06. 籠中、あるいは首輪
早朝。空気は丸みを帯び、日は高い。鳥のさえずりに草木の蒼い香り、庭で背を伸ばす白い花々が、ビビアナに春の訪れを知らせた。
意識を閉ざしてしまえば、時の流れなど早いものだ。気づけばあれから二年半が経過し、ビビアナは十四歳になっていた。
「ビビアナ様。そろそろお部屋へ戻られてはいかがでしょう。お身体が冷えてしまいます」
声のした方を振り返ると、少しの解れもない微笑みを浮かべた男が立っていた。眩い金髪に当てられて、思わず眉が歪む。彼女はこの男のことが心底好きではないのだ。
けれども精一杯に笑顔を作る。
「まあ、そうですね! お腹も空いてしまいましたし」
そういえば、まだ朝食も取っていなかった。
従順にそう返事をすれば、男は更に口角を吊り上げる。
へらへらといけ好かない態度のこの男は、カーティス・ヘラルヴェというらしい。彼は数週間前に護衛と称してビビアナの前に現れた、いわば侍女たちと同じ監視役。金の髪と蒼い目をした若い男。それ以外の情報はない。初対面からこの調子で、笑顔の奥の冷たい瞳も、中途半端に傅く態度も、彼女の胸をざわざわとさせる。
しかし彼が来たことで、ビビアナには裏庭を回る程度の外出許可が与えられた。一体皇帝は何を考えているのか分からないが、ほんの少しの自由が増えたところで、凍えきった心は少しの熱も帯びない。
その日の朝食は、柔らかい白パンに卵、サラダにトマトのスープが湯気を立てていた。温かく、品数も少なくはない。この窮屈な城に監禁されている以外に、不便な点はなかった。しかし、それがかえって違和感を覚えさせるのだと、彼らは気づいているのだろうか。
三人の侍女とカーティス、そしてコリンナに監視されながら、ちびちびとフォークを進める。食事する相手などいないのに、常に微笑みを浮かべながら。そうしていないと、教師と慕うその人に鞭を打たれるから。
「とてもよいお味でした。厨房にお礼を伝えてください」
細心の注意を払って、いつもと変わらない台詞を吐く。そうしながら、心の中では自身に対する嘲笑を零した。おかしなものである。質のよい服や宝石で着飾り、多くの人間に傅かれているというのに。実際のところ、役割を求められているのは彼女の方だ。まるで首輪で括られた犬、籠中の鳥のようだと。しかしそれも仕方のないこと。
「どうぞ」
その後のコリンナによる授業を終えてしばらくすると、三度のノック。ビビアナはすぐさま入室の許可を出した。
無駄な音なく扉が開き、現れた少女は軽く頭を下げた。彼女は器用に四冊の本を抱えている。
「ベルタ。あなたね、遅いのよ。わたしがいくら待ったと思う? あなたって喋れないだけじゃなく、何の役にも立たないのね。……どうして本を読むのにあなたなんかを通さなきゃいけないのかしら」
ビビアナはそれを乱暴に受け取り、すぐさま突き放すようにベルタの肩を払った。
彼女はそれでバランスを崩し、地に尻餅を付く。
「大体あなたはいつもそう。どうして私が、あなたみたいな愚図を使ってやっていると思う? 見目がいいだけの女のくせに!」
狂乱的な声を上げれば、侍女たちは奴隷の少女に同情的な視線を向けつつ、引き際を見つけて一人ずつ退出してゆく。適当な仕事をこなし、十分もすれば戻っては来るが。使用人たちはビビアナの世話をしてくれるけれども、彼女自身に忠誠を誓っているわけではない。監視役がいなくなったところでこの部屋からは脱走できないので、そうした勝手な行動も許されるのだろう。
使えない奴隷、そして声を荒げる主人。
二人が唯一の味方同士であることは、誰も知らない。
「その腕も足も、主人があなたみたいなのろまで可哀想だわ!」
軟禁される怒りを、自分よりも確かに弱い立場の者へぶつける。もう何度目になるだろう。
奴隷の扱いに関しては気にしていないのか、コリンナも指摘はしなかった。
現時点ではそれが、二人きりになるには最も効率のよい方法なのである。
扉の閉ざされる音を聞いて暫く。ビビアナは扉の前に耳を当て、そこに人の気配がないことを確認する。
「ごめんなさい、怪我は?」
尋ねると、ベルタは首を横に振る。
ビビアナは彼女を立ち上がらせ、紙とペンを手渡した。
ベルタもすっかり慣れた様子でペンを走らせる。
『皇帝らしき男とはすれ違いませんでした。図書室はいつも通り。しかし、西部分に空き部屋がありました。鍵は壊れていて、掃除もされていません』
わざと小さく汚い字で記されたウォルデール語を、ビビアナは楽々と目でなぞる。
「流石ね、ベルタ。いつもありがとう」
ビビアナは小さく囁く。
とはいえ、カーティスか使用人かが近くで待機している可能性もあり。
ビビアナは時折彼女を叱るように声を張りながら、ベルタに新たな紙を渡す。そして、それに記し終えるのを待った。廊下は線で、扉のある場所はその線上に丸をつけ、階段も省略して表す。
二人は、城内の地図を作製している最中であった。
図書室は小宮殿を抜けた、城の本館にある。ビビアナには城内へ出入りすることは許されていない。しかし半年前から、図書室までならベルタを遣うことが許されたのだ。部屋にある本は全て読み終えてしまったからである。
奴隷であるベルタには、この部屋とは別に小さな部屋が与えられている。主人であるビビアナが用を頼まない限りはそこで大人しくしていなければならなかったのだが、彼女には毎朝本を運んでくるという役目が追加され、二人になれる時間が少しばかり増えたのだ。他にも使用人の真似事をさせ、少しずつここへ馴染んでもらっている。奴隷をどう扱おうと主人の自由なので、誰かに何かを咎められることもなかった。
図書館へ行く奴隷には護衛もつかず、城内を自由に歩き回ることができる。とはいえ城は国の中央、人通りは多く、動くにせよ上手く誤魔化す必要があった。
その点、ベルタは物わかりのよい落ち着いた少女で、使いやすい味方だった。奴隷というものは勿論弱い立場であるが、連れて来られたあの日から部屋の隅でこっそりとコリンナの授業を聞き、一月も経てば帝国語の本もゆっくりと読めるようになった。紙とペンがなければ会話することは難しかったが、交流は十分にできる。そして賢い。
ベルタは辞職した侍女が置いていったという制服を見つけ、それを装い、上手い具合に城に溶け込んだ。大陸では珍しくない茶髪にヘーゼルの瞳は、大して目に留まらない。
彼女は図書室のある西側を中心に、こうして地図を書いてくれた。
知ってどうするのか、という話ではない。必要になってからでは遅いのだ。何もできないのならせめて、とにかく情報が欲しかった。これからこの国でどう生きればよいのかを指し示してくれる何かを、知りたかった。
『──一冊目は所望されていた北部の地歴書。二冊目は帝国神話。三、四冊目はこちらで有名な物語本だそうです』
ベルタは自身の手帳を開き、借りてきた本についてそう書き込んでみせた。四冊とも大分古びているものの、状態はよい。
古いからか教科書に満たないような内容で、この国について深く記されたものはなかったが。
『本日も、親切な方が選んでくださいました』
彼女は嬉々とした様子でそう記す。なんでもビビアナの読む本は、親切な──おそるく、図書室に勤める司書が希望に沿って選んでくれるのだという。親切な方なのだと。
「ありがとう、ベルタ。そうね、その方にも今度お礼をしておいて」
そうやって、こそこそと会話をする。
二年半という時の中、ビビアナにも己の立場が少しずつ分かるようになってきた。少なくとも敗戦国の民としては異色の生活が保障されているのだ。皇帝は、彼女に何らかの価値を見出したのだと。そういった結論を出すことに大した時間はかからなかった。少なくとも使用人に跪かれる程度の立場を保障しているのは、ビビアナの持つ敵意を和らげ、利用しやすくするためなのだろう。きっとその方が都合がよいのだ。
しかし興味を持ったにしては、あの皇帝はビビアナの前に決して現れない。あの、牢を出た日から。この二年半間、関わったのはコリンナとベルタ、カーティスや使用人たちのみだ。
ならば、彼が見つけた価値とは? あの男は、皇帝は、たった一人のこの身に何を望むと? 元々は大陸上の小国。あるのは鉱山と長い歴史のみ。あるいはこの、銀と緑の珍しい色彩。国の情報が欲しいならば、唯一生かした子供に尋問を行うはずだ。美しい女が欲しいという理由だとしても、もう少し頻繁に訪れるだろう。
それとも、単に実験のつもりなのだろうか。祖国を滅ぼしたことも、ビビアナを生かしたことも、ただの気まぐれ。その可能性が否定できないことに悔しさを覚える。
いいや、弱気になってはいけない。ともかく生きなければ。
少なくとも彼女の家族は、それを望んでいないのだから。




