執事編
わたしはそんなに信仰心の厚い人間ではない。
しかし周囲の者たちは、非常に信仰心の厚い人間だとわたしの事を思っているようだ。ただ与えられた業務を遂行しているに過ぎないのだが。
元来の業務である神殿の金銭に関する経理業務。そして現在の業務の「巫女付き」
そのどちらも同程度の義務感を持って行っている。しかし周囲はそのようには思っていないようだ。
わたしがお仕えする巫女様は、巫女におなりになられた時より神官たちに侮られていた。
侮蔑を籠めて「お嬢」と呼ばれている。
対する先の巫女たる神官長様は、その出自を由来とし「姫」と呼ばれている。
わたしはそのどちらの呼称も好きではない。
巫女様は巫女様。神官長様は神官長様に過ぎないのだ。
そしていつか巫女様は巫女をお辞めになられる日が来るのだ。その時まで、いかに快適にお過ごしいただくか。それがわたしの使命である。
そう。それでよかったはずなのだ。
私情を捨て、巫女様の為にのみ働く。わたしは巫女付きという役割を与えられた駒に過ぎない。
しかし「鉄仮面」とさえ呼ばれることのあるわたしの心が揺らぐ。
まるで水竜様が乗り移ったかのように思え、神官長様さえも錯覚したあの日。
ふわりと身体から力が抜けて崩れ落ちた巫女様に必死に手を伸ばした。
祭宮様との口論の末、部屋を飛び出したかと思うと声も上げずに泣いていた巫女様。
戸惑うだけで、そのお心を支える事は出来なかった。ハンカチを差し出すという、いわばどうでも良いような行為しか出来なかった。
神官長様と本格的に亀裂の入った仲違い。
その瞬間に立ち会うことの無かったわたしは、その諍いの原因を掴めずに腹立たしさを感じた。
ベールで隠してしまわれた心の内に触れない事こそが、唯一出来ることであった。
大祭の日に暴挙に出た国王。
巫女様の御身を守るのがわたしの使命であったのにも関わらず、全く何も出来なかった。
わたしの未熟さ故、巫女様をお守りするには多くの手が必要になった。
もどかしかった。本来なら我が身を呈してお守りするのが役目。それが叶わない事。そして己の力不足を呪った。
席を外すように言われ、神官長様の命令であったので従った。
今も悔いが残る。
倒れ、眠り続けてしまった巫女様。そして命さえも危ぶまれていた。
何故あの時お傍を離れてしまったのだ。今も自問自答する。それが最善であったのかと。
一度目の奇跡。
水竜様のお力により、巫女様はそのお命を現世に留められた。
それは結果論でしかない。もしもあの場で失われてしまっていたならばと思うと、今なお己の未熟さが歯がゆくて仕方が無い。
その後も幾度と無く倒れられた。礼拝の最中に意識を失われた事もなる。
それでも奥殿へと行かれようとする巫女様を、わたしはお止めするのが最善だと思った。
もう無理はさせてはならない。二度と守りきれない事のないように。
そして水竜様が血の海で倒れていたという巫女様の告白。
水竜様のお声が聴こえないという告白。
巫女様のお力になりたいと常々思っているが、わたし一人の手では追えないと長老に申し出た。手を貸して欲しいと。
そしてわたしの願いは叶えられ、巫女様のお傍には数人の神官が配される事になった。
ただ決定的に違うのは、それらの者はあくまで「兼務」で巫女様にお仕えしている。わたしだけが「専任」の巫女付きであることには変わりなかった。
手を貸して欲しいと願い出たものの、どこか心の中でほっとしてしまったのは、未熟さ故のことだろう。
類稀な方。
水竜様の声を聴くだけでなく、その姿さえ見る者を古来からそう呼ぶ。
ごくごく普通の「お嬢さん」であったはずの巫女様は、想像をはるかに超えた方であったのだと知る。
そして巫女様は更なる奇跡を起こす。
水竜様不在の国は混乱を極めた。
正確には眠っていただけのようではあるのだが、戦乱と天変地異が起こり、人々は翻弄されていた。
神殿という世間から隔離されている場所においても、混乱は徐々に浸食してきた。
そして巫女様は毒を飲まされた。
前日にも巫女様に出された食物に毒が混入されていたというのに、見過ごしてしまった。
ただでなくとも弱ったお身体。更に痛めつけるような事件を事前に気付くことが出来ず、巫女付きとして何も出来ていない自分が情けなくなった。
回復された巫女様は精力的に水竜様の為に動きまわる。
傍でお仕えしている者も、そうでない者も、そのお姿には心を打たれるものがあった。
安静を求められているにも関わらず、お命を縮める事も厭わず、水竜様の為に身を粉にして働くお姿は、少しでもお役に立ちたいと強く感じずにはいられなかった。
そして大祭の奇跡。
本来なら外部の者にそのお声を聞かせてはいけないのが規則。
しかし刃に倒れた神官の血で衣を穢したお姿で、民へと訴える巫女様。
その尊さに、誰もが膝を折らずにはいられなかった。
神々しいとはまさにこの事だろう。水竜様を体現するかのようなお言葉とお姿。
今も思い出しても心が震える。
巫女様の為に、巫女様の為に。
わたしはどれだけの事をしようとしたのだろう。そしてどれだけの事が為せたのだろう。
いや、正確にはわたしを含む「巫女付き」たちは、本当に巫女様のお力になれたのだろうか。
薄暗い部屋の中で、突然巫女様は苦痛に顔を歪めて頭を抱えるようになさった。
そして次の瞬間、頬を染めて走って部屋を飛び出していってしまわれた。
すぐにわかった。
水竜様が目覚められたのだと。
そう、わたしたちは無力なのだ。水竜様の存在の前では。
口惜しさと悔しさと。なんとも表現しがたい醜い気持ちが湧き出してきた。
奇跡の巫女のおこした奇跡。
本来は水竜の神殿の奥深く、奥殿と呼ばれる場所に鎮座されているはずの水竜様を外へと連れ出してしまわれた。
しかも人間の姿で。
巫女付きとして、いついかなる時も巫女様から離れるわけにはいかない。
その思いを神官長様にぶつけたが、追う事は決して許されなかった。
その代わり、外での事は祭宮様が全て手配なさっているという。
本来わたしが守るべき方なのに。
心の中にはどす黒い嫉妬が渦巻いていた。しかし決して悟られぬように、淡々と日々をこなす事だけを心がけた。
主のいない部屋を掃除し、いつお戻りになられてもいいように整える。その虚しさは、筆舌に尽くしがたい。
ようやく巫女様が戻られた。
憔悴しきったお姿で、紅色の竜に連れられて。
巫女様が戻られた事を単純に喜んでばかりはいられなかった。
そのお心が閉ざされてしまっていることは、生気のない瞳が語っていた。
巫女様のお力になりたい。
今度こそ、巫女様をお守りし、お助けしたい。
今日までずっと、その思いを強く持ち、お傍仕えをしてきた。
いや、あと1年。巫女様が巫女様で無くなるその日まで。巫女様のお支えしていかなくては。
神官長様に呼ばれ、執務室を訪ねる。
巫女様は今、紅竜様と共にどこかへ出かけていらっしゃる。
コンコンと扉を叩いて中に入ると、長老と神官長様が共に微笑む。同僚である下僕が、部屋の片隅に控えている。
「執事。忙しい時間に呼び出して、ごめんなさいね」
神官長様が執務用の机の上に両手を重ねたまま言葉を発する。
軽く頭を下げ、一歩二歩と机の前へと近付く。見下ろしたままになってしまうが、この方に折る膝はない。
「いいえ。一通りの作業は終えておりますので、問題ありません」
「そう。手際のいい事ね」
さして興味もないといった顔の神官長様が、ちらりと長老に視線を送る。
「長老から聞きました。あなた、巫女付きを辞めたあと神官を辞めたいと言っていると」
「はい」
巫女様以外の方にお仕えする気は無い。
新しく巫女になられる方には申し訳ないが、その方を敬う気持ちも、崇め奉る気持ちも生まれないだろう。
わたしにとって、巫女とはたった一人。
「神官としてとても優秀なあなたが辞めてしまうのは勿体無いわ。本来の業務でも非常に優秀だと聞いています」
「ありがとうございます」
「ですから、神官を辞めることは許しませんわ」
溜息を飲み込み、それでもなお漏れてしまう吐息を誤魔化すように頭を下げる。
「しかし、わたしにとって巫女様は今巫女様ただお一人。出来れば今巫女様が巫女で無くなられた後もお仕えしたいと考えております」
くすりと神官長様が笑う。
「そうね。巫女は本当に素晴らしい巫女ですものね。あなた以外にもそう思っている者はいるわ。ねえ、長老」
「はい。何人かの神官からそのような申し出を受けております」
その中にはきっと巫女付きの何人かが含まれていることだろう。
あの方のお傍にいればいるほど、何故かお力添えをしたくなる。自分の出来る事は何だろうかと模索してしまう。少しでもお役に立ちたくて。
「けれど、それは許可できません。巫女を辞めた者は市井に戻り、本来の居場所に戻るのです。その場にかつての部下がいるのでは、その人生を全うする障害になります」
ふと頭の中に、巫女様をお迎えに行った日の事が浮かんだ。
小さな村のごちゃごちゃとした店舗。確か食品を扱っていたような気がする。
どこにでもあるような風景の中に紛れ込んでいた巫女様。
今では奇跡の巫女と呼ばれるその方も、ごくごく普通の少女であった。
巫女であった方のもう一つの責務は、後世に血を残す事。子を為し、未来へと希望を紡ぐ事。
本来の巫女様は、一体どのような少女であったのだろう。巫女になられた時点で恋をしておられたのだろうか。使命の為にそれをお捨てになられたのだろうか。
これからどんな恋をして、そしてどんな人生を送るのであろうか。
奇跡の巫女として伝聞されて語り継がれていくお姿からは想像もつかないような、ありふれた一生を送られるのだろうか。
それが巫女様にとって幸せな生涯であるのなら、わたしなどがお傍にいてもお邪魔になるだけかもしれない。
「わかりました。しかし、わたしは次代様を含めたこの先の巫女様たちにお仕えする事は出来ません。巫女様に頭を垂れることの出来ない神官など、神官にいてはならないと考えます。ですので、神官職を辞したいと思います」
長老の眉根に皺が寄る。
神官長様と長老はお互いに顔を見合わせる。
「では、水竜の神殿にお行きなさい。最後の水竜の巫女が必死で守ったものを、あなたが代わりに守り続けなさい」
何があっても、神官を辞めることは許されないらしい。
確かに神官を辞めたいというのは自己満足に過ぎない。巫女様のいない神殿には何の魅力も感じないから辞めたいなど、職を辞す理由として受け入れられるものではないだろう」
「次に水竜様が目覚めるのは、きっとずーっと先の未来。わたくしたちの短い生の間に、再び水竜の巫女が現れる事は無いでしょう。ですので、水竜様をお守りする為に働いて下さい」
何と言っても、受け入れられぬか。
「かしこまりました」
それ以上の反論の余地は無い。
これはわたし個人の感情の問題なのだから。
一礼をすると満足されたのか、神官長様の表情が柔らかくなる。
「良かったわ。優秀な神官を失うのは、神殿にとって大打撃ですもの。とても優秀な神官だと長老からも聞いています」
「ありがとうございます」
そうだろうか。わたしが神官として、巫女付きとして、何か為せただろうか。むしろ何も出来なかったのではないだろうか。
ただお傍にいる。それさえも出来ず、幾度となく巫女様のお命を危険に晒してきたというのに。
しかし、そのような胸中は他人に知られるべきものではない。
神官長様と長老に深く一礼をし、執務室を出るべく踵を返す。
「失礼致します」
そう言って背を向けて歩き出した時、背後から声が掛かる。
「これはわたくしの勘だから外れるかもしれませんけれど」
振り返り神官長様の顔を見ると、にっこりと目を細めて笑っていらっしゃる。
「あなたはいつかまた必要とされるわ。だから、それまでちゃんと残っていてあげなさい」
謎掛けのような言葉の意味を理解する事は出来ない。
いつかまた必要とされる? 一体誰に。何の為に。
「あなたが仕える巫女は、運命を動かす人だから」
全くもって意味がわからない。
偏向かもしれないが、女性とは理知的でない言葉を口にする事が多い。理路整然としたものではない、理解しがたい言葉を投げかけてくる。巫女様も、なのだが。
これが女官であったりするのならば、一から説明を求める場面だ。しかし聞き返す事は失礼に値する。
「失礼致します」
もう一度そう言い、執務室を後にする。
窓の外に、空を舞う紅色の竜が見える。巫女様がお戻りになられたようだ。
急いで戻ってお茶の準備や、替えのお召し物の準備などもせねば。
カツカツと踵を鳴らし、早足で廊下を突き当たりまで突き進む。
巫女様だけが使う事を許された部屋。
わたしがお仕えする「奇跡の巫女」が戻るまでに、万全の体制を整え、そして何一つ不自由な思いをされることなくお過ごしいただかなくては。
あと1年。
残された時間はあと僅か。わたしに出来る最善を尽くそう。