05. 彼女に傅く者たち
じわじわと蝕まれていた精神が劇的に変化したのは、それから更に三週を跨いだ頃。
目まぐるしく変化していく感情に、ビビアナは思考を放棄していた。完全に失意のどん底で、その顔は九つのうら若き娘とは思えぬような虚無を浮かべている。
例えば。あれだけ作り慣れていた笑顔が繕えなかったり、フォークを持つ手が安定しなかったりする。また毒を盛られたら。今度こそ死ぬのだろうか。そんなことばかりが頭を過り、味などまともに感じられなくなっていた。体だけ別人になってしまったような違和感が常に付き纏う。
そんな日々の中で、彼女はようやくそれを見つけたのだ。
「フロレンツィア様」
部屋の扉が開いたことにも、傍に数人の大人たちが入ってきたことにも気づかぬまま、使用人の一人にそう声を掛けられた。
子供には高い椅子に腰掛けていた彼女は、しばし遅れて声の方を見る。そこに立っていたのは、やはり数人の大人たちと、どこか異質な空気を纏う背の低い子供。
瞬間、忘れかけていたその名が、微かな熱と共にビビアナの体内を巡った。
「ベルタ……」
誰にも聞こえないようなその声が差すのは、一人の少女。
帝国人にもよく見られるありふれた茶髪に、ヘーゼルの瞳。しかし顔立ちは整っている。簡素な布切れを纏った、一目で奴隷だと認識できる子供。名は、ベルタ・ルーダ。ビビアナよりも二つ上の少女だ。今は十四歳のはず。
直接話したことはない。ただ……。彼女は、ビビアナの乳母であったアマタ・ルーダの娘。すなわちウォルデール人だ。
彼女は、奴隷になってしまったのか。
思わぬ再会に、ビビアナの心が久々に揺さぶられた。勿論嫌な方向に。
征服された国の民も、戦利品の一つとなることがある。女子供は奴隷として連れられ、男たちは不当な労働を強いられるか見せしめに殺される。それらは人々の恐怖を煽る最悪のやり方だ。しかし強国の間では、それが当たり前の認識であることも事実。黙って泥水を啜ることだけが、弱者である者たちの賢い生き方。
「私の方で、歳の近い娘を用意させていただきました。……あの方より、退屈でしょうと。こちらは本日から、フロレンツィア様のものでございます」
前よりは正確に聞き取れるようになった帝国語で、彼女を連れた男が言う。彼らは、この子供が滅びた国の者であるのだと知らないのだろうか。
「ほら、挨拶をしなさい」
男に促され、ベルタは静かにこちらを見つめ、瞬いた。しきりに上下するその唇の隙間からは、ひゅうひゅうと風が出入りするのみだ。はっきりとした音は、幾ら待とうと出てこない。
男は片眉を下げ、案外分かりやすく溜息を吐いてみせた。
「もうよい。……申し訳ございません、フロレンツィア様。こちらは処分いたします」
なぜこの男らがビビアナにへりくだるのか分からなかったし、最後の方の言葉には耳馴染みがなかった。しかし、彼らの視線に嫌なものを感じ、ビビアナは反射的に首を横に振った。
「いいえ、いいえ。わたし、彼女をとても気に入りました!」
その返答が正しいのかは分からなかったが、そうとでも発言しない限り、彼女とはもう二度と会えなくなるような気がしたのだ。
きっと、声が出ないのだろう。
不思議なことではなかった。突然の侵略、何の前触れもなく広がった地獄絵図を、彼女も見たのだろう。あまりの衝撃に声が出なくなっても、何らおかしなことではない。彼女の母親も、王族に仕える乳母という立場では、逃げることができたかどうかも怪しいのだ。
「ええそうです。欲しかったの、わたし。お友達が。ありがとうございます」
緊張で文法がおかしくなったが、習い始めたばかりと言えば不自然ではないだろう。家族を殺した国の者になぜ頭を下げているのか、なぜこのような扱いを受けているのか分からなかったが、ビビアナはともかく必死だった。
少しすると、彼らは納得したような顔をして去って行く。残るのはビビアナとベルタ、そして三人の侍女たちのみとなった。彼女らも嫌な人間ではないのだが、ビビアナの機嫌が悪くなると困り顔をして出て行くのが常である。だからビビアナは、三人をじっと睨みつけていつものように追い出してしまった。
「もう大丈夫よ」
部屋に二人きりになって、ビビアナは自国の言葉でそう言った。それはベルタに向けたものだったのか、それとも自身への慰めだったのか。曖昧な投げかけ。
「城の人たちは? ここに、他にも知ってる人はいた?」
ベルタは首を横に振る。分かっていたことであったが、改めて確認するとくるものがあった。彼女はたった一人きりで、この帝国を生きてきたのだと。
「可哀想に、ベルタ……」
ビビアナはそう呟いた。か弱き少女がここまでたった独りで、それに奴隷だなんて。
「ええと……」
そして困惑する。咄嗟に皆を追い出してしまったけれど、この後、何を話せばよいのか。彼女は何も返せはしないのに。暫く考え込むと、ふいに思い付く。
「そうだわ、紙とペンがあればいいかしら?」
どうせ帝国人の大半はウォルデール語を読むことができぬだろうし、見られる前に処分してしまえばよいだけのことである。ベルタも頷いた。
「あ……」
羊皮紙を探そうと部屋中を見回すと、ふと、部屋の中央に立て掛けられた鏡に目が行った。
腕や足が傷だらけになった奴隷の横に映るのは、祖国が平和だった頃以上に質のよいドレスを纏う少女。並ぶと余計に、差が目立つ。
それが刺激となって、ビビアナはこの一月半のことを思い返した。
三人もの侍女が侍り、いつも綺麗な洋服に着替えさせてもらう。教育が受けられ、喉を通るのも温かい食事。毒を盛られたこともあったけれど、それでもお腹を空かせて悲しい思いをすることは一度もなかった。
そんなものは、元王族でなければ考えられないような待遇。
瞬間に体の芯が震え、ぞっとする。
その間、ベルタはどのような扱いを受けたのだろう。
可哀想? よくもまあ、それほど無責任な言葉が出てきたものである。自身の運命を憂うのみだったこの一月半。その間に、ウォルデールの民は一体どれだけの苦しみを覚えただろうと。
王族の生き残りという立場にありながら、民が奴隷に身をやつしてまで必死に生きているその間に、何をしていた?
「あぁ……! ごめんなさい」
生きているのが辛いだなんて、こうして生活を保障されていたビビアナが、思ってよいことではなかったのだと。彼女はようやく理解する。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
そう何度も口にするが、ベルタは首を振る。哀しそうな表情で。
「ベルタ……ごめんなさい」
ビビアナは耐えられなくなり、少女に抱き付いた。
目頭が熱くなって、どうしようもない。久々に感じた人肌は、どうにも熱く感じた。涙が溢れて彼女の肩を濡らさないようにしながら、ビビアナは腕の力を強めていく。
確かに、生きているのだと。生かされている自分が、それを放棄してはならないのだと。父の言うとおりに、全てを背負わなければならぬのだと。
「わたし、あなたを守るわ。ちゃんと、ウォルデールの民に恥じない生き方がしたいの。そうしなきゃいけない。だから……」
しかし、一人ではない。
「お願いベルタ。……わたしと一緒に、生きて」
ベルタもその震える指先を、ビビアナの背にゆっくりと沿わせる。この先の見えない人生に、微かな希望を見つけたのだ。




