球体保有者
奥歯を強く噛み締める。五十鈴を正気に戻すにはこれくらいしか思いつかないが、これを使う事は躊躇われる。それはとりもなおさず五十鈴を傷つける事に他ならないからだ。五十鈴を危険から護るはずの俺が五十鈴を傷つける。笑い話にできない矛盾は、俺の足を鈍らせた。
五十鈴が、俺に照準を合わせたのが見える。後二秒もすれば、俺の体は動かなくなるだろう。男の目的が何かは分からないが、俺が動けないことで何らかの危険が生まれることは確かだと思われる。なら、ここで俺が停止するのは何としてでも避けたい。
「悪い!」
精一杯の罪悪感を込めて、それを行おうとしたとき。
唐突に、五十鈴の目が黒に戻った。
それと同時に、右の掌を下げる。目はまだ虚ろだから、洗脳は解けていないはずだ。なのに、何故。
驚愕のあまり立ち止まりながら、必死に可能性を導き出す。仮説を立てては否定し、導き出されたのは――――時間制限。おそらく、五十鈴の能力にはそれが存在する。なら、今がチャンスのはずだ。テレビなんかを見ても、洗脳は大元を叩けば解けるのが定石のはず。今なら、ここからなら。けれど、加減を間違えたときの恐怖が、俺を縛り付ける。
「……チッ、使えねぇな」
そう呟いた男が、ポケットへと手を突っ込む。そこから現れたのは、黒鉄色に輝く、漫画やテレビではよく見ても、現実では見たことのない物。拳銃だ。
身の毛もよだつ音をさせながら、男がそれを五十鈴に向ける。洗脳された五十鈴は、それを向けられてもなお俺を見据え、男のことなんて気にも留めない。このままなら、五十鈴は死ぬ。
――――――五十鈴が、死ぬ?
悪魔のような冷静さで、五十鈴の死と失敗を秤にかける。答えなんて、見なくても分かる。五十鈴を失うのに比べたら、世界が滅びようが知ったこっちゃ無いのだ。
右手の人差し指、中指、薬指の三本を立て、残りを折りたたむ。狙いを定めるのももどかしく、右手を全力で振り上げた。
おそらく、俺の目は今深紅に変化しているだろう。五十鈴と同じように、あの男と同じ様に。そうでなければおかしい。なぜなら、俺だって『球体保有者』なのだから。
俺が右手を振り上げてからコンマ数秒後、俺が狙った通り、男が構えた拳銃が中心から切断された。男が驚愕に目を見開き、銃身が半分になった拳銃を見つめる。次いで、右手を振り上げた格好で停止する俺を睨みつけた。
これが、俺の能力。五十鈴が対象を止めるなら、俺は対象を切り裂く。切り裂きジャックのあだ名を頂戴する俺にこれが与えられるなんて、皮肉なものだ。
そんな思考も束の間、五十鈴を一刻も早く助けなければ。残り数メートルだった距離を一息に駆け抜け、男から五十鈴を庇うように立つ。腕はギリギリ届かないが、遠くも無い、そんな距離で相対した男は、役目を果たせなくなった拳銃を投げ捨て、俺を見る。その目が俺を対象にして紅くなる前に、抵抗意思を削がなければ。
そのためには、恐怖を与えるのが一番だ。自身が死ぬかもしれない、そうでなくても痛い目を見るかもしれない。それは、人の無意識に働きかけ、防衛本能を呼び覚ます。そうなればもう、大抵の人間は抗えなくなるのだから。
加減は分からない。指一本を全力で振れば大根を切断できるし、三本あれば拳銃も切断できるのが分かったが、人間と大根や拳銃の強度の差がはっきりしない今、少し弱めるべきか。
だが、もしそれが相手の怒りを買うような事になれば本末転倒。ここは強めでいく。
右手の五指を広げ、相手の体を引っ掻くように振る。先程と同じくらいのタイムラグの後、男の服が同じ軌道で破け、その下の皮膚から血が滲んだ。
「……あ、が、い、痛……お前ぇ……!」
「まだやるなら次はもっと強くするけど、もういいだろ。諦めておとなしく捕まれ」
歯を食いしばった男が、無言でうなだれる。それと同時に五十鈴の洗脳も解けたらしく、男の目が黒に戻った。
「……怜?私……」
「ああ、大丈夫か?今警察呼ぶから、もう安心だぞ」
携帯を取り出し、一、一、と打って、止める。確か、あの二人の仕事は異能犯罪の取り締まりだと言っていた。なら、普通に警察を呼ぶのではなくあの二人に直接連絡した方がいいのではないだろうか。面倒が少なくて済む。
打ち込みかけた百十番をやめて、湯川さんの番号を表示する。発信ボタンを前に少し躊躇ってから、思い切って触れた。
数回の呼び出し音の後、唐突に繋がる。それが一度聞いた湯川さんの声である事に安堵しながら、用件を頭の中で整理する。
〈はい、こちら警察庁異能犯罪対策特務課です〉
「あ、柊です。突然すいません」
〈あら、どうかしましたか?〉
「今、球体保有者に襲われて。たぶん普通に百十番するよりいいと思いまして」
〈え!あ……はい。ありがとうございます。その方が良かったです。すぐ行きますので、そこの住所を教えてください〉
ここって、どこだっただろうか。目に付いた家の住所が書かれたプレートを読み上げると、慌てた様子で電話が切れる。警視庁から来るならどれだけ急いでも二十分はかかるだろうか。つまりそれまでこいつを見張っている必要があるのか。
その予想は覆され、十分ほどで九条さんが到着した。正確に言えば、湯川さんを抱えて空から降ってきた。
「……え?」
「こいつか、球体保有者は。……ん?」
「え、ちょ、な、なん、どうやって?」
俺たちの疑問などどこ吹く風。男を立たせた九条さんは、その胴体の傷に眉をひそめた。
「……これは、誰がやった?」
「あ、俺です」
「どうやってだ」
「言ってませんでしたけど、俺も球体保有者なんで。その能力で」
「そうか、とりあえずもう一度来てもらおう。事情聴取その他もある」
「ええ、分かりました」
淡々と状況を処理していく九条さんを見ながら、俺は少し思った。
今後もこうやって襲われることがあるなら、九条さんたちの傍にいた方が安全なのかもしれない、と。