03. 赤い瞳の男
その後も兵士たちは数日間、同じようなことを繰り返した。どうやら帝国軍は来た道と別のルートを通って帰還するらしい。行きで見掛けた村や邸宅でも食料やら酒やらをひたすらに略奪していたのだろう。
国境付近の最後の町。ビビアナが馬車で大人しくしていると、兵士たちがようやく戻ってきた。手には剣の模造品と思われるものや、宝石の嵌められた装飾品などが握られている。他の大きな袋にもそのようなものが入っているのだろう。そういった光景にももう慣れてしまった。
「陛下がお戻りになるまで、こちらでお待ちください」
やっと帝国に着いたとき、ビビアナは手足を縛られて恐らく王城の地下牢へ入れられた。国の様子を見る暇もなく、閉じ込められてしまったのだ。大人しくしていろということらしいが、あまりにも無礼ではないだろうか。十二歳の女児にもそう分かるような扱いである。
石造りの牢には高い位置に一つ窓があったものの、日の傾き具合によってほとんど光は入らなかった。それどころか、地表に近い位置にあるらしいそこから小石や土が舞うこともしばしば。後は扉と壁に覆われている。圧迫感と不安を煽る造りだった。更には冷たく、罪人に対しては相応しい態度である。とはいえビビアナは元王族であり、更には何らかの罪を犯したわけではないのだ。強いて言うならば、帝国から見て敵国人という括りに入るのかも知れない。あるいは、敗戦国、もっと言えば亡国の娘などもはや無価値に等しいものなのだろう。
そこから罪人への拷問代わりに数日間は放置されるのだろうと思っていたのだが、その予想はあっさりと裏切られる。皇帝がやって来たのは、意外にもそれから一夜明けてすぐのことであった。
「六日振りだな」
残忍な赤薔薇は護衛も連れず、このむさ苦しい牢へ足を踏み入れた。手足の自由を奪われた小娘には何もできまいと、それ以前に心が生きているかも怪しいと。そうした蔑む視線を注ぐ。
「泣いていたのか」
ひっ、と喉が鳴り、胴がびくりとする。
ビビアナは王女として育てられた強かな淑女であったものの、所詮は子供であった。彼女の瞼は腫れ、口元にはもはや何かも分からない汚れが染み付き、あれだけ可愛らしかった顔は悲痛に歪んでいる。昨晩も、声を殺して泣いたものだ。
しかし、今は涙も出ない。泣けない。兵士たちの前ですら怯えていたというのに、この男の前ではまるで違う。躰の全てが負で埋め尽くされたように重いのだ。歯はがたがたと上下に鳴り、呼吸の拍は意識すればするほどに乱れてゆく。おかしいほどに、この躰は調子を崩してゆくのだった。
皇帝はそれに機嫌を損ねたらしく、ビビアナは覚悟を決めて目を閉じる──が、目の前の男は、簡単にそれを表へ出しはしなかった。
むしろ、くつくつと不気味な笑みを浮かべている。
「生かしてやったというのに、これほど怯えられてしまうとは」
この程度では剣を抜かないのだ。思いの外感情的にはならず、機会はきちんと選んでいるらしい。あまり意味のない殺しはしないということだろう。言葉を変えれば、この男がそれらしい理由を見つければすぐさま殺されてしまうということでもあるのだろうが。こういった反応自体は素直に受け取るのだ、きっと。なぜだか面白がっているようにも見える。
けれども油断はできなかった。ビビアナは知っていたのだ。目の前の皇帝が人であり、人でないことを。 人々の油断を誘い、そして自らの隙は見せまいとするようにわざと美しく造形されたようなその顔の裏には、きっと悪魔が眠っている。
男がそれでも耐えられなければ、あるいは王としての彼に逆らったならば、首を差し出すしかないのだから。
「まずは帝国語と、ここでの作法を学ぶといい。優秀な教育係を付けてやる。また吐かれてはたまったものではないからな」
やはりビビアナには聞き取れないような早さで言って、皇帝は笑う。子供が玩具に興味を示したような、時に悍ましさすら感じさせる純粋な笑みだった。
牢から出され湯浴みを済ませるように言われて半刻。ビビアナは城壁に囲まれた城の敷地内にある小宮殿の、小さな部屋へ通された。まるで高貴なる者を扱うのと同じように、傍には三人の侍女が付いている。
血と脂を洗い流した彼女に与えられたのは、一度洗っただけではまだ傷みが目立つ髪を飾る緑の宝石と、それと同じ色をしたドレスであった。
きっと高価なものだ。これまでの人生でも着たことがないような。しかし、その色は我がウォルデールの安らぎよりもずっと浅い。
「……お父様」
思わず母国の言葉が出てしまい、ビビアナを楽しそうに着せ替えていた侍女たちは首を傾げる。その、母国の人間と何ら変わらない顔立ちや仕草、優しげな雰囲気が気に障った。
「……出て行って!」
次の言葉、慣れ親しんだ帝国語はすんなりと聞き取れたようで、侍女たちは静かに下がった。
それが何より悔しくて、ビビアナは唇を嚙む。
彼女に与えられたのは二階の、特別眺めがよいわけではないが城との間にある裏庭が望める場所だった。その他は城壁か続いていて、閉鎖的。バルコニーはなく、体が決して通らないほどの窓があるだけであった。
侍女たちが挙動不審な娘を置いてあっさりと退出したのは、この部屋からの逃走が不可能だと分かっていたからなのだろう。
家具は最低限のものが並べられているのみであるが、ソファやテーブル、寝台は無駄に大きい。部屋自体は狭くないはずなのだが、圧迫感があった。
更にはカーテンや壁紙、家具の雰囲気にあまり統一性がなく、ちぐはぐな印象を覚える。急いで用意されたものなのだろうか。
小さな体には耐えられない屈辱と悲嘆に、思わず膝が崩れた。泣いてはならない。いけないと分かっていたのに、喉は熱を帯びる。
──どうしてわたしは、生かされたの?
新しい玩具のようなものなのだろう。全ては衝動的なもので、気まぐれに過ぎないのだとは分かっていた。しかし、それらしいきちんとした理由がなければ、幼い彼女には受け入れられそうにない。
ビビアナは煮え立つ喉を冷やすために呼吸を繰り返し、ぼんやりと皇帝の顔を思い浮かべた。
国、身分、家族。その次に奪われたものは、ビビアナ・デ・ワーレリット。尊厳にも等しいそれ、すなわち名である。
着せられたのは、婚礼の場でも着ないような無地の白いドレスだった。レースもフリルも一切なく、ただ厚い生地を被ったようなもので、肌の露出も最小限になるよう控えられている。なにより彼女には大きくて、ただでさえもうじき冬がやってくるというのに、これでは空気が通って居心地が悪い。
立て掛けてある鏡に視線を映すと、銀の髪に蒼白い肌。更に白い洋服では亡霊のような姿である。唯一生命を連想させる新緑の瞳さえ今は濁って見えた。
騎士らしき男らに囲われながら小宮殿の廊下を歩かされ、礼拝の間とでも呼ぶような部屋へ連れられる。
教会のような造りで、最奥には色とりどりのステンドグラスが嵌め込まれていた。一人の女性が、傍らで跪く男に花を手渡すという場面。帝国は女神信仰だと聞いていた。そのため、描かれているのはおそらくその女神なのだろう。
段が上げられた場所に位置する祭壇の前には、司祭らしき壮年の男が立っていた。小綺麗な見た目で、その顔には笑顔が張り付いている。
騎士の男に肩を軽く叩かれ、ビビアナは恐る恐る床に膝を付いた。結うことも許されなかった髪までもが地に張り付く。まるで、全ての動作を許さない蜘蛛の巣が張り付いているようでもあった。
暫くそうしていると、目の前で司祭が何かを語り始める。悠々とした口調で、あの皇帝と同じ帝国人だとはまるで思えない。それを聞いている間、ビビアナはただ跪いているだけであった。
「フロレンツィア。ここに……あなたが女神イェルの御許にて新たな名を賜り、それを赦されたことを宣言します」
最後に、その畏まった声が響く。フロレンツィアは、女性の名。イェルは、帝国が信ずる女神。そして理解する。
あぁ、名前すらも奪われたのだと。
姓は与えられなかった。必要なかったからだ。皇帝の新たな所有物。肩書きはそれだけで充分だったらしい。
フロレンツィアは、その人生を帝国に生き、その帝国にて骨を埋めることとなるのだろう。




