07. 屍の国
その日も、ビビアナはベルタが届けてくれた物語を読んでいた。
「あら……」
最初は何の話なのだろうと思っていたが、読み進めると普遍的な恋物語だった。男女がすれ違い続ける切ない話。
半分ほど読んだが、今のところは読み心地が悪い。赤子の頃から仲のよかった彼らは幼い頃に離れ離れになって、十年後に再会する。二人は変わらず想い合うが、その頃には身分も立場も変わっていた。貴族の家に引き取られ順調に出世した男と、その家に仕えることとなった召使いとして。
たかが物語。けれども、ビビアナにはそうではなかった。
ビビアナにも、幼い頃から大切な従兄がいる。いいや、いたという方が正しいのかもしれない。
──泣くなよ、ヴィー! ほら乗って。あっちに薔薇が咲いてるから。
怪我をして泣きじゃくる彼女を背負い、彼は薔薇園を歩く。七歳の頃の記憶だった。背も体格も同じくらいであったのに、彼は楽々とビビアナを持ち上げて笑う。名をヴァレリオ・ニルディー。王家の血を引く公爵家の一人息子だった。
幼い頃から兄妹のように庭を駆け回って、侍女を困らせていたなと思い出す。時折厨房のお菓子を摘まみ食いし、共に叱られ、増やされた授業を二人で受けたりもした。彼の父である公爵も温厚な性格で、ビビアナにはよくしてくれたのだ。
「お兄様……」
彼女はそんな彼を、もう一人の兄として慕っていた。心から。
しかしもう、会うことはできない。
いたたまれなくなって、ぱたんと本を閉じる。
「──フロレンツィア様」
しんみりとした気分のまま振り向くと、そこにはカーティスが立っていた。
「ヘラルヴェ卿!」
普通、淑女の部屋に男性が入ることはあまりよいことではない。しかし彼はビビアナの監視役であり、そのような常識は通用しないのだった。
「ごめんなさい、気が付かなくて。いついらしたのです?」
「ノックはしたのですが、反応がなかったので。そちらの本は?」
懐疑的な思いを滲ませる目。まただ。その温度は、いつだって彼女を不安にさせる。彼がどういった反応を望んでいるのかまるで分からなかったが、ともかく少女らしくあろうと努力した。
「司書の方が選んでくださった、ええと……恋愛小説です」
彼女は年相応に恥じらう演技をしながら、本で口元を覆い隠す。そしてわざとらしく思えるほどに目を細めてみせた。
「おっと、それは失礼」
彼もまた、思ってもいないようなことを口にして笑う。この騙し合いの舞台に結末などは存在しない。
「そんな、構いませんよ。……今日も色々な本を借りたのです。ヘラルヴェ卿も読みますか?」
「いえ。わたしのことはお気になさらず」
やはりその張り付いた笑顔が気に入らない。ビビアナは目を細め、尋ねた。
「まあ。……では騎士の方は、どのような本を読まれるのです?」
やはり冒険小説ですか? 騎士道物語なら、殿方もお好きなのかしら。そうして年頃の少女のように顔を赤らめると、カーティスは笑みばかりを浮かべていた表情を崩す。
「おや、わたしが読書好きに見えますか?」
「いいえ? ただ気になっただけですよ」
面倒そうな態度を隠さない彼に、ビビアナも白々しく答えてみせる。カーティスは困ったように微笑んだ。
「わたしに限らず、この国の男は血の気が多い人間ばかりですからね。剣術ならともかく、本にはあまり詳しくはないでしょう」
「あら、残念です。……何か薦めていただこうと思いましたのに」
「ご期待に添えず申し訳ございません。しかしわたしでなくとも、適任ならばいくらでもいることでしょう。本好きの侍女でもつけますか?」
ビビアナは首を横に小さく振った。
「いいえ、必要ありません。男性が好む本は、女性とまた違うでしょう?」
「そうでしょうか」
どこか拗ねたように眉を顰め、ビビアナは頷く。本当はそんな演技すら煩わしかったが、こちらが警戒しているということを悟られないよう、カーティスとは不自然でない程度に軽い話をするようにしていた。
十二年間を王族として生きてきた経験は、帝国での生活にも役立った。最低限の礼儀、暇な時間の過ごし方。周囲の人々の視線や態度で、今どうすればよいのかも大まかに分かる。
一日一日を重ねるなかで、ビビアナは少しずつ、より従順で無害だと思われるような人物像を作り上げていった。全ては生きるため。この二年半。授業を真面目に聞き、出されたものは全て食べ、贈られてくる宝石やドレスには笑顔を見せ、話したくない時は刺繍を刺し、祖国の悲劇も戸惑いも薄れ今の生活に満足しているような素振りをし、無力ながら穏やかに過ごしてきた。
ただ思うのは、その生活に何の意味があるのかということ。薄れてゆく故郷の景色。植え付けられる日常。幸福も、憎悪も、何も感じることのない日々。鋭い切っ先は近付けられたまま動かない。この喉元を切り裂こうともせず、その鞘に仕舞われることもまた。
もどかしい。ここにいても何もできることはないというのが。ただ、ここで生かされていろと。何も考えるなと。あの男は、そう言うのだろうか。
──いいえ、この国に呑まれはしない。わたしは、学ぶことができるのだから。
殺伐とした部屋の隙間から差した光を、そっと眺める。
ビビアナが外出を許されるのは、やはり花を愛でる時くらいであろう。
「フロレンツィア様、庭にラベンダーが咲いているそうですよ。なんでも、押し花にするのが流行しているのだとか」
昼時。鏡台の前でビビアナの髪を弄っていた侍女がそう言った。
「そうなのですね」と興味もなく流すように返事をするが、侍女は溌剌とした笑みを浮かべる。
「あ、可愛くなりましたよ! せっかくですからお庭に出てみては?」
鏡の奥には、いかにも乗り気ではないというような顔が映る。それで彼女が察してくれればよかったが、そう都合のよい方へはいかなかった。
「朝のお散歩とはまた違いますから」
そう着々と準備を進められる。
歩くのは面倒だったがやることもなかったので、ビビアナは彼女の言葉に続いて裏庭に向かうことにした。無論、カーティスの監視はついて回るが。確かに気分転換にはなるだろうと。
背後に視線を受けながら、いつものように長い廊下を歩き続ける。この時間は退屈以外の何物でもなかった。もはや道は覚えてしまっている。
けれども、左右に分かれた道の突き当たり。そこで足が一歩踏み出すのを躊躇った。
彼女の行こうとしている先、左の廊下から、このような静かな場所では全く場違いな声が響いたからだ。
「ねえ、今日は皇子殿下もいらっしゃるそうよ」
「ああ、そうだったわね。陛下にそっくりだけれど、あの妾の子供なんでしょう? あの、追い出されたっていう」
「静かにしてよ。誰が通るか分からないのに」
ひそひそと話を進めるその声は、ここに雇われた使用人たちのもの。大して珍しいことではない。ただ思うのは……流石は帝国人。誰が通るかも分からない廊下でよくもそのような噂話を囁けるな、と。恐らく仕事中だが、まったく誰も通らないので気が緩んでしまったのだろう。
「でも、何年か前に呼び戻されたのよね。何かあったのかしら」
コリンナの授業の成果によるものか、彼女らの言葉もきちんと聞き取れる。
皇子──あの男はかなり若く見えたが、王という立場では既に子があってもおかしいことではない。妾、つまりは側室。あまり聞き馴染みはないが、意味は理解できる。
一夫一婦制であったウォルデールとはわけが異なるようだが、遠い文化というわけでもない。コリンナは教えなかったが、帝国の本で読んだことがある。跡継ぎに困らないという点では、一人の男が複数の妻を娶った方が効率がよいのだと。
その代わりどの代も王位争いが激しく、その度に重宝される貴族たちも入れ替わってゆくのだそうだ。
貴族は家の名誉を懸けて王となる器を選び担ぎ上げ、選ばれた皇子は己の生死を懸ける。そのため自然と、流れる血の濃さや母親の身分よりも己の実力が重視されるようになった。王が強ければ、戦地での士気も上がる。王が長命であればあるほど、より安定した統制ができる。
他国よりもほんの少し、雪が多く積もるだけだ。それもすぐに解ける。しかし、完全に消え去ることはないのだ。やがて川へ流れ、海に出でて、空に旅立つ。そこからまた雪となり、涙のように落ちてくる。
──野蛮で、冷たい国ね。
側室の子、追い出されたというと、関係は冷え切っているのだろうか。……例えば、その皇子と接触できたら? 彼女らの話によれば、今日の間にここに来るとのこと。運がよければ……。
「どうかなさいましたか?」
突然立ち止まった彼女を不審に思ったのであろう。彼女らの噂話が聞こえていないわけではなさそうだが。あやしげな笑みを浮かべたままのカーティスにそう尋ねられ、彼女はすべきことを思い出した。
場を考え、彼女らの方を向いて大袈裟に咳払いをする。と、召使いの制服を纏った二人はこちらに気づいたらしく、顔を蒼くして足早に立ち去ろうとした。
まったく。確かにここは静かすぎるが、そう油断できるような場所でもあるまい。ビビアナは呆れながらに彼女らの背中を見つめた。
と、その時のことである。
かつ、かつ、かつ。と、鼓膜を必要以上に刺激する音が響く。加速する心音とずれたその音には、確かに聞き覚えがあった。
「なんとも、久しい色だな」
凪いでいた心が、再び熱を帯びたのが分かる。
ざらついた声にばさりと音を立て、少々品に掛けるやり方で振り返る。靡いた髪の隙間から、その赤い目がこちらを射貫く。いつか悪魔のようだと喩えたその姿が、彼女の記憶の奥底を刺激した。
──あぁ……。
喉元が焼かれ、久々に息が詰まる。まるで忘れていたことを思い出したかのように。あるいは、夢から醒めた瞬間のように。
彼女は自身が最も恐れていた男の顔を、はっきりと思い出した。




