第96話:兄の休息と、聖女の告白
静寂。
世界が歌い、神々の庭園が顕現した聖域に、穏やかな、しかし絶対的な静寂が満ちていた。
崩れ落ちた兄アルフォンスの体を、駆け寄ってきたローランとリオンが、その肩に抱きかかえる。
「……見事、でしたぞ。アルフォンス様」
歴戦の賢者ローランの、震える声には、賞賛を通り越した、畏敬の念が宿っていた。
その、あまりにも神聖な光景を前に、神殿騎士団は、完全にその動きを止めていた。
指揮官であるミカエラは、武器を捨て、地に膝をついている。副官であるレジスは、目の前で起きた、自らの信仰の理を根底から覆す奇跡に、ただ、呆然と立ち尽くすだけだった。
「……どう、するんだ……我々は……」
騎士たちに、絶望的な動揺が広がる。
その、混乱を収めたのは、ミカエラ自身の、静かな、しかし、凛とした声だった。
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。その顔を濡らす涙の跡は、彼女の神々しさを損なうどころか、人間としての、気高い美しさを与えていた。
彼女は、自軍の騎士たちに向かって、一度だけ、静かに手を横に振った。それは、「剣を収めよ」という、絶対的な命令だった。
そして、彼女は、アルフォンスの父とローランが守る、村人たちの前へと、ただ一人、ゆっくりと歩み寄った。
騎士たちが、主君を案じて身構えるが、彼女は再び、それを手で制する。
彼女は、領主である父の前に立つと、これまでの、傲慢な侵略者としてではなく、ただ一人の、罪深き求道者として、深く、深く、その頭を下げた。
「……ライナス卿。そして、この聖地に生きる、全ての方々へ」
その声は、もはや、冷たい審判者のものではなかった。
「……私は、間違っておりました。**私が信じてきた神は、ただ人を裁くだけの、冷たく厳しい光でした。ですが、ここにある神は……自ら血を流し、人を守り、大地を育む、あまりにも温かい光だった……。本当の聖域は、ここにあったのです**」
彼女は、顔を上げた。そのサファイアの瞳には、一点の曇りもない、真実の光が宿っていた。
「この戦いは、我々の、完全な敗北です。この『熾天使』ミカエラ、神の御前に、そして、あなた方の前に、我が罪を告白し、全ての剣を、ここに納めます」
彼女は、そう言うと、自らの腰に佩いていた、美しい白銀の長剣を、鞘ごと解き、恭しく、父の前へと差し出した。
それは、騎士が、その魂そのものを明け渡すに等しい、絶対的な降伏の証だった。
数日後。
ライナス男爵領には、奇妙な、しかし、穏やかな平和が訪れていた。
ミカエラとの誓い通り、神殿騎士団は、村から少し離れた場所に野営を続け、一切の敵対行動を取ることはなかった。そして、ミカエラ自身は、一人の見習い庭師として、村人たちと共に、あの奇跡の庭園で、静かに汗を流していた。彼女は、ただ、知りたかったのだ。この、温かい奇跡が、どのような理で成り立っているのかを。
その頃、アルフォンスは、自室のベッドの上で、ゆっくりと目を覚ました。
全身を、心地よい疲労感と、柔らかなシーツの感触が包んでいる。
「……目が、覚めましたか。アルフォンス」
最初に目に映ったのは、心配そうに、しかし、これ以上ないほど誇らしげに、自分を見つめる、母の優しい笑顔だった。
「アル兄ちゃん!」
フィンが、部屋に飛び込んでくる。その瞳は、もはやただの憧れではない。絶対的な英雄を見る、キラキラとした輝きに満ちていた。
「村のみんな、言ってるよ! アル兄ちゃんが、僕らの村を、守ってくれたんだって!」
はにかむアルフォンスの元へ、父とローランも訪れた。
父は、息子の手を、強く握りしめた。**そして、生まれて初めてするように、その不器用な腕で、逞しくなった息子の肩を、強く、強く抱きしめた。**
「……お前は、ただの戦士ではない。この村の未来を、その知略と覚悟で切り拓いた、真のリーダーだ。よく、やってくれた。……我が、誇り高き息子よ」
父からの、初めての、絶対的な承認の言葉。アルフォンスは、込み上げる熱いものを、必死にこらえた。
その日の夕刻。
歩けるまでに回復したアルフォンスは、一人、弟が眠る部屋の、扉の前に立っていた。
彼は、眠る弟に、静かに語りかけた。
「……やったぞ、アーク。あんたの聖女様、すっかり、俺たちの村に絆されちまってる。あんたの設計図通り、いや、それ以上の結末だ」
彼は、一度、言葉を切った。
「俺、守れたかな。お前が、命がけで創ってくれた、この陽だまりを。……約束、守れたよな」
その、魂からの問いかけに、応える者はいない。
はずだった。
ふわり、と。
アルフォンスの頬を、信じられないほど、優しく、温かいものが、撫でた。
彼が、驚いて顔を上げると、部屋の扉が、僅かに開いていた。
**そして、その隙間から、一本の、とても小さな、しかし、確かな意志を持つ手が、伸びてきて、彼の、震える手に、そっと、触れていた。**
**その手に触れた瞬間、アルフォンスの魂に、戦闘の疲労も、心の傷も、その全てを洗い流すかのような、どこまでも優しく、そして懐かしい、陽だまりそのもののような温もりが、流れ込んできた。**
アルフォンスは、息を呑み、ゆっくりと、扉の隙間を覗き込む。
ベッドの上で。
雪と金が混じり合った、神秘的な髪を持つ少年が、その、森の深淵と、二本の世界樹の叡智を宿した、深緑と白銀の瞳を、ゆっくりと、開けていた。
そして、その、乾いた唇が、数ヶ月ぶりに、世界で最も懐かしい響きを、紡ぎ出した。
「……うん。見てたよ」
その声は、まだ、か細く、掠れていた。
だが、その瞳には、兄の、あまりにも気高い戦いの全てを、見届けた、絶対的な誇りと、感謝の光が、確かに宿っていた。
「……お帰り、兄さん。――**僕の、英雄**」
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