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皇帝陛下の傍飾り  作者: 白川雪道
一章 珠は栄華に眠らんと欲す
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08. 無知に愚かで罪深き




 二年半ぶりにその姿を捉えた瞬間、彼女の体に染み付いていた恐怖が戻ってくる。直感で、この男を刺激してはならないと。


 凍てついた視線は二年半経ってもなんら変わりなく、鍛え抜かれた体ごとビビアナを見下ろしている。背後には数人の部下を引き連れており、彼らもまた無愛想であった。


 ──どうして、ここに……。


 視覚からの情報を処理している間に、彼女の血はふつふつと沸騰して──そして冷却されるということを繰り返す。


 怖い。唇も手も足も震える。腰元に掛けられた長剣が、今にも鞘を抜け出してきそうで。


 けれどもそれを必死で諫め、ビビアナはくっきりと微笑んだ。


「お久しゅうございます、皇帝陛下」


 できるだけ穏やかに、相手を刺激せぬようにと、帝国式の礼をする。けれども男は、それを嘲るように眉を歪めた。


「面白いことを言うのだな。陛下はまだご健在であるはずだが」


 帝国語は完璧であると自負していたが、それがあまりに面白がるような口調であったから、一瞬何を言われたのか分からなかった。


 少しして、地面に向けた頬がかっと熱を帯びる。けれども表情が崩れるまでは免れた。


 今、この男はなんと言った?


 先程の使用人たちの言葉を思い出す。皇帝と皇子は、随分と似ているのだと。加えてこの男はまだ若い。


「あ……」


 全身から血の気が引く。行き場を失った息は喉元で詰まり、彼女は瞬くことしかできなかった。


「し、失礼いたしました! お許しください。皇子、殿下……」


 何とか声を絞り出す。背中が冷たくて、痛い。


 初めて彼を見た時、ビビアナはその悪魔のような容姿から皇帝だと推測した。そう、あれは推測に過ぎなかった。あの場の指導者のように見えたから。端正な発音で、高貴な振る舞いをしていたから。


 ──あぁ、わたしはこの二年近くで、一体なにをしていたの?


 ビビアナは年の割には頭の回る少女だった。二年半もの間、冷静に平穏にやってきた。しかし、所詮は子供である。


 コリンナの教えた言葉と作法。思えば、それは上辺だけのもの。帝国の現状は、友好国は、現在の主要人物は、この男の目的は、正体は。


 彼女が知っているのは、古びた本の中の情報のみである。どれも恐らく数十年は前のもので、基本的な情報しか載っていない。無知な子供に与えるには無難な本。あれでは駄目だ。ベルタは親切だと言っていたが、本を選ぶのに司書の目が通っているのならば、借りた本の内容は無論皇帝にも伝わっていたはずである。


 そんな当たり前のことに、気が付かなかった。着々と帝国の形を摑んできていると、本は嘘を吐かぬと、自惚れてさえいた。


 ──最悪だわ。肝心なことは何も知らなかった!


 あまりの衝撃に、目の前の男の顔は勿論、背後のカーティスの姿さえ見ることができない。頭を下げていると余計に涙が出そうだった。


「夫人の授業は厳しいものだと聞いている。疲れているのだろう。気にすることはない」


 この男にしては柔らかな口振りだが、面を上げよとは言われない。なんとも屈辱的だった。


「皆も思っているようだからな。妾が産んだ子にしては、まるで生き写しのようであると」


 聞いていたのかと、思わず体が反応する。恐る恐る顔を上げると、赤い目は寧ろ面白がるように歪んでいた。しかしそれはほんの一時のことであり、すぐに温度を失ってビビアナの背後を捉える。先程の噂の主である使用人たちだ。


「……っも、申し訳ございませんっ。殿下、あれは……」


 女たちの恐怖に滲むその低音に、背筋が凍えた。全く肝の据わった召使いだと思っていたが、彼女らも本気ではなかったはずだ。しかしここは王宮の城内。そんなことが許されるはずもない。同情はするが、自業自得というもので、今のビビアナには救えない。


「よい、よい。連れて行け」


 部下に向けて当たり前のように発せられた言葉に、歯を食いしばる。背後では女たちのか細い声が、助けて、どうかお許しを、と言葉をなぞる。


 ビビアナは動かなかった。ただ、自分の命までは助かったと。それだけを安堵していた。


 やがてそれも聞こえなくなると、男は右手の指先を顎に当て、硬直する彼女を眺めた。すっと視線が交差する。


「ビビアナといったか。お前も運が悪かったな。その挨拶がほんの少し先であれば、恥を掻くことはなかっただろう」


 瞬間、形のよい唇がなぞった言葉に、彼女は絶句した。とうの昔に奪ったものを、なんの価値のなくなったその名を、一体どのような立場で口にしているのかと。


「ご冗談を、殿下。わたしはフロレンツィアです。イェル様より賜った名でございます」


 返事がままならない。なんとか持ち上げた口角も、彼の前では震えていることだろう。


「そうか」


 男の視線はさほど興味もなさそうに彼女の輪郭をなぞる。


「ではフロレンツィア。お前は一体いくつになった?」


 問われ、凍えかけた心臓が跳ねる。

 なんて白々しい。この男が何を言いたいのかは分かっていた。


「……十四です」


 目を合わせる気にはとてもなれず、ビビアナは俯いた。


 その年になっても何も変わっていないなと。愚かなままであると。二年近くが経ったところで、この男の前ではいつだって。あぁ最悪だと、もう他に言いようがない。


 ──わたしは自ら、無知な駒に育てられようとしていた?


 思い、すぐに内心で首を振る。


 ──違う。駒にする価値すらない。何も考えていなかっただけだわ。


 このままあの部屋に閉ざされていては駄目だ。こうして焚きつけられて初めて、それに気がついた。いいや、気づかされた。こうして突かれるまで、彼女は何も。未熟だから、ではない。何も考えていなかったのだ。


 ──悔しい。怖い。……でも。


 この男は、一体何がしたいのだろう。

 一切の熱を持たない冷徹な薔薇。棘だらけの蔦はどうあっても振りほどけない。ビビアナに己の滑稽さを自覚させ、その反応をも嘲りたいのだろうか? 生意気な女を、とことん叩き潰してやりたいのだろうか?


 涙が滲む。結局自分は、何も成長していない。この男に怯えてばかりだ。


 ドレスの生地に爪が食い込む。八つ当たり、こういった反応も子供のそれだ。なんて馬鹿らしいのか。


 これ以上の醜態を晒す前に、ここを離れなければならない。そう、失礼しますと唇を動かす前に、男は言った。


「そうか。であれば、次からは自ら来るといい」


 思わず上げた視線が混ざる。相変わらず感情の読めない赤い目には、嬉々もなければ嘲笑もない。しかし少なくとも不快に思ってはいないようだ。


「奴隷を図書室に遣わせるのではなく。そちらの方が勉強になる」


 純粋に意味が分からなかった。登城の許可が出されたということは間違いないが、理由が全く。


「どうした」


 気まぐれ、ということだろうか。あの時と同じように。……ならば。


「いえ。殿下の寛大なるお心に、感謝いたします」


 身体中を巡っていた熱が驚くほど冷静になる。目の前の機会を逃せるほど、ビビアナは愚かな少女ではない。少なくとも自分ではそう思いたかった。


 素直に頷くと、彼は満足げに目を細めた。全く分からない男だが、今はそちらの方がよいのかもしれない。


「……殿下。そろそろ」

 背に控えていた部下らしき者がそう告げる。


 あまりの衝撃に忘れかけていたが、この男にもすべきことがあってここへ来たのだろう。なにもこの場に留まる必要はないのだ。


 ビビアナはそっと深呼吸をし、何度目だろうかと思いながらも姿勢を正す。一刻も早く立ち去りたかった。


「では、失礼します」


 ようやくその言葉を告げ、一礼してから振り返った。そこには先程の使用人たちの姿はなく、カーティスがこちらの様子を窺っているのみだ。


「行きましょう、ヘラルヴェ卿」


 ビビアナは極力背後を意識しないように、足早にその場を去る。幸い、引き留められることはなかった。





「先程は災難でしたね」


 裏庭を歩きながら、カーティスが微かに笑う。ラベンダーがこちらを見上げる中、ビビアナは先程の失態を思い出して再び赤面した。


「ヘラルヴェ卿にはお恥ずかしい姿をお見せしてしまいました」


 口では控えめにそう言ったが、強気な態度に本気で苛立たしく感じる。しかしそれを咎めることはできない。カーティスは護衛という立場であるものの、もはや王女ではないビビアナとではどちらの方が上なのか分からなかった。


「ですが、あの方も仰っていた通り、気になさることはありませんよ」


 あなたが掘り起こしてきたのでしょうと、彼女は目の前の男を軽く睨む。


「……ところで皇子殿下は、何をしにこちらへいらしていたのですか?」


 結局どうしてなのだろう。ビビアナに用があったわけではないようだが、では何をしに来たというのか。素朴な疑問を投げ掛けてみると、カーティスは目を細め、不思議な反応をする。


「さあ。わたしには分かりかねます」


 まさかそのような躱し方が通用するとでも思っているのか、その護衛は口を閉じた。焦っているわけではないようだが、それ以上詰め寄るなとでも言いたげな空気を纏っている。


 どうしても聞きたいというわけではなかったので、ビビアナは「そうですか」とだけ返した。


 この護衛がこうも挑発的に──自覚があるのかは分からないが──話を振ってくるのは実に珍しいが、あの男の纏う鋭い空気にでも当てられたのだろう。


 何より彼女の心は先程の驚愕と羞恥により疲れ切っていたので、カーティスへの苛立ちは一先ず心の隅に追いやることにした。

 


 

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