04. 毒と鉛
それから数日の間皇帝は現れず、ビビアナも与えられたその部屋から出ることを禁じられていた。あるのは幼い子供に向けた童話や、詩の綴られた本ばかり。聖典もありはしたが、勿論読めはしない。脱走を試みて扉を開けようとしたところで、びくともしなかった。
ビビアナには最低限の生活が保障されているようで、自由はないが特に不便なこともなかった。しかしそれも食事をし、着替え、睡眠を取るだけだ。まるで人形のように。
「髪は、このままですか?」
着替えの際、唯一全くといって触れられない銀髪。視界の端で揺れるそれについてぎこちない帝国語で話題を振ると、背中のリボンを結んでいた侍女が言った。
「ご存知ありませんか? 成人するまでは髪を伸ばし、結い上げないのですよ。……フロレンツィア様はもう三年ですね」
全てを理解できたわけではなかったが、未成年は髪を結えないということらしい。なんとも不思議な風習である。三年。十五になるまで髪を結わずにいるだなんて、邪魔にならないのだろうか。
「そうなのですね」
けれども、疑問の言葉は口に出すには至らなかった。無難な返事をし、考える。
頭の溶けそうな日々を過ごして三日。皇帝の代わりにやって来たのは、女性にしては背が高く、気品に満ちた人である。
「お初にお目にかかります、フロレンツィア様。コリンナ・ルーダンと申します」
しっかりとした発音、挨拶。書物に載っている言葉そのままだ。ビビアナは初めて、帝国人の言葉をしっかりと聞き取ることができた。そして、自身の名前がまるで使い物にならなくなってしまったことも改めて認識した。
コリンナ。年は五十代前半ほどだろうか。堂々とした立ち振る舞いは母と似ていたが、その顔立ちは全く正反対のもの。
「本日より帝国語と、礼儀作法をお伝えさせていただきますので、そのおつもりで」
教育係、ということなのだろう。ビビアナは自身の心臓が次第に凍えてゆくのを感じた。まるで人間だけを入れ替えて、形だけは普段の暮らしに戻ってゆくように感じたから。
「返事は?」
鋭い言葉を投げかけられ、我に返る。
「……よろしくお願いします」
彼女は拙い帝国語を扱うビビアナを冷ややかな視線で見下ろしたが、それだけだ。皇帝のように乱暴な性格ではないらしい。
彼女はまず、一日のほとんどの時間を利用してビビアナに帝国の言葉を教えた。急いでいるのか、基本的なことよりも日常的な会話を中心に。単語などの多くは分かっていることを前提にされており、進みは早い。
確かに祖国でも帝国語は学んでいたが、そんなものは基礎の基礎。ビビアナはすぐについていけなくなった。突然省略される単語や、直訳してはならない言葉。まともに話せると思っていた挨拶でさえ、相手の立場によって通用しないものもあるのだと。
しかし、彼女の授業はそんな子供にまで厳しかった。
「先生、これは……」
思わずウォルデール語を口に出すと、手の甲に短い鞭を打たれる。
凍てついた視線が、彼女の瞳を貫いた。
「やめなさい! 女神が、あなたをこの大地の人間であると認めたのですから。それに反することは決して許されません!」
おそらく改宗を終えたからだろう、祖国の言葉を用いることは禁じられた。
お陰で一つの言葉を覚える度、祖国の言葉がまた一つ薄れていく。かと思えば二つの言葉がざらりと混じり、頭が割れそうだった。
礼儀作法も、棚に並ぶ本も、目にするものはずっと帝国語だ。世話をしに来る使用人たちも、ずっとその言葉を話す。誰も味方はいない。寄り添いはしない。そういう場所なのだ。籠はずっと狭くて、好奇の目で見つめる以外に、彼女に触れる者などない。
「もう四日目だというのに、どうして覚えられないのです? あぁもう、わたしもいつまでも授業ができるわけではないのてすよ!」
ビビアナは夜が来る度に啜り泣いた。家族が死んだ日から、こうして泣かない日などない。
じくじく痛む手の甲を濡らし、朝よ来るなと唱え続ける。それでも日は昇るのだから、帝国の信仰する女神さえ、皮を剥がせば皇帝のような悪魔であるに違いなかった。
これが、帝国で生きるということなのだろうか──一体、何のために?
覚悟なんてしていなかった。生きよと言われたから生きている。けれどもそれは、慰めでも励ましでもない。まるで呪いのようだ。ずっと、地獄なんて知らなかった。ぬくもりのない夜など、いつだって知りたくはなかったというのに。
神は、どうして突然にビビアナを見放したのか。
「フロレンツィア様、その文を読んでみてくださいな」
意味も分からない、発音だけの空っぽの言葉をなぞると、コリンナは満足そうに頷く。もしかするとそれは、抵抗も何もしなくなった彼女の、その子供離れした大人しい態度に対してのものなのかもしれなかった。
ずっと、眠りに落ちる寸前のように。頭は回らず、しかし感覚自体はいつまでも鮮明なのだ。
帝国にて二週間。少女の心は、既に崩壊を迎えようとしていた。
赤、赤、赤。鮮やかな鮮血が、純白のテーブルクロスを侵食する。
それは、かの国へ連れられてから一月後。夕食時のことだった。
「フロレンツィア様。どうなさったので……」
背後から近づいてきた侍女の一人が、ひっと息を止めた。薄味の皿やテーブルクロス上に散ったその紅を、彼女はようやく見つけたらしい。
──血。
自身の喉奥から吐き出されたそれに、祖国の悲劇が映る。熱い、痛い、息ができない。ビビアナは椅子から崩れ、体は何の保護もなく地に叩き付けられた。声が出ない。言葉が分からない。ただ喉を押さえて咳き込んだ。
自身に起こった異変と、流れ込んでくる祖国の悲劇に、ビビアナの体は痙攣している。侍女の一人は医者でも呼びに行ったようだが、他の二人はおろおろとビビアナを見下ろすだけだ。
指先までぶるぶると震える。体が使い物にならなくなってゆくのが恐ろしい。死ぬのかもしれない、いいや死ぬのだろう、とだけ思う。そして今更、家族の末路を考えた。彼らはきちんと埋葬されたのだろうかと。帝国人にも神がいるならば、それくらいの慈悲はあってもよいと、そう信じても間違いではないだろうか。
まさかこんなにも早く骨を埋めることになるとは。
しかし、それでよいのかもしれないと思った。
同じ年の子供よりは大人びているが、彼女もまだ十二。家族を失い、国を失い、大人に囲われ、精神は限界に等しかった。
生きよと、全てを託した父を裏切るのではない。運悪く殺されてしまったならば、皆も許してくれるだろう。
そんなことを、考えた。
けれどもそんな一時の安堵は、本当に一時で終わってしまった。
柔らかな寝台から身を起こして、自分の手で窓掛けをずらす。雪が降っていた。もうそんな季節かと。そう思ったものの、外になど出られないため実感が湧かない。
この目はあっさりと目覚め、朝日を映してしまった。死を覚悟した時間を嘲笑うように、それはよく目を焼いた。
花瓶の中の水を取り替えていた侍女が、毒を盛られたのですよ、目覚めてよかったなどと零すのを、彼女は静かに聞いていた。
「一人に、していただけませんか」
愛想のない主人に、侍女もまた無愛想に頷いて返す。
この国が優しくなどはないと、最初から分かっていた。しかし、己がこれほど弱い娘だったとまでは知らなかった。
指先で額や瞼、頬に触れる。死人のような温度。次に喉。あの焼けるような痛みが思い起こされる。ビビアナは確かに生きていた。
憎い、どこまでも憎たらしい。家族を惨い方法で殺した兵士たちも、それらを率い彼女だけを生かしたあの男も、一人生き残った自分自身も。
生きていることを残酷に思ったことなどなかった。まさか、苦しいだなんて。
「わたしは」この国でどうするべき?
空虚に吐き出されたその音は、まるで他人のもののように思えた。




