09. 謁見
気がつけば、あの男との再会から数週が経過していた。
図書室へ行くことの許可は出されたものの、未だに一度も本を選びに行けていない。
『よろしいのですか? せっかく許可が下りたのに』
「そうね……もう暫くしたら行くから」
ベルタにはそう言ったが、ビビアナの気は中々変わらなかった。役に立つかどうかに関わらず、本は面白い。しかし城内へ向かえばまたあの男とすれ違うかもしれないと思うと、本を借りるつもりには到底なれなかったのだ。代わりにレースを編んだり授業の時間を増やしてもらい、無理にでも予定を詰めていた。
そんなある日の早朝。大人たちの顔色を伺い続ける日々の中で、その日は何もかもが違っていた。
瞼がすっと上がり、瞬間に鼓膜が刺激される。何事かと思えば、雨が降っていた。微かに湿った土の香りがする。
しかし、騒がしいのはそれだけではなかった。
「……外は忙しそうですね」
「そうでしょうか。フロレンツィアがお気になさるようなことではありませんよ」
扉の外で飛び交う声に足音を不審に思えば、侍女は首を傾げて、何も不思議なことではないと語る。嘘を吐いているようには見えなかったので、その時は彼女に従い、気にしない振りをした。
しかし事態が動いたのは、朝食を取った後。書物を用意し、コリンナの授業が始まるという時刻だった。
こんこんこんとノック。
「どなたでしょう」
そうコリンナが尋ねると、扉の外から淡々とした声が響く。
「陛下の命により参りました。フロレンツィア様にお届けしたいものがございます」
それを聞いたコリンナは慌てて「どうぞ、お入りください」と自ら扉を開いてみせる。自らの師である彼女のこのような姿を、ビビアナは初めて見た。
そして、先程の「陛下」という言葉。
扉の向こう側から現れたのは、印象の薄い中肉中背の茶髪の男だった。何事かと思い立ち上がると、彼はビビアナの姿を見つけて跪く。
「ええっ」
ちょっと、と思わず後退れば、コリンナにきっと睨まれた。大人しくしていろとのことらしい。
「こちらを。陛下より、フロレンツィア様にと」
何の感情もこもらないような声と共に、彼女に一通の手紙が差し出された。
普段は本を届けよとベルタを呼び寄せる時間。ビビアナは三人の侍女により、皇帝への謁見に向け丁寧に身なりを整えていた。身分のない女を着飾ったところで意味などないというのに、それでも侍女らは手を止めない。ある者はコルセットをきつく締め上げ、ある者はアクセサリーを選ぶ。もう一人はドレスの手入れをしていた。
皇帝。国が滅びて二年半。今更接触してくるとは──正しくは、ビビアナがあちらへ赴くのだが。手紙の内容は挨拶から長ったらしかったが、簡潔にまとめると、会いに来いと。そういうことだ。
彼女の胸の内に渦巻いているのは、不思議な感情である。ビビアナがあれほど恐ろしく思っていた男は王位すら握っておらず、帝国の真の主は別にいるのだ。一体どんな男なのだろうと。そして、自分は今度こそその男に殺されるのではないかと。
「皇帝陛下は、どのようなお方なのですか?」
「陛下は偉大なるお方でございますよ」
そっと尋ねてみても、こちらには浅い返事しか届かない。ただされるがまま、質のよい布に体を包む。
「流石、お美しゅうございますね! よくお似合いです」
ビビアナは俯き、自らに纏わり付いている生地を眺めた。
皇帝が手紙と合わせて贈ってきたというそれは、一目でその価値が分からなくとも、着て触れればそれまでのものとは全く異なる質であった。肌触りが非常に滑らかで、合わせてみればそこにいるだけで様になる。
「そうね……」
ビビアナは複雑な心境のまま、そう頷いた。
初めて足を踏み入れた城内は、糸をぴんと張ったかのような空気が満ちており、とても落ち着いて息ができるような場所ではなかった。
何度か使用人らや文官らしき者とすれ違ったが、会釈をするのみ。その静けさは小宮殿とさほど変わらなかった。ただ、広い。
「あぁ、こちらは右の道ですね」
背後に控えている護衛のカーティスが、廊下の分岐点にてビビアナを誘導する。彼がいなければ迷った振りでもしていたかもしれないと考えたが、すぐに、そのようなことをしなくとも本当に迷っていただろうと考えを正した。青い空気、ぽつぽつと並ぶ柱。装飾はほとんどが左右対象。どの道も同じような景色が広がっている。まるで冒険家を惑わす迷宮のように。
「ありがとうございます」
騙されてはならない。そう当たり障りのない笑顔を浮かべ、落ち着いて体を捻る。
かつこつかつ、こつかつかつ。
しかしどうにも、靴裏の音が気になって仕方がない。そんなもの、普段は何とも思わないはずだった。かといって静かにしようとすれば、美しい歩みを崩すことになってしまう。彼女はやきもきしながら足を動かした。
「こちらでございます」
カーティスに言われ、ビビアナはほとんど反射的に立ち止まる。かん、と踵が鳴った。
「あら、もう?」
「はい。こちらでございます」
彼は先程と全く同じ台詞を吐いた。
しかしビビアナは動けない。そんなことを言われても、それまでの時間があまりに短すぎて、心の準備などとてもできていないのだ。
「何かありましたか」
今更怖気づいたのか? そう言われているようで、息が詰まった。
「……いいえ、ごめんなさい」
瞬き、扉へと視線を移す。豪華な装飾の施された扉は、小娘には重すぎるように見えてきまう。けれども臆せぬようにと深呼吸をし、心音を整えた。
恐れることはない。ここでは何も起こらない。何の根拠もないが、ともかくそう言い聞かせる。そしてようやく三度のノックをし、背筋を伸ばした。
両側の扉が内側に引き摺られてゆく。その隙間からは緊張が溢れ出た。
空気が、違う。肺が凍って重苦しい。
意外にもこぢんまりとしたその空間には、今までにないような重厚な圧が漂っていた。縦に真っ直ぐ通る絨毯の両端には、十数人もの家臣たちが並び、ちらちらとこちらに視線を向けている。
とてもよい気分ではなかったが、ビビアナは律儀に頭を下げ、その空間に足を踏み入れた。
かつこつかつ。踵は急かすように時を刻む。
視線だけを動かすと、中央の奥に置かれた王座に初老の男が腰掛けているのが見えた。
男の足元にまで歩みを進め、許可を得て膝を折る。
「名を申せ」
俯いた視界の隅。言葉を発した男の顔を、ビビアナはちらりと盗み見た。
──この男が、皇帝。
確かに、大まかな輪郭はあの男と生き写しのようである。しかしその毛髪は息子のものとは異なり、すっかり色褪せていた。赤い瞳の深みも薄れ、頬には骨が浮かび、話すのもやっとな雰囲気がある。
しかし、その威厳に満ちた姿はやはり王のもの。油断も、先日のような失態も決して赦されない。ここで覚悟を決めなくてはならないのだろう。
「お初にお目にかかります、皇帝陛下。お招きいただきました──フロレンツィアにございます」
舌に刻まれたその名を告げる。
声は、震えなかった。




