第73話:沈黙の都と、空気根の聖域
#### 光の道標
浄化された船乗りたちの魂が遺してくれた、光の航路。
『シルフィード号』は、その、まるで天の川が海に映ったかのような、美しい道を、静かに、滑るように進んでいった。
鉛色の空と、黒い海の静寂。その中にあって、その光の道だけが、この世界に唯一残された、希望そのものであるかのようだった。
どれほどの時間が経っただろうか。
霧の遥か彼方に、そびえ立っていたはずの、古代遺跡の塔が、いよいよ、その全貌を現した。
それは、一行が想像していたよりも、遥かに、遥かに、巨大だった。天を突く塔の頂は、厚い嵐雲の中に隠れて、見ることすらできない。その壁面には、今は失われた、高度な文明を思わせる、精緻な彫刻が施されている。
「……これが、『水の都』……」
ローランが、その壮大さと、そこに宿る、数千年の哀しみに、息を呑んだ。
光の道は、その巨大な塔の、遥か足元で、終わりを告げていた。
そして、その光は、ただ一点――黒く、どこまでも深い、**海の底**を、静かに指し示していた。
#### 生命なき水
「……嘘だろ。入り口は、この真下だってのか」
アルフォンスが、船縁から、ゴクリと喉を鳴らしながら、暗い水底を覗き込む。
ルナが、そのサファイアの瞳を、悲しげに揺らめかせた。
『ええ。我が主たちの都は、遥か古の地殻変動によって、その大半が、海の底へと沈みました。第二の破片は、その、最も深い場所にある、王族の霊廟に……』
その言葉を聞き、ローランの顔から、初めて血の気が引いた。「……これまでですな。我々は、鳥ではない故に、空では戦えぬ。魚ではない故に、水中では、ただの骸。これは、我々には、挑む資格すらない戦場だ」
その、賢者の絶望的な分析を、裏付けるかのように。
船の周囲の、黒い海水が、まるで意志を持ったかのように、不自然に盛り上がり始めた。
それは、やがて、いくつもの、透き通った、人型の輪郭を形作っていく。その、水の腕が、水の脚が、そして、その顔があるべき場所には、ただ、禍々しい紫色の光が、鬼火のように灯っていた。
陰の樹の破片が放つ瘴気によって、海水そのものが、擬似生命と化した、この遺跡の門番**『生命なき水』**。
一体が、その水の腕を、槍のように尖らせ、シルフィード号へと射出した。
ズドオオオン!
アルフォンスが、咄嗟に盾で防ぐが、ただの水とは思えぬ、凄まじい衝撃に、甲板の上を数歩、後退させられる。
「くそっ、キリがねぇ! 海全体が、敵みたいなもんじゃねぇか!」
#### 大地の創造
絶望が仲間たちの顔を覆う中、アークだけが、その瞳に、挑戦者の、いや、世界の理そのものに喧嘩を売る、創造主の光を宿していた。彼は、黒い海面を、まるで自らがこれから描き変える、ただのキャンバスであるかのように見下ろすと、不敵に笑った。
「――この海の底に、僕らの『庭』を、創ればいい」
アークは、懐から、この日のために『種子合成』で生み出しておいた、一握りの、特殊な種子を取り出した。
それは、前世の知識――マングローブの生態系を元に、聖浄樹の成長速度と、竜骨聖樹の強靭さを掛け合わせた、究極の耐塩植物**『マングローブの原種』**。
彼は、その種子を、遺跡の入り口を囲むように、船上から、黒い海へと、惜しみなく投げ入れた。
そして、シルフィード号のマストに手を触れ、自らの魔力を、最大限に増幅させると、その魂の全てを、海へと向かって、解放した。
「大地に根を張り、天に息吹を求めよ! そして、この死せる海の底に、生命の聖域を、顕現させよ! **『空気根の聖域』**!」
次の瞬間、世界が、震えた。
アークが種子を蒔いた、海底そのものが、地響きを立てて隆起する。
そこから、何百、何千という、白く、強靭な「根」が、天を目指して、爆発的な速度で、突き出してきたのだ。
根は、互いに絡み合い、精緻なドームを編み上げながら、遺跡の入り口の周囲を、完全に覆い尽くしていく。
そして、その無数の根の先端が、海面を突き破り、大気中の「空気」を、まるで巨大な肺のように、ごぼごぼと、音を立てて、吸い込み始めた。
吸い込まれた空気は、根を通じて、海底のドームの内部へと、送り届けられる。
ドーム内部の海水が、その圧倒的な空気圧によって、外側へと、まるでモーゼの奇跡のように、押し出されていく。
シルフィード号の甲板にいた仲間たちは、言葉を失っていた。眼下で、黒い海が割れ、その底に、光と緑に満ちた、新たな『大地』が生まれていく。それは、もはや魔法ではない。天地創造の神話そのものを、目の当たりにしているかのようだった。
アークは、海を割り、水底に、自らの「大地」を、創造してみせたのだ。
#### 水中の聖域へ
「……行こう」
一行は、シルフィード号から垂らされた蔓を伝い、その、水中の聖域へと、降り立った。
彼らの頭上では、黒い海水が、まるでガラスの天井のように、不気味に揺らめいている。
そして、目の前には、空気と、大地を取り戻した、荘厳な、古代遺跡の入り口が、数千年の沈黙を破り、その姿を現していた。
その、あまりにも巨大で、美しい石の扉を前に、アルフォンスが、アークを振り返った。
「……着いたな。それで、今度は、どうやってこの扉を開けるんだ?」
アルフォンスは、その弟の、あまりにも楽しげな、そして、どこか遠くの共犯者とだけ通じ合っているかのような笑みに、一瞬、呆気に取られた後、やれやれと首を振った。(……もう、驚かんぞ。絶対にだ)
その問いに、アークは、悪戯っぽく笑って、こう答えた。
「大丈夫だよ、兄さん。この扉を開けるための『鍵』は、もう、とっくの昔に、ディアナさんが用意してくれているから」
新たな謎。そして、もう一人の共犯者の、遠い知略の影。
一行は、ついに、第二の破片が眠る、本格的なダンジョン攻略へと、その足を踏み入れるのだった。
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