第72話:船の墓場と、生命の鎮魂歌
#### 生きた翼
『シルフィード号』の航海は、一行が知る、あらゆる船旅の常識を超越していた。
風がない日には、アークの意志に応え、マストから生えた巨大な葉が、自ら風を起こし、船は滑るように水面を進む。夜になれば、船体に共生させた月光苔が、穏やかな光を放ち、周囲の海を、幻想的に照らし出す。
アークが船首に立てば、シルフィード号の若々しい「意識」が、嬉しそうに彼の魂へと流れ込んでくる。まるで、生まれたばかりの子馬が、主人と心を通わせるかのように。
この船は、もはや乗り物ではない。共に嵐の海へと挑む、かけがえのない「仲間」だった。
#### 静寂の海域
数週間の航海の果て。
賢者の鱗が、ひときわ強い光を放ち始めた、その時だった。
世界が、音を失った。
それまで船体を叩いていた波の音が、ぴたりと止み、帆を揺らしていた風が、完全に凪いだ。
空は、どこまでも続く、重い鉛色の雲に覆われ、太陽の光は、一筋も届かない。そして、海。それは、もはや蒼くはなかった。まるで、巨大な硯に、墨を流し込んだかのように、どこまでも黒く、そして、不気味なほどに、静まり返っていた。
肌を撫ぜる空気は、潮の香りではなく、忘れ去られた地下室のような、冷たく、湿った匂いがした。そして、その静寂は、耳鳴りがするほどに深く、まるで世界そのものが巨大な棺桶になったかのような、圧迫感を伴っていた。
「……ここが、『嵐の海域』……?」
アルフォンスが、呆然と呟く。嵐など、どこにもない。だが、この、生命の気配が完全に死に絶えた、絶対的な静寂こそが、何よりも雄弁に、この海域の異常性を物語っていた。
やがて、乳白色の濃い霧が、音もなく船体を包み込み始める。
そして、霧の向こうから、ゆっくりと、無数の、巨大な影が姿を現した。
マストは折れ、船体には巨大な穴が空き、帆は見るも無残に引き裂かれている。それは、この呪われた海に挑み、そして敗れ去った、数多の船の、巨大な墓標だった。
ここは、嵐の海ではない。時が止まった、広大すぎる**『船の墓場』**だったのだ。
#### セイレーンの霧
その、不気味な静寂を破ったのは、どこからともなく聞こえてくる、か細く、そして、どこまでも物悲しい「歌声」だった。
それは、一人の声ではない。何十、何百という、男たちの、無念の合唱。
『……帰りたい……故郷へ……』
『寒い……冷たい……母さん……』
「くっ……! 頭の中に、直接……!」
カエルが、苦悶の表情で、耳を塞ぐ。
ローランも、その顔を、険しく歪めていた。
「いかん! これは、この海で死んだ船乗りたちの魂が、霧に宿った『セイレーンの霧』! 生者の魂を、霧の奥にあるという、幻の安息の地へと引きずり込む、魔性の歌だ!」
歌声は、仲間たち一人ひとりの、心の最も柔らかな部分へと、容赦なく侵食していく。
アルフォンスには、『もう重い盾を背負わなくていい、誰も守る必要などないのだ』と。ローランには、『長き戦いの人生は終わった、安らかな眠りがお前を待っている』と。カエルには、『お前を拒絶する者などいない、永遠に穏やかな場所へ』と。
アルフォンスの、固く握りしめていた斧を持つ手が、ふっと、力を失いかけた。その瞳から、闘志の光が、急速に失われていく。
「……そうか……もう、いいのか……」
#### 生命の鎮魂歌
「兄さん! 目を覚まして!」
アークの叫びも、もはや、仲間たちの魂には届かない。
このままでは、全員、心を奪われる。
アークは、この、あまりにも悲しい「死者の歌」に対し、力で対抗することを、選ばなかった。
(……違う。彼らは、敵じゃない。故郷に帰れず、誰にも弔われることなく、この冷たい海で、ずっと、ずっと、寂しかっただけなんだ。だったら、僕がやるべきことは……)
アークは、シルフィード号の中央マストの根元に、深く、両手を押し当てた。
そして、自らの魂を、船の核である『竜骨聖樹』と、相棒ウルが持つ世界樹の記憶に、完全に共鳴させる。
「響け! この哀しき海に、生命の祝福を! **『世界樹の大聖歌』**!」
次の瞬間、シルフィード号全体が、一つの巨大な楽器と化した。
船体が、荘厳な、チェロの低音のように、深く、優しく、震え始める。マストが、まるでハープの弦のように、澄み切った、高らかな音色を奏でる。
それは、ただの音楽ではない。
船体の深い響きは、生命を育む、温かい大地の鼓動を。マストが奏でる旋律は、生命を祝福する、陽光の賛歌を。そして、アークの魂から溢れ出す、優しき魔力の波動が、それら全てを調和させ、一つの壮大な交響曲を紡ぎ出す。
**「生命の理」そのものが凝縮された、魂への鎮魂歌**。
アークが奏でる「生命の歌」は、船乗りたちの「死者の歌」を、打ち消さなかった。
それは、数千、数万の、孤独な魂たちの、あまりにも悲しい旋律を、まるで、優しく抱きしめるかのように、包み込み、調和していく。
『……ああ、温かい……』
『……これが、光……』
怨嗟に満ちていた歌声は、次第に、安堵と、感謝の響きを帯びていく。
やがて、歌声が、完全に止んだ。
一行を包んでいた濃霧が、嘘のように、すうっと晴れていく。
そして、霧が晴れた海の上には、無数の、青白い光の玉――浄化された船乗りたちの魂が、静かに浮かんでいた。
魂たちは、アークに向かって、一度だけ、感謝の光を瞬かせると、まるで、天へと昇るかように、ゆっくりと、空へと消えていった。
その、消えゆく間際。半透明だった彼らの姿が、一瞬だけ、生前の、日に焼けた屈強な船乗りの姿を取り戻したように見えた。そして、その船長と思しき男が、アークに向かって、深く、そして、晴れやかな表情で、敬礼をした。
後に残されたのは、絶対的な静寂。
そして、魂たちが消えた後の海面に、まるで道標のように、一筋の、光り輝く航路が、遥か彼方の、古代遺跡の塔へと向かって、まっすぐに伸びていた。
呪われた海の魂を、鎮め、そして、認めさせた一行。
彼らは、その、魂たちが遺してくれた光の道を、静かに、そして、力強く、進み始めるのだった。
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