第91話:揺らぐ聖女と、決死の剣
静寂。
神罰の聖槍が、それを遥かに凌駕する『生命の大盾』の前に霧散した戦場は、両軍の兵士たちが言葉を失い、ただ、目の前で起きた人知を超えた奇跡に立ち尽くす、絶対的な静寂に包まれていた。
最初に、その沈黙を破ったのは、アルフォンスの、魂の雄叫びだった。
「――見ろ! 聞け! 我らが弟、アークは、眠りながらも、我らと共に在る! この陽だまりは、彼の魂そのものだ! 神を騙る偽善者どもに、この聖地は、一寸たりとも明け渡さん!」
その声は、恐怖に凍りついていた『陽だまりの守り手』たちの心を、内側から再び燃え上がらせる、不屈の炎となった。
「「「おおおおおおおっ!!」」」
地鳴りのような歓声が、辺境の空に響き渡る。
一方、神殿騎士団の本陣。
ミカエラは、自らの信仰の根幹を揺るがす光景に、ただ呆然と、その場に立ち尽くしていた。
副官であるサー・レジスが、狼狽した声で叫ぶ。
「ミカエラ様! い、今のまごうことなき異端の妖術! 我が聖槍を無効化するなど、悪魔の所業に違いありませぬ! 今すぐ、全軍で総攻撃を!」
だが、ミカエラは、その言葉に、静かに首を横に振った。
彼女のサファイアの瞳には、恐怖も、憎悪もなかった。ただ、自らの理解を遥かに超えた、あまりにも神聖で、あまりにも温かい「理」を前にした、純粋な**『畏怖』**だけがあった。
(……違う。あれは、穢れた妖術などではない。私が、幼い頃から夢に見てきた、全ての生命を、ただ、優しく包み込む、原初の、大いなる『祝福』の光そのもの……。ならば、なぜ。なぜ、神は、教えにない奇跡を、この異端の地に、顕現させたもうたのか……)
彼女の、一点の曇りもなかった信仰心に、初めて生まれた、小さな、しかし、確かな亀裂。
「……退かぬ」
ミカエラは、自らの迷いを振り払うように、静かに、しかし、力強く言った。
「あの奇跡の正体を、この目で見届けるまでは。神が、我に与えたもうた、この試練から、私は決して退かぬ」
彼女は、戦術を、根本から変えた。
「全軍、後退。村から距離を取り、完全包囲網を構築せよ」
騎士団が、蜘蛛の子を散らすように後退していく。村に、一時の安堵の空気が流れた。だが、ローランだけが、その、あまりにも不気味な敵の動きに、眉をひそめた。
「……いかん。あの聖騎士、力押しを諦めた。何か、別の、より厄介な手を打ってくるぞ」
その予感は、最悪の形で現実のものとなる。
丘の上に再集結した神殿騎士団の中心で、ミカエラが、馬から降り、大地に膝をついた。彼女は、その白銀の長剣を、大地に深く突き刺すと、天を仰ぎ、祈りを捧げ始めた。
彼女の全身から、これまでとは比較にならない、膨大で、そして、どこまでも清浄な聖なる魔力が、オーラとなって立ち上る。
「――大いなる精霊よ。この、穢れし大地を、汝の、原初の姿へと還し給え。**『聖域創生・改』**!」
ミカエラの祈りに応え、大地が、鳴動した。
神殿騎士団が包囲する、村の周囲の地面から、無数の、金色の光の柱が、天へと立ち上る。光の柱は、上空で互いに繋がり、村全体を覆う、巨大な、光のドームを形成した。
その光景は、一見すれば、神々しいまでの、祝福の光景。
だが、村の内側では、地獄が始まっていた。
「アルフォンス様! 大変です!」
フィンの、悲鳴のような声が響く。
聖浄樹の苗床。アークの奇跡の象徴である、あの生命力に満ち溢れた作物の葉が、**まるで生命の色そのものを、無慈悲に漂白されるかのように、急速に白く、そして枯れた灰色へと変じていく。**
村を守っていた『茨の城壁』もまた、その鋭い棘を内側へと丸め込み、**まるで主の奇跡を否定するかのように、力なく朽ち果てていく。**
ミカエラの『聖域』は、瘴気を浄化するものではない。**アークが育んだ「生命の理」そのものを、自らが信じる「聖なる理」で、根こそぎ上書きし、塗りつぶしていく**、あまりにも傲慢で、絶対的な焦土作戦だったのだ。
領主の屋敷に、絶望的な空気が満ちていた。
「このままでは、数日……いや、もって二日ですな。村の生命線である畑が、完全に死に絶える」
ローランの、苦渋に満ちた分析。エルフの長老も、難しい顔で頷くしかない。
仲間たちが、次の有効な手を、誰一人として見つけ出せずにいる、その時だった。
「――策を弄している時間はない」
アルフォンスが、静かに、しかし、その場にいた全員の魂を震わせるほどの、覚悟を込めて言った。
「蛇の頭は、一つだ。俺が行って、ミカエラの首を獲る」
「無謀です、アルフォンス様!」
ローランが、即座に反対した。「敵本陣には、百を超える騎士が、鉄壁の守りを固めている! それは、ただの犬死にですぞ!」
「犬死にで、結構!」
アルフォンスは、ローランの目を、真っ直ぐに見据え返した。
「だがな、ローラン殿。もし俺がここで何もしなければ、アークが目覚めた時、あいつは何て言うと思う? きっと、『僕のせいで、ごめんね』って、あいつは、また一人で全部背負って、自分を責めるんだ」
アルフォンスは、一度、言葉を切った。その瞳には、弟を想う、あまりにも深い愛情が宿っていた。
「俺は、もう、あいつにそんな顔はさせたくない。だから、俺は、アークが目覚めた時に、あいつに胸を張って、こう言ってやるんだ。『お前が命がけで創った世界は、この俺が、命がけで守り抜いたぞ』ってな。それが、兄である俺の、たった一つの、矜持だ」
彼の、あまりにも気高い、兄としての、そして、一人の男としての覚悟。
その魂の輝きを前に、もはや、誰も、言葉をかけることはできなかった。
その夜。
月明かりすらない、闇夜。
アルフォンスは、この村が誇る、最高の**『影』**二人だけを伴った。
千年の森を知る、エルフの弓兵長リオン。
王都の闇を駆け抜けた、人の域を超えた斥候カエル。
**たった三騎。**
だが、その三つの魂が放つ覚gos覚悟の光は、丘の上に陣取る百の軍勢よりも、遥かに強く、そして、気高かった。
彼らが目指すは、丘の上に煌々と灯りが灯る、神殿騎士団の本陣。ただ一点。
眠る弟に、心の中で、静かに別れを告げる。
(……見てろよ、アーク。今度は、兄ちゃんが、お前にとっての、最高の英雄になってやるからな)
兄は、自らの命を賭した、最も無謀で、最も気高い戦いへと、その身を投じていくのだった。
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