第63話:【残滓】虚無の漂着物と、凍てついた慈悲
いつも『聖女監禁録』への深い没入をありがとうございます!
第6章の「再構築」編はさらなる深淵へと足を踏み入れました。
第63話では、すべてが消え去ったはずの二人だけの新世界に、思いもよらない「過去の遺物」が漂着します。
ゼノス様によって感覚を上書きされ、人形のような安寧の中にいたエルサ。
その空っぽになったはずの心に、かつての聖女としての記憶が、残酷な「刺激」として突き刺さります。
「……これは、何? ……どうして、胸の奥が、こんなに痛いのですか?」
徹底的な「心理的侵食」と、それを見つめるゼノス皇帝の冷徹な試練。
救済と絶望が表裏一体となった第6章の加速を、どうぞお見届けください。
ゼノス様が支配する新世界において、過去はすべて泥の底に沈んだはずだった。
しかし、彼の気まぐれか、あるいは残酷な試練か。
漆黒の宮殿の床に転がされたその「銀のロザリオ」は、かつての私が誰よりも大切にしていた聖遺物そのものだった。
私は、ゼノス様の膝の上で、その汚れた金属の塊を冷めた目で見つめていた。
かつての私なら、このロザリオに刻まれた小さな傷一つにさえ、人々の祈りの重みを感じて涙しただろう。
だが、五感を去勢され、感情のすべてをゼノス皇帝への服従に振り向けられた今の私にとって、それはただの「不浄なゴミ」に過ぎなかった。
「……ゼノス様。……何故、このような……醜いものを、ここに? ……私の視界が、汚れてしまいますわ」
私の声には、一片の慈悲も混じっていなかった。
聖女であった頃の記憶は、今の私には「自分を縛り付けていた忌々しい足枷」のように感じられる。
彼という唯一の太陽に照らされる今の悦びに比べれば、神への祈りなど、湿った地下室で囁かれる無意味な独り言と同義だった。
ゼノス様は、私の細い腰を引き寄せ、その耳元で昏く、愉悦に満ちた声を響かせた。
「ほう、ゴミか。……お前はこの十字架を握りしめ、かつて俺に『救われてください』と涙を流した。あの時の、お前の哀れで愛おしい献身を、もう忘れたというのか?」
「……忘れたいのでは、ありません。……最初から、無意味だったのです。……あなたという真実を前にして、神の救いなど……。……そんなものは、欺瞞ですわ」
私は自分の言葉に、歪な快感さえ覚えていた。
かつての自分を否定すればするほど、ゼノス様という存在が私の中で巨大な絶対性を帯びていく。
その依存の深化こそが、今の私にとっての唯一の呼吸法だった。
ゼノス様が、泥にまみれたロザリオを指先で弾いた。
銀の鎖がジャラリと音を立て、そこから微かな、だが鋭い「祈りの光」が放たれる。
その瞬間、私の頭蓋の奥で、激しい火花が散った。
「あ……っ、……うあ、あああ……っ!」
激痛。
それは、上書きされたはずの神経のさらに奥底、魂の最深部に眠っていた「エルサ」の残滓が、光に反応して暴れ出したような痛みだった。
脳裏を、幾千もの民の声がよぎる。
『聖女様、助けてください』『エルサ様、あなただけが光だ』
それらの声が、ゼノス様の魔力で満たされた私の精神を、内側から引き裂こうとする。
「どうした、エルサ。……身体が震えているぞ。……この光を、お前の魂はまだ『美しい』と覚えているのか?」
「……ちがい、ます……! ……これは、……痛い、……っ。……やめてください、ゼノス様……。……私を、これ以上……汚さないで……っ」
私は必死に、彼の胸板に顔を押し付けた。
その光に触れれば、自分が積み上げてきた「彼への服従」という名の安寧が、砂の城のように崩れてしまう。それが何よりも恐ろしかった。
聖女に戻ることは、即ち、彼を愛したまま死ぬことでも、救うことでもない。
彼以外の「正しさ」を認めてしまうという、私にとって最大の裏切りを意味していた。
ゼノス様は、私の苦悶する様をじっくりと観察した後、おもむろにそのロザリオを掴み取った。
かつて私が幾千の祈りを捧げたその銀の十字架を、彼はゴミでも扱うかのような無造作な手つきで、私の目の前へと突きつける。
「これがお前の守りたかったものか? この程度の輝きに、お前の魂はまだ揺らぐというのか。……ならば、俺がその未練ごと、永遠の闇に葬ってやる」
彼が指先に力を込めると、聖なる力を宿していたはずの銀の装飾は、逃げ場のない圧力に悲鳴を上げるように軋んだ。
「ああ……っ、……あ……!」
不思議なことに、ロザリオが壊される音に合わせて、私の胸の奥にこびりついていた「かつての自分」の破片が、一つ、また一つと砕け散っていく感覚があった。
それは救いなどではなく、私の魂を構成していた最後の足場を叩き壊されるような、絶望的な喪失感。
ひしゃげた銀の十字架は、ゼノス様の黒い魔力に侵食され、やがてドロドロとした不浄な液体へと変質していった。
彼はそれを、宮殿の床に広がる虚無の深淵へと投げ捨てる。
音もなく闇に消えていく聖遺物。それは、私が「人間」として、あるいは「聖女」として生きてきたすべての歴史が、この新世界から完全に抹消された瞬間だった。
「……安心しろ、エルサ。お前の世界に、俺以外の『正義』は二度と立ち入らせん。……この痛みも、かつての残響も、すべて俺が飲み込んでやる。お前はただ、俺の支配という名の安寧の中で、呼吸をしていればいい」
彼が私の唇を塞ぎ、濃厚な魔力を流し込む。
先ほどまで頭蓋を割るように響いていた民の声は、今や遠い海の底に沈んだ石のように静まり返っていた。
光が消え、再び訪れた完全な漆黒。
私は、震える指先でゼノス様の服を掴み、その胸の中に、自らのすべてを埋葬するように顔を押し付けた。
「……あ、あ……。……ありがとうございます、ゼノス様。……私は、……私には、あなた以外……何も見えなくていいのです……」
その言葉とともに、私の瞳から最後の光の残滓が消えた。
ロザリオが沈んだ虚無の底。
そこには、もう二度と拾い上げられることのない、死んだ聖女の残骸が積み重なっていた。
第63話の完結部、お読みいただきありがとうございました。
かつての自分を象徴するロザリオが、ゼノス様の指先で「不浄な液体」へと変えられ、虚無に消えていく。その光景は、エルサにとっての完全な「過去の葬礼」でした。
聖女が自らの手で(あるいは王の手によって)過去を切り捨てる瞬間の残酷さを描きました。
聖遺物が壊される音と、エルサの精神が壊れる音の共鳴。その退廃的な美しさを感じていただけたでしょうか。
「過去が完全に消える瞬間にゾクゾクした!」「ゼノス様の慈悲深き独占がたまらない!」と思われましたら、ぜひ【★評価】や【ブックマーク】で応援をいただけますと幸いです!
次回、第64話。
ゼノス様は、エルサの中に残った「光の空白」を完全に埋め尽くすため、ある『狂儀』を執り行います。
魂の深奥までを彼の刻印で塗り潰す、最終段階の再構築とは。




