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皇帝陛下の傍飾り  作者: 白川雪道
一章 珠は栄華に眠らんと欲す
1/11

01. 悪魔は囁く

残酷な描写があります




 陽大陸暦一五〇五年。


 英雄ヴァレリオ・ニルディー率いる革命軍により、大陸を侵していた悪夢が終わった。五百年続いた帝国の崩落が、朝日を蘇らせたのだ。かの国の闇に落ちた国々へ次々に夜明けが訪れ、彼らは自由を手にした。


 それは冬の終わりのこと。帝都は陥落し、皇帝も革命軍の勢力に押され戦いの末に命を落とした。独裁を敷いた王家は倒れ、闇と深く入り組んだ貴族家も力を失い、帝国の領土は一度意味を持たぬ地となる。

 皇帝の死後、三人いた皇妃の一人は国を憂い自害し、もう一人は知らぬ間に城から姿を消したという。


 そして彼女──フロレンツィア。王宮の毒蛇。銀の髪を靡かせたその悪女。そして皇帝の唯一の寵妃として知られた最後の皇妃。彼女の生涯については、その存在以外に一切の記録が残されていない。




 ・・・




「初代ジュリアーノ王は東大陸出身の旅人でした。彼は貧困の生まれで、奇跡の地を求めて大陸をどこまでも彷徨い続けたのです。そして辿り着いたのが、この緑溢れる豊かな地。父なる神は長旅の褒美として、彼に煌緑(こうりょく)の栄冠を授けました。守り続けたならば、栄冠は必ずや助けになるだろうと。彼はその冠に不思議なまじないが込められていると信じ、聖なる力のもとでウォルデールを建国したのです」


 滑らかな男の声が、その説明を聞く少女に睡魔を運ぶ。頭がぐらぐらと揺れ、集中などとてもできそうになかった。


「そこから現代に至るまで、王は王笏によって定められています。栄冠は今も王家に、姫様の父君によって大切に守られているのですよ……ビビアナ様?」


 父に雇われた教師の男が、うとうととしていたビビアナの額に触れる。まだ十歳にも満たない頃の記憶だ。


「ひゃっ」

「熱はないようですが……となると、眠くなってしまったのですね? もう少し頑張れますか?」


 問われ、ビビアナは何度も頷きながら答える。


「ええ勿論! ごめんなさい、先生」


「神は常にこちらを見ておられます。正しい行いをしていれば、栄冠がきっと姫様をお助けするでしょう。ですから、授業には集中しましょうね」

 焦って佇まいを正した王女に、教師は苦笑を零した。



 ウォルデールは大陸の中でも鉱石の豊富な国であった。東部には鉱山が多く連なっており、国内外での流通が盛ん。城下には宝石の加工職人や商人が多く店を持ち、質のよい装飾品が人気だった。


 そして、そんな国で王女として生まれたビビアナも、大勢の人間に傅かれて生きていた。目覚め、着替えをし、食事を終えて授業を受ける。侍女や執事や教育係、そして優しい乳母……常に人目があったものの不満はなく、むしろのびのびと暮らしていた。勉強も嫌いではなかったし、ビビアナは特に国外のことに興味があった。自国と違う文化には新鮮さを感じ、他国から輸入した骨董品を眺めるだけでも心が躍る。知識を通して外の世界を冒険できるのは楽しかったし、勉学は子供ながらの好奇心をよくくすぐったのだ。


 両親は末の娘に対し格別に甘く、楽しめるのは今のうちだと蝶よ花よと着飾らせ、よく玩具や本を与えた。子供にはまだ早いようなエメラルドのネックレスも、とてもきらきらきていてビビアナのお気に入りだ。


 兄と二人の姉とは年が離れていたけれど、その分存分に甘えられて。姉たちの膝の上で絵本を読んでもらったり、兄には無理を言って剣の稽古を見せてもらったりもした。そうした時間のために、時々大好きな授業をも抜け出していたことは、小さな王女の小さな秘密である。


 そして、三歳年上の従兄は小さな従妹にいつも付き合ってくれた。悪戯好きで我儘だが可愛げのある、小さな妹に。幼い頃は彼を兄と慕って付いて回ったものだった。公爵家の令息であった彼は父である公爵の仕事に付き添って定期的に登城し、泣き虫な姫とよく遊んでくれていたのだ。まだ何も知らない子供だった頃の記憶は、彼ばかりである。時々我儘を言ったり泣いたりして困らせてしまったこともあったけれど、彼はいつもビビアナの頭を撫でてくれた。


 皆のことが好きだった。幸せだった。満たされていた。そうとしか思えない日々が続いていたのだ。ここにいれば不幸なことなんて何一つないのだと、本気で思っていた。



 ウォルデールが滅びたのは、陽大陸暦一四九五年。ビビアナが十二歳となる秋の終わりのことだった。西の国境にある森を越えた先。そこで力を付けた帝国が突如として攻め込んできたのである。


 ビビアナは家族と共に、何度だって祈りを捧げた。しかし、神は応えようとしない。


 結果は火を見るより明らかだった。村や町は焼け爛れ、城下には兵や市民の死体が転がった。僅か五日にして国は死んでしまった。

 両親や兄、姉たちは目の前で殺された。


「帝国軍に侵入を許し、多くの民を死なせてしまった。私たちはこれ以上の犠牲を出さぬよう、国の主としての責任を取ろう。だが、ビビアナ。お前はまだ十二だ。よく聞きなさい。そのような幼い娘は、我々と同じ運命を辿るべきではない。これは王の最後の勅命、いいや、父としての願いだ」


 城の大広間で父が人差し指を立ててそう言い、上の兄と姉も頷いていた。彼らは最後の王族に相応しいウォルデールの緑、安らぎを纏って堂々としていたが、逃走時に目立たぬようにと茶のドレスを着せられたビビアナは怯えるばかり。


「ビビアナ、お前だけは生きのびなさい。何があってもね。そしていつか全てが終わった時、ここへ戻るのだ。栄冠は、お前を待ち続けるだろう」


 ──その栄冠が、わたしたちを助けてくれるんじゃないの? 今じゃないなら、一体いつ?


 そう思ったものの、彼女はなんとか頷いた。しかし、その王女を導いてくれるような家臣や使用人はいない。皆帝国に恐れをなして逃げ出したか、既に王家のために戦い、死んでしまったのだ。彼女は一人で逃げねばならなかった。


 その後彼女は王族に伝わる、脱出用の地下通路へ続く大時計の下の扉に入れられた。けれども決意は揺らぎ、そこで素直に逃げることなんてとてもできず。


 そして、扉の細い隙間から愛する家族の最期を見た。


 瞬き一つしなかった。


 彼らは実に残虐な殺され方をした。まず殺されたのは父である。王笏は散々踏み付けられ、ウォルデールの象徴は一瞬にして粉々になった。一番上の兄は何度も胸を刺されて死んだ。母は無抵抗であったにも拘わらず足の腱を絶たれ、痛みに悶え叫びながら首を絞められて死んだ。二人の姉は兵士たちに玩具のように扱われた。最初のうちは抵抗していたものの、複数の男たちに押さえられ、いつしか抵抗を諦めた。いいや、顔を散々殴られて、血や腫れた肉で息を詰まらせて死んだのか。


 皆最後には切れ味の悪い剣で首を落とされ、国の長としてなんら相応しくないような死を遂げた。王家の者が、たった一人の末の娘の生を誤魔化すために、彼女を守って死んだのだ。


 しかしビビアナは逃げることのできないまま、その光景を見ていることしかできなかった。否、逃げようなどとの思いは何度だって頭を過った。けれどもいつの間にか彼女は地に膝を付けており、そして床とスカートをみっともなく濡らしてしまっていたのだ。生きるためにと持たされた宝石袋を力なく手にしたまま。

 怖かった。ここで死ぬのだと、分かってしまった。


 そして幾分が経った時──かつ、かつ、かつ。遠くない距離で足音が聞こえる。誰かが新しく城に侵入してきたのだ。小さな隙間から視線を動かすと、それは首から下を外套で覆った男だった。


「派手にやったな。戦利品はどうしようと構わんが、女は生かせと言ったはずだ」


 ──派手、女、生きる? いいえ、生かせ? ……分からない。


 起伏の浅い、どこか若さを残した声。帝国の言葉だ。近隣国の公用語はある程度習っていたが、所詮は子供の教育。簡単な世間話ができるくらいである。それに早口で、大まかな単語ごとにしか聞き取れない。


「ここは空気が悪い。……いや、待て。ウォルデールにはもう一人、幼い娘がいたはずだ」


 男は目の前に転がる死体を冷酷な目で見つめ、さほど興味もなさそうに言う。もう一人──今度はきちんと意味が分かった。


 燃えるような、あるいは血を浴びたような赤髪。瞳はそれよりも深い色をしていた。まるで、血を吸って花開いた薔薇のよう。美しいが、その棘は恐ろしい。


 ──皇帝だわ。お父様が仰っていたもの。野蛮な帝国の主は、さながら血を好む悪魔のようであると。


 ひゅっ、と喉から細い音が鳴り、ぶるぶると震えた体からは何もかも力が抜けた。そして、手の内から袋が落ちる。


 小娘一人が一生暮らしていけるほどのものが入った袋だ。中身の宝石は小さくはなく、そしてそれが幾つも転がって、ひんやりとした地で擦れる。もう一度息を吸った時にはなにもかもが遅かった。


 そこか、と矢を打たれた気がした。それで瞳を貫かれたような錯覚に陥った。


 咄嗟のことで鍵も掛けられていなかった扉は楽々と開かれ、涙を浮かべた少女をその冷酷な目が捉える。なんて恐ろしい。人を殺すことなど、なんと思っていないような冷酷な目だ。血を求め乾いた獣だ。


 ビビアナは思わず首を押さえた。斬られてしまうと思ったからだ。全身の皮膚が泡立ち、擽ったく痛い。人の死を見つめ、そして己の死を迎えるのだと悟った体は、やけに新鮮で生々しい恐怖を覚えていた。子供ながらに本能が訴えてくる。逃げろ、と。


 しかし、その目は幼い子供を捉えて離さない。動かず、殺しもしない。


「小さいな。幾つだ?」


 言葉は分かる。年齢を聞かれた。ただそれを問われただけなのに、身体中の毛穴から冷水が流れ出すようだった。


「言え」


 答えなかったのではない。唇も、指先も、その問いに応えることができなかった。


 どこかに救いを求めて視線を下げると、皇帝がその左手に、何か赤黒い塊を握っていることに気が付く。


「あ……」


 男は、長女の首を持っていた。艶やかで美しかった長い髪を摑んで。いつの日か儚い御伽話を語ってくれた薄い唇は、もはや動くことはない。ビビアナ、と名を呼ぶことすらしない。もう大丈夫、怖かったでしょうと微笑みかけることもないのだ。


 姉は最期まで、その口で兵士たちに慈悲を求めていた。もうやめて、いっそ殺してと啜り泣いていた。


 何かが込み上げ、思わず口元を押さえる。口の端から酸っぱい何かが溢れ、やがて胃からも酸の強い液体が逆流してきた。少し前、父から家族で囲む最後の食事になるだろうと差し出された白いパンに、身を清めるための果実水。胃液とそれに浸された白く小さな欠片は、余すことなく吐き出された。口を押さえていたせいで、様々な方向に散らばる。目の前の皇帝のローブにまで。


 もう一度、その首を見た。姉の目は腫れて閉じていたが、目が合ったように感じる。その瞼はこちらを睨んでいるようにも見えた。ところどころに赤が散っており、唇から頬に掛けての飛沫は、まるで流行の紅を塗って擦ったようにも。何より、健康的であった皮膚はすっかり色を失い、ふくよかであった頬はこの一瞬で骨に張り付くように痩せこけて見えた。


 そうして、もう一度えずく。しかしもう、体には何も残っていなかった。後は涙を流すしかない。


 ぼろぼろと泣く子供に皇帝は不愉快そうに口角を歪め、その首を彼女の肩に投げ付けた。重いとも軽いとも言えない衝撃が肩を打つ。


「ひっ」

「王の所有物を汚したな」


 その凍てついた瞳に殺意を孕ませながら、男は着ていたローブを払って床に投げ付けた。それを踏み付け、そして腰の鞘から剣を引き抜く。その鋭い輝きが、ビビアナを極限にまで追い詰めた。


「も、しわけ、け、ござ」

 子供ながらに頭を下げたが、咄嗟に帝国での謝罪の言葉が出てこない。怯えて震え上がった十二歳の子供にできることなど、やはり泣くことしかなかった。無力で、何もかもが怖くて仕方がない。


「顔を上げろ」


 ビビアナは言われるままにそうした。赤い目を見上げると、やはり、身がすくむ。それでも何とか息をした。生きているのだと確認するために。吐瀉物の張り付いた髪や服も、先程の姉の生首から付着した肩の血糊も、何もかも忘れてしまおうと努力した。


「哀れで、そして汚いな。お前も、この女も。……だが、お前たちの持つ色は美しい。殺してしまったのが惜しいほどにな。もっとも、殺したのは俺ではないが」


 意味も分からず、恐怖で視線は安定しない。皇帝はそんな娘を映す目をじっと細めた。


「喜べ、お前は運がよかった。俺がお前を見つけなければ、もしくはここに隠れていなければ、お前も愛しの家族と共にああなっていたかもしれぬのだから」


 そっと背後を見た皇帝の視線を恐る恐るなぞると、帝国軍の兵士が何人か倒れているのに気が付いた。ウォルデールの王族たちは抵抗もせず一方的に殺されたため、帝国兵がやったに違いない。なぜ? ──姉二人の死体の近くに横たわっているから、彼女らの体に馬乗りになっていた者たちなのだろう。

 直接流れてくる、生臭いほどに凝縮した血肉の香り。空になった胃の中に充満して、これも気分が悪かった。悪夢だ。人として生きるために忘れていた獣の臭いだ。人から漂うべきものではない。決して。


「お陰で気が変わったぞ、亡国の娘よ」


 皇帝は剣の切っ先を地に当てて屈むと、姉の生首を握っていた左手でビビアナの銀髪を一房掬った。血の臭いが一層濃くなる。


「特別に選ばせてやる。王女としての矜持を捨てて帝国で生きるか。最期まで抗い、愛する家族と共にここで死ぬか。お前が聡い人間であるならば、選ぶ必要もないとは思うが」


 やはり早口であったが、ビビアナには──帝国で生きるか、このまま死ぬか。選べ──そのように聞き取れた。


 生きるか、死ぬか。けれどもそんなものではない。生き地獄で更なる屈辱に耐え抜くか、諦めて死ぬかだ。どちらも苦痛であることには変わりない。


 それならばいっそ、死にたい。いいや、家族と離れたくないと、その時は思ったのだ。けれども、次に過ったのは別のこと。


 ──生きのびなさい。


 自分の人生を捨ててまで、生きよと、父は彼女に言ったのだ。他の全てを犠牲にして、希望を捨ててまで彼女を生かした。それが幼子が背負うには重すぎる鉛だと知っていながら、生きるための道を指し示したのだ。


 だからビビアナは、吊された細い糸に縋り付いた。




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