第64話:世界の記憶と、歴史を問う賢者
#### 時の回廊
『真実の川』を越えた先は、もはや空間だけでなく、時間という概念すらも曖昧な、異質な世界だった。
一行の横を、既視感のある巨大な甲虫――ジャイアント・ロックバグの、実体を持たない幻影が、悠然と通り過ぎていく。頭上では、天空の吊り橋で戦ったゲイル・ハーピーとは比較にならないほど巨大な、古の猛禽の影が、音もなく空を舞う。
「……これは」ローランが、戦慄に声を震わせた。「この森は、過去にこの地に生きた、全ての生命の『記憶』を、留めているというのか……」
『理の森』。それは、星そのものが紡いできた、悠久の歴史を記録する、生きた図書館だったのだ。
一行は、畏敬の念と、肌を粟立たせるような緊張感の中、ついに、その図書館の中心へとたどり着いた。
霧の向こうにそびえ立つ、天を突くほどの、巨大な枯れ木。
伝説の**『世界樹の原木』**。
#### 最後の門番
だが、その麓へと続く最後の道を、一人の、静かなる存在が塞いでいた。
それは、魔物でも、ゴーレムでもない。
風化した樹皮の衣をまとい、無数の木の根が絡み合ってできた、荘厳な玉座に、深く腰掛けた、一人の賢者だった。その顔は、まるで古木の仮面のように、一切の感情が読み取れない。いや、それは、賢者が玉座に座っているのではなかった。玉座そのものが、賢者の形を成しているのだ。彼こそが、この『世界樹の原木』へと至る、最後の門そのものであった。
賢者は、ゆっくりと、その顔を上げた。その瞳があるべき場所には、ただ、森の深淵を思わせる、昏い闇が広がっていた。
『我は、理を識る者の声を聞き、理を語る者に道を開く者。**記憶の番人**』
その声は、風でも、音でもない。思考そのものが、直接、一行の脳に響き渡った。
『救い手の子よ。汝、この星を、母なる樹を癒やさんと願うならば、最後の問いに答えよ』
番人は、その昏い瞳で、アークを、ただ一人、真っ直ぐに見つめた。
『――この世界が、なぜ病んだのか。その始まりの**“理”**を、汝の言葉で、我に示せ』
#### 記憶樹の編纂
それは、あまりにも壮大で、あまりにも難解な、究極の問いだった。
アルフォンスも、ローランも、その問いの重さに、言葉を発することすらできない。
仲間たちが息を呑んで見守る中、アークは、静かに一歩、前へと進み出た。そして、その場に、深く、瞑目した。
彼の魂が、再び、森の深淵へと潜っていく。
だが、今回は、ただ同調するだけではない。
彼の魂そのものが、一つの巨大な「織機」となり、森に散らばる、無数の、色とりどりの「記憶の糸」を、手繰り寄せ始めた。
アークの精神世界は、無数の記憶の星々が輝く、広大な宇宙と化していた。彼は、その星々を繋ぐ、因果という名の光の糸を、一本、また一本と、その魂で掴み、編み上げていく。ドワーフの欲望の重さに歯を食いしばり、エルフの悲しみの冷たさに心を凍らせながら。こめかみの白い髪が、膨大な情報の奔流に呼応するかのように、淡い光を放って脈動していた。
「**『記憶樹の編纂』**!」
#### 喪失という名の綻び
どれほどの時間が経っただろうか。
ゆっくりと、アークが、その瞼を開いた。
彼の瞳には、数万年分の歴史の重みが、深く、深く宿っていた。
彼の頬を、一筋の、涙が伝った。それは、彼自身の涙ではない。彼が垣間見た、数万年分の、名もなき生命たちの涙だった。
彼は、記憶の番人に向かって、自らが編纂した「物語」を、静かに語り始めた。
「……この世界が病んだ、本当の始まり。それは、マナの枯渇でも、人々の悪意でもない。全ての始まりは……**『喪失』**です」
アークは、紡ぎ出した物語を、確信と共に告げる。
「この世界には、かつて、二本の、対なる世界樹が存在した。生命を育む、我らが知る『陽の世界樹』と、魂を還し、循環を司る、『陰の世界樹』が」
「ですが、遥か古の時代、何らかの理由で、『陰の世界の世界樹』が失われた。対なる存在を失った『陽の世界樹』の魂には、決して癒えることのない『孤独』と『悲しみ』という名の綻びが生まれた。そして、その魂の傷口から、生命の循環からこぼれ落ちた澱のように、最初に生まれたのが……『瘴気』の理だったのではないでしょうか」
#### 神話への扉
アークの答えに、玉座の賢者は、数万年ぶりに、その身を、微かに震わせた。
表情のない木の仮面。その、昏い闇の奥で、まるで、遠い過去を懐かしむかのような、ごく微かな、光の揺らめきが灯った。
『……陰の樹。……その名を、口にする者が、まだ、この星におったとはな』
長い、長い沈黙の後。
記憶の番人は、ゆっくりと、その玉座から立ち上がった。
『その理、不完全ながら、真実の一端に触れている。よかろう、救い手の子よ。我が主……『最初の眷属』に、まみえる資格、汝にはある』
番人が、その手に持った、古木の杖を、そっと地面に打ち付ける。
すると、一行の目の前にそびえ立つ、『世界樹の原木』の、巨大な幹の表面が、まるで水面のように揺らめき、その奥へと続く、温かい光に満ちた、トンネルのような入り口が、静かに開かれた。
その光の中から、形容しがたいほどの、懐かしく、そして、悲しい『魂の匂い』が、溢れ出してきた。それは、ウルがずっと追い求めてきた、母なる樹の匂いの、原点だった。
『行け。そして、聞くがよい。この世界の、始まりと、これから訪れる、終わりの物語を』
ついに、世界の核心へと至る、最後の扉が開かれた。
アークたちは、ゴクリと喉を鳴らすと、神話の賢者が待つ、その光の中へと、決意を胸に、足を踏み入れるのだった。
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