10. 鮮血を被った乙女
残酷な描写があります
向けられた視線は随分と刺々しいものであったが、あの男のものよりは随分と柔らかく感じる。空気感はあまり似ていないのだなと微かに思った。──あぁ、親子仲は悪いのであったか。側室の子供というだけでなく、性格も合わないのかもしれない。
今すぐにも剣を向けられそうな空気感の中、ビビアナは吐くべき息を呑んだ。
「そう堅くならずともよい。表を上げよ。……なんと、美しい娘だ」
しかし王は予想外の反応をして薄く笑う。周りの家臣らもそれに合わせて微笑を零した。
目が、合わない。
反応は悪くなさそうだが、息子と同じく調子が分からない。喜んでいるのか、怒っているのか、哀しんでいるのか、それとも楽しんでいるのか。あるいはそのような感情など、もとより持ち合わせていないのか。
ビビアナの不可解な視線に気がついたのか、皇帝はその乾いた薄い唇をそっと動かした。
「これまで閉じ込めてばかりですまなかったな。そなたのことは気にかけておったのだが」
優しげに飛ばされたその言葉がやけに胸に詰まる。気にかけていた? そう感じられるような心当たりは全くなかったが、無難に微笑みを作ることにした。
「暮らしぶりはどうだろうか。不自由はないか?」
とは言いつつ、彼女の抗議などは受け付けないのだろう。それもそうだ。ビビアナは何の身分もない小娘。
あなた様の仰る不自由というものを一つ一つ挙げるよりも、自由なことを数えた方が遥かに早いのですが。だなんてことは、決して言える立場ではない。
「そのようなことは。このわたしには勿体ないような待遇です。陛下には心から感謝しております」
そんなわけはないのに、嘘はするすると滑らかだった。恨みならまだしも、感謝したことなど一度だって。
「それはよい心がけだろう」
しかし、今更何の用だと言うのだろう。ビビアナを生かしたのは彼の息子の気まぐれで、この男が指示したことではなかったように思えたが。しかしあの頃は帝国語も完璧ではなかった。訳し方が異なっていた可能性もある。
──一体わたしに、何を求めているというの?
「ウォルデールはなんとも、美しい国であったな」
幾らかの沈黙の末、皇帝は口を開いた。どこか遠くを見つめて。
その言葉にだけは、ビビアナも強く頷ける。
国を潤すための戦争が悪だとは思わない。しかし、あんな風に国を殺されるなどとは思っていなかった。野蛮な帝国人は、父を、母を、兄を、姉を、そして民を。そう、どうしてあんな風に……。
「城の装飾にはウォルデールの石も用いているのだ。八年前に逝った妃も、かの国の首飾りを随分と気に入っていた」
妻を亡くしている、ということだろうか。それはあの男を生んだという側室の方か、あるいは。この男には何人の妻、どれほどの跡継ぎ候補がいるのだろう。
「左様でございますか」
事務的に返事をすると、男は目元を歪めて嗤う。
「そなたの瞳も、それに似ている」
そうは言うものの、皇帝はこちらを見ていなかった。
瞼が熱を帯び、震える。かつては王族としての身分を示したその緑。もう何の意味もないその色に。
「光栄にございます」
なんとかそう言いながら、ビビアナは美しい祖国を思い描いた。賑やかな城下。美しい宝石たち。南に広がる山地は空を支え、いつしか雪を被る。そこから春になると、雪解けの恵みが幾筋も流れてゆくのだ。一面に広がる若草はウォルデールの安らぎだった。
彼女は、父の大きな手が好きだった。賢く逞しい兄が好きだった。母や姉が時折口ずさむ、たゆたう春風に乗せた子守唄が好きだった。
だから、この国には腹が立って仕方がない。
いつまでも煮え切らない思いを、神はどう処理しろと言うのだろう?
「あれはよい地だ。緑豊かで、美しい石を持ち、穏やかな国だった。ああ、そなたの父も賢明な男であったな」
どの口が。そう罵ってやりたかった。けれどもそうしたところでウォルデールが戻ることはない。彼女たちは既に負けているのだから。
「そして」
王の目が初めて、ぎろりとこちらを捉えた。
年老いたその瞳。しかしどうしてか皮膚が泡立つ。
「──そして、実に愚かであった」
呆れたような物言いに、血液が急速に温度を下げてゆくのが分かった。
──愚か、愚かですって……?
どっと、皮膚の上に汗が浮く。困惑と怒りが染みてゆく。
「そうだ、そなたは知っているだろうか? ウォルデールの王冠、王座を示すそれの持つ価値を」
しかし王は目の前の娘の思いに気がつかぬとでも言うように、ぶつぶつと言葉を並べた。
──王冠? 何を……。
ウォルデールの鉱山からとれる石たち、そしてそれらで彩られる装飾品はどれも一級品だ。しかし彼が言うのは、恐らくそういうことではないのだろう。そんなものは、わざわざ面と向かって問うことではないのだ。
王冠とは多くの国が用いる、王の象徴であるという。しかし、ウォルデールにはそれが存在しない。ウォルデール王は他の国と異なり、王笏によって王位を得る。冠は王座を示さないのだ。
「どういった、意味でしょう」
嫌になる。帝国人は回りくどい言い方しかできぬのだろうか。
ビビアナが帝国語を学ぶ際に苦戦したのはその部分だった。どの国の大人も、言葉を言葉の通りに使おうとしない。大人になればなるほど、高貴な者であればあるほど、少しの言葉に多くの好奇と苦みを隠す。
「なるほど」
皇帝は伸ばしているであろう髭に触れ、目元を歪めてみせた。
瞬間、空気が一変する。
「だが……知らぬとは言わせぬぞ、亡国の姫君よ」
思わず肩が跳ねる。その声は彼女の骨にまで響いた。地を這うような鈍い音。
先程までのくたびれた様子は、もはや窺えない。突如現れた高圧的な態度。なるほど本性はこちらかと、もう一人の冷静な自分が溜息を吐く。しかし勝ったのは恐怖の方で、指先一つ動かせなかった。
「そなたの国を征服し、実に二年半が経った」
退紅の細い毛髪を乱雑に混ぜながら、皇帝は立ち上がった。苛立つように靴音を立て、彼女の恐怖を煽る。
「……あぁ、おかしいとは思わぬか! 探しても探しても、一向に出てこようとはせぬ」
皇帝の言葉は徐々に荒々しくなり、彼女の頭を雷雨のように打ち付ける。
「いっ」
反射的に喉が絞られた。突如、視点が大きくずれる。
「あれが連れてきた小娘をいたぶるのは憚られたが、この王の時を無駄にした罪は重いだろう」
旋毛に新鮮な痛みが走っている。目が開けられない。
王が彼女の髪を摑んで上に向けさせたのだ。血は流れていないようだが、額が露わになっており、汗が滲む。
「言え! そなたの国は、あれを一体どこに隠した!」
痛みを堪えながら瞼を持ち上げると、感情的な皇帝の顔が、すぐそこにあった。
「……な、んの、ことでありましょう」
理不尽さに目眩がしそうだった。どんなに責め立てられようと、何も知らぬのだからそうするしかない。
「確かにわたしは、仰るとおり、王族の血筋、でございますが。陛下のご期待には、きっと、応えられ、ません……!」
「しらを切るか!」
あまりの痛みに涙が滲む。ビビアナだって、応えられるものなら応えたかった。
「いいえ。──なんの力も持たない小娘を暴力で捩じ伏せる、というのが、帝国のやり方なのでしょうか。まあわたしったら、何も知りませんでしたわ。お恥ずかしい」
せめてもの抵抗で、静かに火花を散らす。すると皇帝は不愉快そうに目元を歪めた。
そこでようやくはっとする。
微かに動かした視界に入るのは、皇帝と家臣らが腰に吊す長剣。
「愚かな。家族のように無様な死に方を望むか!」
おかしなことを。あんな風に家族を殺したのは、あなたたちなのに! そのような言葉が口を出そうになったが、形にする前に、男の腕に力が入った。
摑まれていた髪を払われ、体が地に叩き付けられる。腕で頭を守ろうとしたものの、間に合わなかったようだ。頭や肩に悍ましい衝撃が走る。誰かの声か、それとも床から放たれた音か、不思議な鈍さが木霊した。
「小国風情が、不躾な……」
いっそ気絶した方がよかったのに、とおもう。それでも意識は飛んでくれなくて、頭の打った辺りを押さえながらゆっくりと上半身を起こした。それでも耳鳴りは続いていて、痺れと共に視界がぐらぐら揺れている。
そこから暫く、彼女は動けなかった。
体と意識が切り離されているような感覚。思考が働かない。時がぬるく止まったかのように。頭がまっしろで、きりきりとした音以外はなにも。鮮度の落ちた五感。つかめない夢のように。するすると。
放心。
その時のビビアナの頭に浮かんでいたのは、困惑だった。
痛む頭を撫でる。ぬるりと滑った。
──いたい。な、にが、起きて……。
これまでに殴られたことも、蹴られたことだってない。鞭を打たれたことはあるが、これまでの痛みではなかった。
「やはり躾が足りなかったか。この、愚か者め!」
肩を蹴られ、よろめく。不思議なほどに、何も感じなかった。事態が飲み込めない。
皇帝の顔は赤く赤く、血が詰まっているよう。
いっそ滑稽なほどに現実味のないその光景に、自分の両眼が信じられなくなる。
そして気がつけば、彼の腰元の剣がぎりりと身を出そうとしていた。どうやら皇帝は、瓜二つの息子よりも遥かに短気であるらしい。
「陛下、いけません!」
彼女が冷静になるよりも先に声を上げたのは、意外にもカーティスであった。しかし皇帝はすっかり激高しており、そのようなものに意味はない。
二年半もビビアナを生かしていたのだ。恐らく何らかの理由があって。ならば、何も考えずに彼女の首を刎ねるということはないかもしれない。しかし、腕の一本、目の片方、足の腱、死なない程度に痛め付けられる可能性ならば、十分にある。
──よけな、ければ……。
彼女の思考は多少の冷静さを取り戻したものの、体はふらつくばかりで、まともに動きはしなかった。
その銀の身が完全に露見するという瞬間。
背後から、その緊張を断ち切る不自然な音が聞こえた。
「何だ」
そう呟き、皇帝も手を止める。ぼんやりする頭だけを動かし振り返ると、あれだけ重々しかった扉が開かれていた。それも来客自らの手によって。しばしの間静寂が訪れる。
まずそれを破ったのは、この場の支配者である皇帝だった。
「イェンス。貴様、何をしに来た!」
先程までの勢いのまま怒号を吐き、現れた男を睨みつける。
ビビアナは思わず身震いした。見えるのは、血に濡れたような赤い髪。そしてそれよりも更に濃い瞳。
生々しい恐怖が、彼女の意識を完全に覚醒させる。
「お久しぶりです。皇帝陛下」
新たな来客がそう告げたのを、皆黙って聞いていた。
瞬きなんてできない。いつも高圧的な態度を取っていたものだから、そのように丁寧な言葉遣いができるとは思わなかった。
「イェンス……」
皇帝が呼んだその名を、唇でなぞる。イェンス。慣れない響きが身体中を巡り、体温が下がるのを感じた。
ばち、と火花が散る。目が合った。
かつかつかつ、と、イェンスと呼ばれた男はこちらに歩みを進める。部屋に焚かれた炎をてらてらと反射するその切っ先が、彼女の精神をぞわぞわと撫でつけた。
知っている。どこかに既視感を覚えていた。あの時のように、まるで血を求める獣のようだと。
「何の用だ? 無礼な。母親があれなら子も子だな。やはり王位は……」
皇帝の言葉が半端な場所で途切れる。彼女の唇の隙間からも、あ、と微かに声が出た。
「お静かに。息子として、父の苦しむ姿は見たくありません」
嘘吐き。
思わず口元を押さえる。
鮮血を欲していた長剣は、皇帝の腹部を貫いていた。破れた箇所からじわりと広がる赤い染み。切っ先にも紅が伝い、中央に敷かれた絨毯の上に染み込む。赤を帯びたそれは艶やかに輝き、その場の全ての目を奪っていった。
皇帝ははくはくと唇を動かし、息子の肩に手を置いてゆっくりと目を合わせる。怒りすらをも滲まることができない老けた目元は、頼りなく震えていた。
つい先程までビビアナを痛めつけていたとは思えないほどに、弱々しい。
沈黙に退屈したように剣が引き抜かれると、皇帝の体に巡っていたその血液が散る。
すぐ足元で腰を抜かしていたビビアナにも、その飛沫は付着した。
皮膚の上に気持ちの悪い温度が広がる。睫毛にも落ちたようで、視界の隅が何かに覆われていた。
先程まで王座に身を預けていたその男が、膝から崩れ落ちる。
その手は縋り付くように息子の体を這っていたが、やがてそれも力を失った。
いっそ喜劇だと言われた方が信じられるような、その光景。
──その挨拶がほんの少し先であれば……。
そうだ。確かに彼はそう言った。しかしこんなこと、誰が予想できただろう。
目眩がする。また吐いてしまいそうだった。
「フロレンツィア様!」
遠くでカーティスの声がする。けれども眼球が彼の輪郭を捉える前に、彼女の意識は落ちていった。




