ジャックの日常
「またね、ジャック君」
「ああ、また来週な」
背後から届いた声に軽く返して、俺――柊怜は教室を後にした。ちなみに、今呼ばれた名前はあだ名である。本名とは関連性の欠片も無いこのあだ名は、俺がまだ幼かった頃の行動に由来している。
というのも、俺は小学生の頃、小一ではさみ、小二でカッター、小三でのこぎり、小四で彫刻刀をそれぞれ振り回して怒られたのだ。決まって年に一度、初めて持ってきた日に。
それが転じて刃物男なんて呼ばれたりもし、誰かが切り裂きジャックの話を言い出したところであだ名は決定。呼びやすく覚えやすかった事もあり、すぐに浸透した。以来、高校に入った後も呼ばれ続け、現在に至るわけだ。
それも、今となってはあながち間違ってはいないのだから偶然とは恐ろしい。
とはいえ今はそんなことより、急いで帰ろう。
校舎を出て、曲がりくねった住宅街を抜け、見えてくるのはこじんまりとしたアパートだ。ここが、俺たちの家であり、城である建物。
古びた階段を上り、二階の角に位置する一室の前で立ち止まる。ドアノブを捻れば、何の抵抗もなく開く。無用心だな。いつも言っているのに。
「ただいま」
玄関に入って一声かければ、すぐさまぱたぱたと誰かが駆けて来る。廊下の曲がり角から姿を現したのは、真っ白な長髪を毛先付近で束ねた少女。名前は東雲五十鈴、一つ年下の幼馴染だ。この家には、俺と五十鈴以外の人間はいない。
「お帰り」
挨拶もそこそこに、五十鈴が俺に抱きついてくる。肩に頭を押し当て、ぐりぐりと左右に動かす。帰宅後の恒例行事だ。これを始めたのは、五年前だったか。
俺よりも一回りほど小さい五十鈴の背に手を回して、そのきっかけとなった記憶を思い出す。
恐怖と絶望だけが生まれた。
無意識に腕に力がこもる。それを察知した五十鈴の視線が、俺に突き刺さる。それになんでもないと笑い返しながら、自分を、五十鈴を、慰めるように頭を撫でた。それだけで、俺の胸中に渦巻く黒々とした感情は消えるのだから、案外単純なものだ。いや、五十鈴だからか。一緒に巻き込まれ、一緒に目の当たりにし、一緒に壊れた。依存対象である五十鈴だからなのだろう。
「……じゃあ、入るか」
俺の物思いに懐疑的な視線を向けていた五十鈴に笑いかけ、腕の中から解放する。俺の挙動を逐一確認する五十鈴の後に続いて、居間へと足を運んだ。