第95話:兄の盾と、涙する聖女
夜明け。
朝霧に包まれた聖浄樹の苗床は、まるで、この世ならざる聖域のように、静まり返っていた。
その中心で、二人の戦士が、静かに対峙する。
一方は、純白の鎧に身を包み、その手に握る聖剣から、絶対零度の闘気を放つ『熾天使』ミカエラ。
もう一方は、黒鉄の鎧を纏い、その左腕に、陽だまりの紋章が輝く大盾を構える、辺境の守護者アルフォンス。
言葉は、なかった。
先に動いたのは、ミカエラだった。
彼女の動きは、もはや人の域を超えていた。まるで、水面を滑る白鳥のように、音もなく距離を詰め、その切っ先から放たれるのは、寸分の狂いもなく急所を狙う、完璧な**『聖剣技』**の連撃。一つ一つが、必殺の威力を秘めた、美しき死の円舞。
だが、アルフォンスは、その全てを、受け止めた。
キンッ! カンッ! ギャリリィィ!
甲高い金属音が、聖域に響き渡る。彼は、一歩も引かない。いや、引けない。その足は、もはや彼一人のものではない。この大地に根を張る、全ての生命と繋がっているかのようだった。
彼が構えるは、ダグが魂を込めて打ち上げた**『陽だまりの心臓』**。ミカエラの聖なる剣撃が盾に触れるたび、その衝撃は、盾の中心にある竜骨聖樹の紋章に吸い込まれ、まるで大地が呼吸するかのように、足元の土へと、静かに流されていく。
ミカエラは、戦慄していた。
(……なんだ、この男は。この盾は。私の剣が、まるで泥沼に捕らわれたかのように、その威力を~~殺されていく~~吸い取られていく……! ただ硬いだけではない。私の『聖』の力そのものを、この大地が貪っているというのか!?)
戦いは、熾烈を極めた。
ミカエラは、剣に聖なる光を纏わせ、その一撃の重さを、さらに増していく。アルフォンスの鎧が悲鳴を上げ、その口の端から、一筋の血が流れた。
その、鮮血が、苗床の乾いた土に、ぽつりと落ちた、瞬間だった。
**ミカエラは、自らの目を疑った。血は、土に吸い込まれ、汚れた染みとなるはずだった。だが、彼の血は、まるで大地が待ち望んでいた慈雨であるかのように、土に、温かく、受け入れられていく。**
**そして、奇跡は、静かに、芽吹いた。**
血が染みた、その一点から、まるで早送りしたかのように、一本の、純白の百合が、瞬く間に花を咲かせたのだ。その花弁は、朝露に濡れ、穏やかな生命の光を放っていた。
「……小細工を!」
ミカエラは、その不可解な現象を、異端の幻術と断じ、さらに攻撃を激化させる。
アルフォンスは、歯を食いしばり、ただ、耐えた。傷が増えるたび、血が流れるたび、彼らの足元で、次々と、色とりどりの花が、まるで彼の覚悟に応えるかのように、咲き誇っていく。
戦場は、いつしか、血と鉄の匂いではなく、むせ返るような、生命の香りに満たされていた。
そして、ついに、アルフォンスの膝が、大地についた。
鎧は砕け、全身は満身創痍。もはや、盾を構える腕は、意志の力だけで、かろうじて繋がっているに過ぎない。
「……そこまでです、異端者よ」
ミカエラは、その聖剣を、天に掲げた。彼女の、最後の、そして、最大の神罰を執行するために。
「神の御前に、ひれ伏しなさい!」
絶体絶命。
だが、アルフォンスの瞳から、光は消えていなかった。彼の口元に浮かんだのは、絶望ではない。自らの設計図が、完璧に完成したことを確信した、血まみれの、至上の笑みだった。
**彼は、残された、最後の力の全てを、その魂の全てを、一声の雄叫びに込めた。**
**(聞こえるか、アーク! これが、俺たちの答えだ!)**
「――喰らえ! これが、俺たちの陽だまりだァァッ! **目覚めろ、『陽だまりの心臓』**!!」
ミカエラの聖剣が振り下ろされる。アルフォンスの盾が、それに応える。
二つの、絶対的な『理』が、激突した、その瞬間。
**世界が、歌いだした。**
アルフォンスとミカエラの決闘が放出した、凝縮された生命エネルギーの全てを吸い上げた、聖浄樹の苗床が、一斉に、覚醒したのだ。
ズズズズズンッ、と、大地そのものが、歓喜の産声を上げる。
苗床から、何十本もの聖浄樹が、天を目指して、爆発的な速度で成長を始めた。それは、もはや木ではない。緑色の、生命そのものが凝縮された、巨大な光の奔流。
ミカエラが展開していた、村を覆う金色の『聖域』のドームが、その、内側から突き上げる、あまりにも温かく、あまりにも強大な生命の奔流の前に、まるで薄いガラスのように、音もなく、粉々に砕け散った。
聖浄樹の枝という枝に、無数の、光の花が咲き乱れる。その花弁から、魂を浄化する、神聖な音楽が、聖域全体に響き渡った。
やがて、光が収まった時。
そこにあったのは、もはや、ただの苗床ではなかった。
一本一本の木が、穏やかな光を放ち、地面には、色とりどりの光る花が咲き乱れる、神々の庭園そのもの。
ミカエラは、その、あまりにも神々しい光景の中心で、ただ、立ち尽くしていた。
彼女の聖剣は、いつの間にか、その手から滑り落ちていた。
(……なんだ、これは……)
彼女の脳裏に、教会の、冷たく、荘厳なだけの石の聖堂が浮かぶ。
(私が、生涯をかけて求めてきた『聖域』は、こんな、冷たい石の中にはなかった。ここにあったのだ。この、名もなき辺境の、温かい土の中にこそ……)
彼女が信じてきた「正義」が、目の前で、より大きく、より温かい「真実」の前に、完全に、溶かされていく。
彼女が探し求めていた神は、天にはいなかった。目の前で、血を流し、仲間を守るために立ち続けた、この、名もなき男の、その魂の中にこそ、確かに、宿っていたのだ。
**彼女は、ゆっくりと、その場に膝をついた。それは、敗北ではない。数十年ぶりに、本当の「神」の御前にひれ伏す、敬虔な信徒の、あまりにも自然な祈りの姿だった。**
「……ああ……」
ミカエラの、サファイアの瞳から、ぽろ、ぽろ、と、大粒の涙が、止めどなく溢れ出した。
それは、敗北の涙ではない。
本当の「神」に出会えた、敬虔な求道者の、あまりにも純粋な、歓喜の涙だった。
「……そう、でしたか。これ、が……あなたが、見せたかった……」
その、涙する聖女の姿を、その目に焼き付けたアルフォンスは、自らの役目が終わったことを悟ると、満足げに微笑み、静かに、意識を手放した。
崩れ落ちるその体を、駆け寄ってきたローランとリオンが、固く、固く、支えた。
その、瞬間。
遥か後方の屋敷。眠り続けるアークの部屋で。
雪のように真っ白な髪の少年が、その唇に、穏やかな、誇らしげな笑みを浮かべた。そして、その閉じた瞼から、一筋だけ、温かい涙が、静かに流れ落ちた。
弟の魂は、確かに、見ていた。
兄が、命を賭して成し遂げた、最高の奇跡の、その全てを。
**そして、その温かい涙が、枕元の月光樹の根に、そっと染み込んだ、その瞬間。**
**眠るアークの、雪のように真っ白だった髪。その、こめかみの一筋だけが、まるで夜明けの光が差したかのように、懐かしい、陽光の金色を、ほんのわずかに、取り戻していた。**
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