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神官長編

 いつものように書類に目を通していると、一瞬視界が暗くなり、そして元に戻る。

 目眩かしら。

 そう思ってこめかみを押さえたけれど、そういうわけでもないみたい。

 空に何かあったのかしら。

 水竜様と巫女が不在の今、何かあったら対処しなくてはいけないのはわたくし。

 執務用の机から立ち上がり、奥殿の見えるほうの窓辺へと歩みを進める。

 真っ先に視界の中に、巨大な影が横切るのが見える。

 あれは一体……。

 窓を開け放ち、空中で円を描いているモノを見上げる。

「どうなさいましたか」

 下僕と呼ばれているわたくしの神官が、三歩背後から声を掛けるので振り返る。

「空をご覧になって。あれは一体なんなのかしら」

 下僕は失礼しますと一礼をしてから、同じように窓辺に立つ。

 並んで見上げるその物体は、生き物であるという認識しか出来ない。下僕も不思議そうな顔をして見上げている。

「何かを咥えていますね」

 たまたま低空で横切った時に下僕が呟く。

 咥えているなんて、全然気付かなかったわ。

「足のところ!」

 叫び声を上げた下僕の指差す先に目を向け、そして外へと勢いよく走り出す。

 走るなんて、わたくしの性分ではありませんのに。

 はぁはぁという息遣いが耳障りで、でも足を止めようとは思えずに一生懸命下僕の背を追う。

 たまに振り返り立ち止まる下僕に頷き返すと、下僕はまた早足で前へ前へと進んでいく。

 外からの進入を拒む迷宮が、却ってこういう時には不便ね。いいえ、こんな事何度もあっても困りますわ。

 幾度も道を折れながら進み、ついには水竜の神殿の正門のところへと辿り着く。

 正直なところ、ここで倒れこみたいくらいですわ。

 けれど、わたくしの為すべきことはここから。

 他にもこの巨大な生き物の存在に気付いた神官たちがわらわらと正門のところへ集まってくる。

 門の向こうには巡礼者たちの姿も見える。

「門を厳重に」

 決して外には見せられないものが、これからここに降りてくるのですから。

 空を見上げると、どんどんと生き物は形を鮮明に大きくしていく。

 集まるわたくしたちに気が付いたようで、ゆっくりと巨大な翼を羽ばたかせながら降りてくる。

 蜥蜴のようなその姿に、翼が生えている奇妙さに小首を傾げるのと、生き物が大地に降り立つのがほぼ同じ。

 中央に立つわたくしの前に、その生き物は重さを感じない軽やかさで足を下ろし、座り込む。

「巫女様」

 横を数人の神官たちが通り過ぎていく。

 巫女付きたちが一斉に飛び出し、そして外には決して見せられない姿のやつれきった表情の巫女の下へと駆け寄る。

 今は巫女のことは巫女付きたちに任せておけばよい。わたくしの為すべきことは、目の前の生き物と対峙する事。

 奇妙なその姿に不思議と恐怖は感じず、赤よりももっと紅い色の瞳の中を覗き込む。

「あなたが巫女を助けてくださったの」

 問いかけに答えるように生き物は短い咆哮を上げる。

 人の言う事がわかるのね。利口な生き物だわ。なかなか犬や猫でも意思の疎通が難しいのに、巨大な爬虫類のような姿をしているけれど、知能はそれより上ということかしら。

「ありがとうございます。感謝致しますわ」

 まるでニヤリと笑うかのような表情を見せ、咥えていたものを大地に下ろし、ポンと手のところにしがみ付くようにしている巫女背を尻尾で押す。

 不安そうな瞳を向ける巫女に微笑みかけ、突風と共に大空へと舞い上がる。

 残されたわたくしたちは、その姿が消えるまでずっとずっと目で追い続けていた。


 一体何があったのか。全てを知る巫女は憔悴しきっていて、会うことさえ難しい。

 しょうがない事とはいえ、巫女付きたちにはまるで信頼をされていないので面会の希望を伝えても、けんもほろろといった状態で断られてしまう。

 それとなく長老にも取り成してくれるよう伝えたけれど、どのように伝わっているのか定かではない。

 わたくしがこの神殿の長なのに。

 そう声を張り上げるような無様な真似が出来るはずも無く、その時が来るのを待ち続ける。

 どうやったら巫女は、巫女付きたちはわたくしに心を開いてくれるのかしら。

 大祭の悲劇を起こしてしまったわたくしを、きっと神官たちは赦してくれないのでしょうね。いつまでも。

 今のわたくしに出来る事といえば、王都に文を送る事くらい。

 巫女が戻りましたと祭宮殿下にお伝えする為に。

 何故あの日、祭宮殿下はわたくしたちに追うなとおっしゃったのかしら。

 あの時に追っていたならば、このように巫女が憔悴して戻ってくることも、それ以前に巫女の不在といった馬鹿げた事態を引き起こす事も無かったのに。

 その間、どんなに不安な時をわたくしたちが過ごしてきたのか、祭宮殿下にはお分かりにはならないのでしょうね。

 水竜様と巫女あっての神殿だという事を、外の人たちは軽々しく考えていらっしゃる。

 神殿も神官も、水竜様と巫女を守る為に作られたものだという事を、中にいなくてはお分かりにはなって頂けないのかしら。だとしたら、どうやってお伝えしたらいいのかしら。

 それに空から飛来した巫女を連れ戻ってくれた生き物。あれについても色々、巫女とも祭宮殿下ともお話しなくては。けれどその両者共に今は会うことは叶わない。

 ならば、わたくしの出来る事は何なのかしら。

 巫女と比べたら、わたくしはずっと流されて生きてきたように思える時がある。

 今こそ為すべきことをすべく、動く時なのではないのかしら。


 翌日から巫女は精力的に神殿の行事をこなしていく。

 表情は暗く、そして身体的にもかなり厳しい状況であろうという事は傍から見ていてもわかる位なのに、何も言わず、弁明すらせず、黙々と巫女としての日々をこなしていく。

 神殿を留守にしている間に彼女に一体何があったのか。

 恐らくは望むような結果は得られなかったのではという結論に容易に辿り着く。

 幸せそうであったとおもう。

 どんなに得たいと願い続けても得る事の出来なかった、わたくしにとって最愛の方を手に入れて。

 まるで恋人同士のように肩を並べ、手を取り合い、そして微笑みあう。

 わたくしが心の底から欲していて、決して手に入らないと諦めたもの。その全てを巫女は手に入れてしまった。羨ましいかと問われたら、羨ましいと答えたでしょうね。

 本当は胸が苦しくて張り裂けんばかりで、どうしてわたくしではダメなのかと泣き叫んで聞きたいくらいだった。

 その場所にいるのが自分ではない事実。

 何故わたくしではダメだったのか。その答えもまた巫女が知っている気がしている。

 互いに零れんばかりの笑みを讃えていた幸福の絶頂の瞬間を目の当たりにしたのに、戻ってきた巫女の姿は打ちひしがれ、至幸の瞬間を手に入れたというには程遠い。

 失ったのであろうという事は、何も聞かずともわかる。

 巫女の瞳の中が、礼拝の最中などに縋るような色をなす事がある。

 きっと水竜様は神殿に戻ってきている。

 そうでなくては巫女が戻ってくる理由が無い。

 巫女は全てを捨てたのだもの。己の責務を放棄し、たった一人と共にいるために。

 彼女を責めるような風潮が無いわけではない。けれどそれを押さえ込むように巫女派と呼ばれる神官たちの人数は多い。

 奇跡の巫女。

 いつからか彼女がそう呼ばれるようになり、今度の騒動もまた「奇跡の巫女」が奇跡を上塗りしたのだと評価されているむきもある。

 ただの冴えない普通の少女だったはずなのに。彼女を変えたのは何だったのかしら。

 わたくしには全くわからないことばかり。

 神官長という肩書きを持ち、全権を委任されているというのに、まるで飾りものでしかないようだわ。

 嘆息を漏らしていると、祭宮殿下が到着したという報告を受ける。

 もう一度鏡の中の自分を覗き込み、化粧というなの武装をした自分に隙が無いか確かめる。


「もう一頭の竜?」

 巫女の報告に、祭宮殿下が驚きの声を上げる。

 あれが竜という生き物なのね。

 あの日に見た巨大な生き物の姿を脳裏に思い浮かべる。翼を持つ蜥蜴。

 わたくしの愛したあの方の真の姿も、あの生き物と同じ姿をしていらっしゃるのだろうか。声しか聴いた事の無い相手なので、どうにもあのような姿と声が結びつかない。

 たった一度だけ見たあの方のお姿も、巫女が人間として具現化した姿だというし、本来のお姿とは程遠いものなのでしょうね。

「お会いになられますか。祭宮様」

 巫女の虚ろな瞳が投げかけられ、祭宮殿下は一瞬顔を曇らせる。けれどその一瞬にはわたくし以外は気が付いてはいないでしょうね。多くの視線は巫女に一斉に向けられているのですもの。

「呼びましょうか」

 もっと直接的な言い方をして、巫女が目を閉じる。

 何かを口の中で唱えるようにし、しばらくしてから瞳を窓の外へと向ける。

「きっとすぐに来ますよ」

 巫女が立ち上がり、窓の外を眺めるように立つ。

 とんでもない事を為しているというのに、どこかその背は頼りなく儚い。拠りどころを無くしてしまった不安定さが伝わってくる。

 水竜様の座す場所に戻ってきたというのに、巫女は何故そんなにも哀しげにしているのか、愛しい方を独り占めしているというのに、どうして悲嘆にくれているのだろう。

 つかの間の緊張の後、空にはあの時と同じような黒い影が横切る。

 来たのだわ。もう一頭の竜が。

「神官長様。紅竜のところへ行きたいのですが」

 竜に目を奪われていて、咄嗟に返答出来ずにいると、祭宮殿下が口を挟む。

「あのような巨大なもの、どこに降り立つ事も難しいのでは」

「一度正門のところに降りた事があります。あそこなら大丈夫だと思います」

 恐らく想定していたのだろう。巫女が淡々と答え、神官たちに目を向ける。視線の先にいる長老がこくりと首を縦に降る。既に打ち合わせ済みということかしら。

 蔑ろにされている苛立ちを押さえ、今のを見なかったことにして意図的に眉をひそめる。

「しかし巫女、これより先の場所には巫女は出てはなら無いのが規則。覆すわけには参りませんわ」

 咎めたつもりなのに、巫女はうっすらと口元に笑みを浮かべる。

 何故。何故あなたはそんな表情を浮かべるの。

「ではあとは礼拝堂の前か奥殿しかありませんが」

 そのどちらも不可能であるという事を知っていて、あなたはそんな提案をするのね、巫女。

 助け舟を出したのは祭宮殿下。思わずギリっと奥歯を噛み締めてしまう。

 何故皆、巫女の味方をなさるの。

「正門のところなら今は近衛たちも降りますし、厳重な警備をする事も可能です。巫女様のお姿を外部の者に見せる事も無いでしょう。いかがですか」

 否とは言えない雰囲気と、空より飛来した竜の姿に諦めの溜息をつく。

「仕方ありませんわね。正門の向こう側は祭宮殿下にお任せいたしますわ。こちら側はこちら側で警備の者で外部からの視線が入り込まないように致しますわ」

 視線をわたくしの神官に向けると、一礼をして部屋の外へと姿を消す。

 その後を巫女付きの一人が追い、二度扉の開閉する音がする。

 視線はおのずと外を優雅に飛ぶ竜へと向けられる。

「あれの声も聴こえるのですか」

 問いかける祭宮様にこくりと頷き返し、巫女が外の竜へと視線を動かす。

「聴こえます」

 奇跡の巫女の奇跡は、本当に計り知れないわ。


 警備を固め、先に祭宮殿下それからわたくしたちが外へと出ると、空から一部始終を見ていた竜が門を背に降り立つ。

 その巨大な体が、外からの視線を遮る効果をもたらしている。

 皆が一様に凍りつく中、巫女だけが真っ直ぐに竜の傍へと歩いていく。

「来てくれてありがとう」

 頭を垂れた竜が、ベロリと巫女の頬を舌で舐めまわす。

 ぞくっとする光景なのに、巫女はどこと無く楽しそうに微笑んでいる。やっと、巫女の目に生気が戻ったような気がする。ずっと戻ってきてから傀儡のような表情をしていたというのに。

 竜と額をあわせ、巫女は目を瞑ったままでいる。

 何をしているのだろう。一人と一頭の光景に目が離せない。

 やがて身を離し、巫女は人間たちと対峙する。その姿には力と意思が漲っている。

「ここにいるのは、紅竜。炎の山に住まう炎の竜です」

 よく通る声。

 凛とした張りのある声が、まるでいつかの大祭の時のように響き渡る。

「水の世紀は終わり、炎の世紀が来る。水竜は長い眠りにつきます」

 水竜様が、何ですって?

「祭宮様。紅竜の願い、聞き届けていただけますか」

 横に立つ祭宮殿下の顔を窺うと、にっこりと笑みを浮かべている。いつものようにわたくしの良く知る王子の笑顔を。

「私に出来うる事なら、巫女様」

 返答に満足したのか、巫女は祭宮殿下に負けず劣らずの笑顔を浮かべる。

「まず第一に、紅竜の住処である炎を噴き上げた山。この近辺へと立ち入りを禁じます」

「わかった。その約束は守ろう」

 竜と人との契約。

 太古の昔に交わされた、水竜と始まりの巫女と建国王によって為された契約。

 わたくしはきっと、新しい歴史の現場に立ち会っているのだわ。

「他に望みは? 紅竜の巫女」

 水竜の巫女ではなく、祭宮様は紅竜の巫女とお呼びになる。

 そう呼びかけられても、巫女はたじろがない。首を捻り、紅竜へと何かを囁きかける。

 囁きに答えるように、紅竜は咆哮を上げる。

 竜の咆哮は、全てを圧倒するような力を持っているようで、神官たちはぱたぱたと膝を折り始める。

 その中でわたくしと祭宮殿下と巫女だけが、立ったまま契約の瞬間に臨んでいる。

「紅竜は水竜のシステムの全てを継承します。その代わりに、紅竜を讃える神殿を」

「ああ。わかった。早急に手配しよう」

 にっこりと微笑み、巫女は紅竜を仰ぎ見る。どうやら回答に満足したようだ。

 小さく「がう」とでも言うような声を上げた紅竜は、むんずと前足で巫女の服の裾を手繰り寄せ、その足の上に巫女を乗せる。

「ちょっと。いきなり何するの」

 巫女の問いに返答は無く、一気に空へと竜は舞い上がる。

 残されたわたくしたちは呆然とその光景を眺め、間抜け面で空を見上げる。

「いなくなったかと思ったら、とんでもないお土産をお持ち帰りになられたようで」

 くすくすと笑う祭宮殿下はどことなく楽しそうになさっている。

 これが笑える光景とは、わたくしには到底思えませんわ。

 また巫女がいなくなってしまったではありませんか。

 病的ではない頭痛を感じ、思わず額に指をあてる。

「奇跡の巫女の奇跡はどこまで続くのかしら」

「さあて。ただ私たちが想像するよりもずっと、巫女は竜たちに愛されているのでしょうね」

 見上げた空には、もう竜の姿はどこにも見えない。

 膝をついていた神官たちも立ち上がり、お互いに何やら話し合っているよう。

 この尋常ではない光景を、ただ受け止めるということすら難しい。常識が理解する事を邪魔してしまう。

「国中で飛来する竜がそのうち見られるようになるのでしょうかね。それはそれで楽しみだ」

 楽しみですって。

 どこまで暢気になさっているというの。それよりも紅竜のことを国中に周知したり、新たな神殿建設など問題は山積でしょうに。

「水竜の巫女に紅竜の巫女。二つ名をお持ちの巫女は、これから二頭の竜とどうやって暮らしていくおつもりなのでしょうね」

 二頭の竜、二つの神殿。

 巫女だけではなく、わたくしたちもこれからどうやって暮らしていけばいいのかしら。

 今日この瞬間から二頭の竜が、わたくしたちの崇め奉る相手になって。


 水竜の大祭と同時に紅竜の大祭を行う。

 どちらにも優劣はつけないというのが、まずは導き出した答え。

 神殿のない紅竜の為の大祭は、水竜の為の礼拝には青を、紅竜のための礼拝には赤をという衣装を変えるところから取り組み、礼拝堂の祭壇には二頭の竜への供物を捧げた。

 巫女も、大祭に参列する神官たちも着替えだけでも大変であったと思う。わたくしも日に何度も着替えを余儀なくされ、来年からの大祭について色々問題点の精査をする必要性を感じざるを得ない。

 そして紅竜の神殿が出来た時に、どうするのか。

 巫女はこのまま水竜の神殿に残るのでしょうけれど、紅竜の神殿を無人にするというわけにもいかないし、そちらで大祭を行わないわけにもいかない。

 かなり距離の離れた場所にある二つの神殿のやりくりは、かなり難しい問題を孕んでいる。

 大祭の最終日、神官たちには振る舞い酒が出され、神殿の中はお祭りムード一色になっている。

 普段は早い神官たちの夜も、今日ばかりはいつまでも終わる事が無いようにも見える。

 何故かわたくし自身も興奮が冷め遣らず、執務服を着たままだったので、そのまま礼拝堂へと足を向ける。気持ちを落ち着かせようと思うのと、この先の問題を熟考するのに相応しい場所はそこしかないと思えるので。

 ほろよい加減の神官たちに軽く挨拶をしつつ、礼拝堂の前へと辿り着く。

 誰もいないであろうと思っていたのに、神妙な顔つきの巫女付きたちが扉の前に立ち尽くしている。

 誰一人、酔っている者はいない。

「どうなさいましたの」

 問いかけに、巫女付き筆頭の神官が暗い顔つきを更に曇らせる。

 視線を他の神官に巡らせ、誰もが言いにくそうに言い淀む。それだけで答えはわかったようなもの。

「巫女がいるのね」

 扉に手を掛けようとすると、遮るように扉の前に筆頭神官が立つ。

「申し訳ございませんが」

 頑なともいえる態度に、軽い苛立ちを覚える。

「何故あなたが拒むのかしら。拒む権利など持ってないでしょう」

 わたくしがこの神殿で神官たちを束ねる長よ。今までも十二分に彼らには巫女のことではやんわりとした拒絶を受けてきたけれど、表立って反抗するとはどういうことかしら。

 気色ばむわたくしを見て、神官は頭を垂れる。

「申し訳ございません。巫女様をお守りするのが我々の役目でございます」

 わたくしが巫女に何らかの害悪をもたらすとでも?

 ぎりっと奥歯を噛み締め、そしてこちらを見ようともしない神官たちに視線を走らす。

「わたくしは神官長よ。巫女を守るのがあなた方の役目だとするなら、巫女を支えるのがわたくしの役目よ。お退きなさい」

 神官たちは互いの顔を見合わせ溜息をつき、そしてゆっくりと扉の前から離れる。

「……どうぞ。神官長様」

 神官たちを横目で見、そして扉を開く。

「どうしてぇ。どうしてなの」

 泣き叫ぶような声が扉を開けた瞬間に耳に届き、咄嗟に一番傍にいた筆頭神官に目を向ける。

 目を伏せたまま、神官は沈痛な面持ちをしている。

 一体、何があったというの。

 後に続こうとする神官たちを押し止め、蝋燭の僅かな光があるだけの暗い礼拝堂の中へと足を踏み入れる。

 こちらの事には気が付かない様子で、巫女は祭壇の前で天を仰ぎ泣き喚いている。

「レツっ。レツっ。どこにいっちゃったの。どうして声が聴こえないの。どうして、何でなのよ」

 レツ。巫女は水竜様のことをそう呼ぶ。

 愛しいものを呼ぶように。

 そのレツの声が聴こえないということ、即ち水竜様のお声が聴こえないという事。

 咄嗟に祭壇の傍へと駆け寄り、号泣する巫女の肩を抱く。

 自分も体験した事のある光景と重なって、考えるよりも先に身体が動いていた。

 びくっと肩を揺らした巫女が振り返り、大粒の瞳を両目から零す。

「し、しんかん、ちょうさ、ま」

 ひっくひっくとしゃくり声を上げ、信じられないものでも見たかのような顔をする。

「どうしたというの」

 愚問だとわかっているのにも聞かずにはいられない。

 けれど、答えは無く嗚咽だけが薄暗い礼拝堂の中に響き渡る。

 ずっとずっと泣き続けているのではないかと思うほどの長い時間、腕の中の巫女の背中を撫で続ける。

 かつてわたくし自身が味わった喪失感。

 それと同じものを巫女が体験しているように思え、どんな言葉もその喪失感を埋めてくれない事を知っているから。そして、誰かの温もりが多少なりとも心を慰めてくれる事も。

 泣きじゃくっていた巫女が居住まいを正し、くすんくすんと鼻を鳴らしながらポツリポツリと口を開く。

「まだお話していない事があります」

 真っ赤に腫らした目で、巫女が見つめてくるので正面から受け止め、なるべく穏やかな表情を浮かべるように心がける。

 巫女から何かをわたくしに働きかける事など皆無に等しい。

 いつからか拗れてしまったわたくしたちの関係は、こんな時にすら一線を引く事を巫女に強要している。

「もう、水竜は眠りにつかれてしまったようです」

 言いながら、一度は止まったかのように見えた涙をポロポロと流す。

 その涙を拭くように持っていたハンカチを渡すと、ぺこっと頭を下げる。

「本当は戻った時からあまり聴こえなくなっていたんです。鮮明な声が聴こえることはありませんでした」

 はっと息を呑んでしまい、慌てて取り繕うように口元を押さえる。

「もっと早く眠るはずだったんです。本来ならこの神殿を出る前に眠っていたかもしれないのかもしれません」

「本来ならというのは、あなたが奇跡を起こしたから少し長くなったということかしら」

 奇跡という言葉に巫女が顔を歪める。

「私は奇跡なんて起こしていません。ただ、ずっと一緒にいたかった。それだけなんです」

 ずきりと胸が痛む。

 わたくしも、ずっと一緒にいたかったのよ。あの方と。

「あなたは願いが叶ったではありませんか。二人きりの一時を過ごせたのですから」

 嫌味が口をついて出てきてしまい、自分の醜さに嫌気がさす。こんな事を今言いたいわけではないのに。今言う必要など無いのに。

「そうですね。二人で外の世界を見られたのだから、それ以上望むのは贅沢かもしれませんね」

 顔を曇らせ、そして祭壇を仰ぎ見る。

「大祭ならもう一度声が聴こえるかなって、ずっと思っていたんです。別れてしまった後、それだけを頼りにしてきたのに」

 静かに涙を流し、そして幾度も涙を拭う巫女を見つめる。

 不思議と、以前に感じていた憎さや嫉妬は感じない。彼女が失ってしまったからなのかもしれないけれど。

「あなたは水竜様に恋をされていたのね。わたくしと同じように」

 驚きの表情をする巫女に笑いかける。

「わたくしは巫女になった日から、お優しいお言葉を掛けてくださる水竜様に惹かれたわ。声しか聴こえない相手だと笑うかしら」

「いいえ」

「ずっとずっと、巫女を辞めてからもずっとあの方だけを愛していたの。婚約者がいるというのに」

「婚約者、ですか」

「ええ、そうよ。わたくしには生まれた時から婚約者がいるの。あなたも知っている人よ」

「祭宮様のことでしょうか」

「そう。婚約者といっても形だけのものでしょうけれどね。わたくしにとっても、あの方にとっても」

 瞳を曇らせ、巫女が視線を背ける。巫女が何を思い、何を考えているのかわからないけれど、伝えたい事がある。

「あなたの心の痛み、わたくしには痛いほどわかります。わたくしたちは、二度と手に入らないものを永遠に追い続けるのかしら」

 その瞬間、巫女の表情が歪む。

「至福の時を過ごしてしまい、心は捕らわれたまま己の想いから逃げる事も出来ず。ただあの瞬間をもう一度と願い続けているのよ、わたくしは。愚かでしょう」

「いいえ、いいえ」

 床に手を着き、巫女がまた声を上げて泣き出してしまう。

 その肩に両手を置き、巫女の顔を見つめる。何故かわたくしの視界も霞が掛かったようになってしまう。

「泣きたいなら泣きなさい。あなたの心の痛み、わたくしが受け止めましょう」

 腕の中に巫女を抱きしめ、いつか自分も神官長と呼ばれた老婆の腕の中で泣きじゃくった事を思い出す。

 愛しい人。

 老婆はそう、水竜様のことを呼んでいた。

 水竜に心を捕らわれた者の末路よと老婆は笑ったけれど、それを笑う事なんて出来ない。わたくしもまた、水竜に心を捕らわれた者。

 一生分の恋をしたと言うと、老婆は苦笑いを浮かべた。

 きっと、巫女もそうなのだろう。

 失いながらも、ここに居続け祈り続けなくてはいけない苦痛を少しでも和らげてあげたい。わたくしが感じていた苦痛を、彼女にも味合わせたいとは思わない。

 きっと地獄のような日々だろう。

 神殿の中にいる限り、ずっと聴こえない声を追い求め続けるのだろう。そして落胆し続ける。

 そんな哀しいだけの日々に、彼女まで堕ちていくのを見たくはない。

 いつか彼女が巫女を辞める日まで、少しでも心穏やかに過ごせるように、わたくしには何が出来るのかしら。

 まずは美味しいお菓子とお茶を用意して、心をほぐす事から始めてみようかしら。

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