
男の動きに抵抗の意思を見出せず、応急処置までしていた俺は気がつかなかった。
「……くひっ、くひっ、くひひっ」
泣き叫び、呻いていたはずの男の声が別の色を帯び始めた事に。
処置の合間も悶えていた体が、動きを止めていた事に。
「ほら、もう大丈……夫……」
とりあえずの処置を終え、課長がいつまで経っても戻ってこない事に違和感を覚えながら顔を上げると――――――深紅の瞳と、目が合った。
「しま……!」
咄嗟に顔を逸らすが、もう遅い。徐々に体の力が抜け、思考が麻痺していく。
――――――お前は俺の言う事だけを聞いていればいいんだよ